「敬徳書院」の扁額のこと(五)

 読む人によってはどうでもいいような話が、延々と続いている(ような気がする)。これぞ典型的な年寄りの長話というものであろう(笑)。自分でも呆れるほどの締まりのなさである。石原さんが猪本さん宅に出向いて「敬徳書院」の扁額を見せてもらい、そのことを彼のブログの記事にしたのが、2013年の4月だということは先にふれた。

 その直後となる2013年の5月に、猪本さんはこの扁額に関して『マイスキップ』の148号にエッセーを寄稿している。おそらく、彼は石原さんに頼まれて書いたのであろう。このエッセーの載った『マイスキップ』を、私は猪本さんからもらった。そのタイトルは、「歴史の支脈で」となっており、「佐野文庫”敬徳書院”扁額の行方」という副題が付けられていた。

 「歴史の支脈で」などといったタイトル自体が、ある種のこだわりを感じさせないでもない。何となく石原さん好みの表現のようにも思われるのである(笑)。猪本さんの寄稿文は、以下のようなものであった。かなり長くなるが、本題と深く関わった内容が含まれているので、全文を掲載しておきたい。

 昭和30(1955)年15歳を迎えた小正月のこと、旧西越村(出雲崎町妙法寺)の友人の家に泊まった。この家は土塁が廻してあって、戊辰戦争時はこの土塁を挟んで鉄砲を打ち合ったという。土塁で隠れるような低い建物で江戸時代中頃の家だった。居間は板の間で囲炉裏には薪が燃え、天井の隅に掛けられたの鑓(やり)の柄に固餅(かたもち)が干してあった。蒲団にもぐりこんだものの、どんど焼きの竹のはぜる音などがしてなかなか寝つけなかった。

 翌朝、荒れる海を見に村はずれまでいくと(長町にあった福寿荘と同じような)杉柾の塀を建て廻した家があり、文人門の桁には畳一畳ほどもある欅板に、なにやら白い文字が書いてある。中をのぞくと銅板萱の寝殿造りの立派な家が見える。これが廻船問屋“泊屋”佐野家の屋敷であった。

 佐野家は幾艘もの北前船で、越後の米や金物を大阪に運び、帰りは阿波で藍を、九州で伊万里の焼物、安来で鋼(はがね)を仕入れ、こんどは酒田、秋田、松前まで足を延ばすと港々で売買をくり返し、一回の航海で船主は一生楽に暮せるほどの財を得たと言われた。

 幕末生まれの喜平太がこの佐野家を継ぐと、生来学問好きからその財で膨大な漢籍類を蒐集、現在「佐野文庫」と呼ばれる蔵書の総数は和漢の典籍5,000点余、地方古文書は約2,800点に及ぶ。さて代が替わりいざ蔵書を手放そうという時のこと、聞きつけた東京神田の有名な古籍商が仲介者である古美術商に「買取り成功時には100万円」の謝礼を提示し交渉を依頼したといわれている。

 当時100万円あれば25坪(約82㎡)ほどの家が建つ金額だったが「散逸すれば二度と集められない。地元新潟に残したい」と断り、新潟大学に寄贈するという当主に、古美術商は無償ではあまりに不憫に思われ、当時の大学学長に頼んで予算をつけてもらったそうである。

 近年かつての佐野家の前を通ったところ、かつての広大な地所は一面のススキが原で、なに一つ残っていなかった。なお、入口の文人門は小松パーラーが悠久山の池の辺りに店をだしたおりに移築されたが、早々に店を閉めて以降その行方はわからない。桁に掲げられていた扁額の題字は副島種臣の書で「敬徳書院」と認めてあり、これはいかなる経緯を辿ってかわが手元に流れ着いた。「敬徳書院」は佐野文庫の名称である。

 以上が猪本さんの書かれたエッセーの全文である。猪本さんに会って話を聞いた折に、彼の手元に流れ着いた経緯についても尋ねてみたが、彼の話によると、たまたま長岡のある古道具屋の店先に無造作に置かれていた扁額を見付け、昔出雲崎で見た額だと思って、買い取ったとのことであった。しかしながら、その古道具屋にどのようにして流れ着いたのかはわからないとのことだった。

