「壊れる」ということ

 今回は、前回の投稿の続きのようなものを書いてみることにした。8月末に、シリーズ「裸木」の第4号となる『見果てぬ夢から』ができてきたので、コロナ禍にめげず私が元気でいることの「証拠品」として、何人かの知り合いに贈呈した。遅ればせの「中元」といったところであろうか。

 ところで、その少し前の出来事になるが、上の娘から残暑見舞いと称して「クラフトビール」が送られてきた。クラフトというのだから、量産のビールとは違って、職人技のビールとか、手作りのビールとか、地元限定のビールといったことになるのだろう。何となく貴重品であることを匂わせるようなネーミングではある(笑)。それはともかく、送られてきたビールは味に独特のコクがあってなかなか旨かった。

 では、私が知り合いに贈呈した冊子は、いったいどんな残暑見舞いとなっているのであろうか。気になって少しばかり考えを巡らしてみた。自分出版社である「敬徳書院」で作った冊子なので、それなりの「手作り」感はある。また、「地元限定」(正確には知り合い限定ということであるが)で贈呈しているので、この辺りも似ていなくはない。

 しかしながら、「職人技」の文章を紡いでいるなどとはとても言えないし、ましてや「貴重品」とは程遠い。ビールならもらえば嬉しいが、『見果てぬ夢から』では何の有難味もない。只でもいらないと言われる可能性もある(笑)。そんなこともあって、ついつい誰に贈呈したものやらなどと余計なところに気を回す羽目に陥る。

 この冊子を印刷してもらっているエスコムの犀川さんとの関係については前回触れたが、その彼女から、しばらく前に近況報告も兼ねた電話をもらった。家の中も少しずつ落ちついてきたとのことで、私もほっとしたのであるが、そんな話の中で、「労研が今取り壊し中なんですが、先生ご存知でしたか」と聞かれた。

 労働科学研究所(労研)が川崎市高津区菅生の地から引っ越したのは、もう何年も前になる。その後は無人の建物のまま放置されていた。ある時、誰もいなくなった労研に一人で出向き、進入を禁止した金網越しに眺めたことはある。青春時代を過ごした場所が懐かしかったからであろう。私は1970年の10月に入所し1985年の3月に退所したので、23歳から38歳までの15年間を労研で過ごしたことになる。この間に結婚し、子供が生まれそして死んだりした。そんな思い出深い場所だったので、専修大学を退職するまでは、大学に向かう途中にあった労研を、いつもチラチラとクルマの中から眺めていた。

 いつかはその建物も壊されることになることは、頭の中では分かっていたはずだが、犀川さんから現在壊されていることを教えてもらったので、最後にもう一度だけ眺めたくなった。何ともセンチな人間ではある(笑)。久方ぶりに労研の向かい側にある蕎麦屋に寄って昼食をとり、その後周りを散策してみた。バスの停留所も「労働科学研究所」から「菅生中学校」に変わっていた。金網越しに眺めた労研は、既に半分近くが取り壊されており、瓦礫にはブルーシートが掛けられていた。もうしばらくすれば跡形もなくなることだろう。その後に何が出来るのかは分からなかったが、宅地にでも造成されて売りに出されるのであろうか。

 先に労研で青春時代の15年間を過ごしたと書いたが、菅生の地で15年間働いたわけではなく、最初の1年は祖師ヶ谷大蔵にあった労研で働いた。たった1年いただけだったのに、そこも印象深い場所だった。私が最初に働き始めた場所だったからであろう。冬は達磨ストーブで、床は黒光りしていた。小さな研究所だったが、電話交換手の女性が二人もいたし、食堂もあった。私が働き始めた1年後には菅生の地に移転したので、しばらくしてここも取り壊された。昔の場所に一度だけ立ち寄ったことがあるが、跡地には立派なマンションが建っていた。

 以前あった建物がなくなって別の建物に変わっていたという体験は、よくあることであろう。福島の五月町にあった実家もなくなったし、転居した方木田の家や大森の家も今は立て替えられている。小学校や中学校、高校の校舎もすべて同様である。結婚して最初に住んだのは横浜の綱島にあった木賃アパートだったが、それもなくなった。老朽化したり用済みになれば、どんどん新しいものに替わっていく時代である。そんなわけだから、労研が取り壊されても当然のことであろうし、そのことだけでひどく心が動かされたというわけではない。

 私が労研の前に佇んで感傷的になったのは、そうした変化の有様を、進行途中のものとして直接目にしたからである。取り壊されつつある姿を見たのは、これが初めてである。「替わる」前には「壊れる」のであり、その「壊れる」ということが、過ごしてきた過去の時間を生々しく思い出させた。「壊れる」ことを目にするという体験から浮かび上がってくるのは、もちろん寂しさであるに違いないが、にも拘わらず、そこに流れていたのは、年寄りにとっての至福の時間であったようにも思われる。映画『ニュー・シネマ・パラダイス』にも映画館が「壊れる」シーンがあるが、それを思い出したりもした。

 たまたま『しんぶん赤旗』の日曜版(2020年9月6日号)を広げていたら、精神科医の中澤正夫がインタビューに答えて次のように語っている記事が目に留まった。そこには、「人間には”すばらしいこと”が二つあって、一つは、人生は一度きりという『命の一回性』を知って生きていること。もう一つは、時間は巻き戻せないという『時間の一回性』を知って生活していることです」とあった。私が「壊れる」ことに感じていたのは、もしかしたら中澤の言う二つの「一回性」だったのかもしれない。

 折角だからと、隣の菅生中学校の側から眺めたり、さらには、菅生神社の先の道を辿って労研のグランドの側に出てみたりした。昔はグランドから裏手の道に出られたのだが、その近辺は人も通れぬ状態で荒れ果てたままに放置されていた。労研には昔社宅があり、私も結婚前の一時期そこに住んだことがある。今は雑草が生えたグランドだが、ここでは運動会が催されたこともあったし、テニス大会も行われた。本館と渡り廊下で繋がれていた図書館・食堂棟はまだ残っていた。そこで行われた卓球大会も懐かしい想い出である。

 労研の食堂が財政難で閉鎖されてからは、昼飯を食べに同僚の鷲谷さんと近くの食堂によく出掛けた。クラフトビールならぬクラフトラーメンの店もあって、そこの生姜焼きもなかなか旨かった(笑)。二人で足繁く通ったものだが、その店はとうの昔になくなっていた。またゴルフ練習場の隣には、棟割り長屋風のいかにも年代物の建物があったが、これはそのまま残っていた。そこの一角にあった定食屋にもよく顔を出したが、今は飲み屋になっているようだった。

 取り壊し作業が完了し、廃棄物の撤去作業が済めば、菅生にあった労研の過去は跡形もなくなり、あとは想い出として繋がりのあった人々の記憶の中に仕舞い込まれていくのであろう。いろいろとお世話になった遠藤さんや増田さんも去年亡くなり、前所長の酒井さんも退任されたと聞いた。静かにしかし確実に時間は過ぎ去ってゆき、記憶もゆっくりと壊れてゆく、そんなことを感じさせた7月のある日の午後だった。