 古道具屋の店主は、こんなに大きくて重い額は置いてみても売れそうにないので、表面を削ってテーブルにでも作り直そうかと考えていたらしい。たいへん大きな欅の一枚板なので、加工すればそれなりの値段で売れるとでも思ったのかもしれない。テーブルにされる前に、事情を知る猪本さんに発見され引き取られたのは、私にとっては幸いであった。

 自分のことを棚に上げてこんなことを言うのもどうかとは思うが(笑)、「敬徳書院」の扁額を古物商から買い取った猪本さんも、いささか風変わりな人物である。彼は長岡でクリーニング店を経営しているのだが、もらった名刺や『マイスキップ』の執筆者紹介欄を見ると、合気道や杖道(杖を用いる武術のこと)にまで手を染めており、ともに3段だということである。

 美術品に関してはいわゆる「目利き」を自負されているようで、気になった物をあれこれ買い求めて転売もされているようだった。お目にかかった折に、いくつかの絵も見せてもらった。私は「敬徳書院」の扁額にしか興味はなかったもので、彼の話には今一つ身が入らなかったのであるが…(笑)。

 長岡に出掛けた際には、もしもこの額を譲ってもらえるのであれば、手付金だけ渡して自分のクルマででも運ぼうかと思っていたのであるが、その大きさといい重さといい、とてもとても私のような人間の手に負える代物ではなかった。室内でちょっと移動するのさえたいへんで、年寄りの私などは、下手をすると腰を痛めそうな予感さえした。

 この荷物が運送業者の手によって私の家に運び込まれたのは、7月11日のことである。いかにも力のありそうな若者が、たった一人で、扁額を背負って階段で5階まで運び上げてくれた。ようやくにして「敬徳書院」の扁額が手に入ったという喜びもあってか、黙々と5階まで上がってくる若者の姿に感銘らしきものさえ覚えた(笑)。

 こうして「敬徳書院」の扁額は我が家に辿り着いたのである。5階の畳の部屋に立て掛けてあらためてまじまじと眺めていたら、歴史の風雪に耐え抜いてきた何とも立派な額のように思えてきた。その後、この額を入手したことを切っ掛けに、「敬徳書院」と名付けたホームページを立ち上げ、そこで毎週のようにブログを書き始めることになったというわけである。

 「敬徳書院」という名のサイトを公開したのは、2018年の8月21日である。ホームページをプロの方に作成してもらってブログを始めることだけであれば、自分のような人間にも出来そうに思えたのであるが、始めたブログを続けていくことはやはりなかなかたいへんなことであろう。私は雑文を書くことが好きな人間ではあるが、それだけでは続けていくことができないようにも思われた。

 昔私が大学生となって上京していた頃、時折父が手紙やハガキをよこした。いつもいつも、しっかり勉学に励むように、母に便りを出すようにと書かれていた。学生運動にのめり込んで生意気だった私は、軽い鬱陶しささえ感じないではなかったが、その中に「継続は力なり」(ほかに「知は力なり」等もあったような気がする)という諺らしき言葉が書かれていたことがあった。今この文章を綴っていてふと思い出した。

 あれこれ苦労して、またたっぷりと時間も掛けて、そしてまた大枚をはたいて「敬徳書院」の扁額を入手したので、そのことがブログを継続する覚悟とでも言うべきものを生み出しているのかもしれない。私のことだから、第二の人生に向けて背水の陣を敷こうとしていたのであろう(笑)。

 たしかに「継続は力なり」と言って間違いではないが、他方では、「年寄りの冷や水」とならぬよう気を付けることも忘れてはなるまい。無理は禁物である。老後の道楽に過ぎないと何時も自分に言い聞かせているのは、そのためである。そんなゆったりした心持ちで、これからもブログを続けていきたいと思っているのであるが…。