「労働の世界」の変容とその行方(四)

 第3章 疲弊する職場とその背景

 第1節 過剰な労働の蔓延

 非正社員は、低賃金のままで弾力的な労働力編成を可能にする存在であり、その意味では「使い捨て」の労働力として位置付けられているのであるが、では、そうした非正社員と比べて恵まれていると思われており、ジャーナリズムを賑わしてきた論者からは、その「高賃金」が指弾の対象ともされた正社員の状況はどのようなものであったのだろうか。まず取り上げるべきなのは、やはり過剰な労働即ち「働き過ぎ」をめぐる問題であろう。
 
 わが国の労働時間に対する法的規制はもともと弱かったが、新自由主義の改革はそれを更に弾力化させてきたと言えるだろう。始業時刻だけははっきりしているものの、仕事がいったい何時に終わるのかが不明な職場など今では珍しくもない。今日でも週の就業時間が60時間を超えて働く長時間労働者は400万人を超えているが、デフレ不況の真っ只中でも、過労死認定基準(発症直前月に100時間、または発症前2~6か月に月平均80時間を超える時間外労働に従事した者)を上回って働く「エンドレス・ワーカーズ」(小倉一哉)とも言うべき労働者が、やはり400万人を優に超えて存在していたことは、改めて注目に値しよう。景気の動向などとは無縁な長時間労働の蔓延である。

 こうした長時間労働に従事する労働者は、若年層や中堅層に集中している。「少数精鋭主義」や「即戦力重視」の強調が長時間労働に拍車を駆けてきたし、「裁量労働」の形式を取った長時間労働の拡大という現実もある。あるいはまた、余りにも若い労働者が管理職に「登用」され、労働時間管理の対象から意図的に除外されて、長時間労働に従事せざるを得ないといったケースも広がっている。サービス残業と呼ばれる不払い労働に対する是正指導額が2016年度に127億円に達していることから見ると、長時間労働に従事する労働者の裾野は更に広いと言うべきだろう。

 この20年ほどの間に、どの街でも馴染みの存在となったハンバーガーショップ、ファミリーレストラン、コンビニエンス・ストア、紳士服のチェーン店、消費者金融などの業種が急成長を遂げたのであるが、そうした分野の新興企業には、裁量労働と称して労働時間管理がルースであったり、肩書きとわずかの手当を与えて残業代を節約するいわゆる「名ばかり管理職」が跋扈していたりして、過酷な長時間労働の果てに店長などが過労死するといった事例が後を絶たない。

 1990年前後から、「毎月勤労統計調査」のような事業所調査では、不払い残業は労働時間に算入されないので過少申告になっているとの批判が広がり、個人調査によって労働時間を把握する「労働力調査」(あるいはより精度の高い「社会生活基本調査」)を用いるべきであるとの主張が力を得るようになった。「毎月勤労統計調査」では2008年の非農林業雇用者の年間就業時間は1,792時間であって、これだけ見ればこれまで政府が時短の目標としてきた1,800時間はクリアされたかのようであるが、「労働力調査」では2,127時間となるので、300時間を超えるような不払い残業が依然として存在している可能性がある。こうしたところにも、企業の存続や成長のためであれば、法違反をも辞さないというわが国企業の反「社会」的な姿が見え隠れしている。

 長時間労働は、労働者の健康を蝕むことによって過労死や過労自殺の悲劇をさえ生むのであるが、それとともに、「社会」の危機をもたらしていることを忘れるべきではなかろう。交通、医療、福祉、教育などの人間の生活に直接関わる社会サービス分野の「荒廃」は、長時間労働を核にした過酷な労働がもたらしたものであると言っても過言ではない。先の『働きすぎの時代』では、宅配便やトラック運輸業の超長時間労働(こうした業種では、平均の労働時間がすでに過労死ラインを超えている!)が、運転者の過労死や健康障害をもたらしているだけではなく、しばしば居眠り運転による交通事故を招いて、人命を損なうこともあると指摘されている。

 似たような事例は他にもある。医療ミスの背後には頻繁な深夜勤務を余儀なくされている看護師の過重労働があるし、医師不足も医師のあまりにも過密な労働抜きには考えられない。介護施設での慢性的な介護士不足や介護の手抜き、虐待なども、低賃金・長時間労働といった介護士の厳しい現場がもたらしているようにも思われるし、小・中学校での学級崩壊や校内暴力、いじめなどにも、疲れ果てて対応する力を失いがちな教員の姿がちらついているのである。

 いわゆる「感情労働」分野(看護、介護、教育、接客など)での労働が過酷であることは、もはや周知の事実となりつつある。労働科学の知見を度外視するほどの働き過ぎは、多くの労働者を疲弊させて生産性さえ低下させかねないし、労働の質を劣化させてわれわれの生活をも脅かしているのである。長時間労働によって「社会」は衰退していくのであるが、「社会」が衰退して労働者の生活が軽視されることによって、労働時間は更に延びていく。制約なき長時間労働に覆われた「社会」らしからぬ「社会」の登場である。

 今日では、職場の様相も様変わりを見せている。「雇用ポートフォリオ」にもとづいて、正社員と非正社員の「最適」な組み合わせが追求されているのであるが、その実態は正社員の徹底した絞り込みである。現場における定型的な業務や事務・管理部門の補助的な業務については、非正社員に担当させたりあるいはアウトソーシングしつつ、特定領域の専門的な業務や現場で高度な技能を要求される業務、非正社員の管理・監督業務、あるいは顧客獲得など収益の拡大に直結する業務や、創意工夫や判断を必要とする非定型的な業務などについては、専ら正社員に担当させている。しかし、正社員もこれまで以上に精鋭的な働き方を求められているため、わが国においても「窒息するオフィス」(ジル・フレイザー)が生まれ、ビジネス書で話題になるほどの「不機嫌な職場」や「壊れる職場」が広がってきたのである。

 これまでチームワークによって支えられてきた職場の共同性も、多様な非正社員の配置によって断裂を余儀なくされ、そこに正社員間の成果をめぐっての落ちこぼれを許さない厳しい競争も重なることによって、大きく揺らいできているのである。企業の外部において「社会」が衰退しただけではなく、企業の「内部」においても「社会」が衰退したとでも言えようか。非正社員だけではなく、正社員もまた孤立を深めているように見える。

 わが国の職場では、これまでは「あいまいな職務構造」がチームワークを支えてきており、それが職場での「助け合い」を生んでいると言われてきたが、今日ではこの「あいまいな職務構造」が逆に機能して、特定の個人に仕事が集中していくような状況もあると言う。チームワークが衰弱して「乾いた人間関係」に覆われた職場では、真面目で「責任感」が強く、「他人思い」(大野正和)のいかにも日本的な労働者が孤立していくのである。「人間性喪失の荒涼たる風景」(田島一)が広がっていると言うべきなのではあるまいか。過労死や過労自殺が生まれ易いのは、こうした職場なのである。

 第2節 成果主義賃金のもたらしたもの

 では賃金についてはどうだろうか。賃金をめぐる近年の動向として注目されるのは、「高コスト体質」の是正に向けた成果主義賃金の拡大である。そこで繰り返し課題とされてきたのは、賃金における年功的性格の一掃であったと言ってよい。企業に対する貢献度は、これまでは職能給と人事考課(情意考課、能力考課、成績考課からなる)によって評価されてきた。しかしながら、職能給のなかには、いわゆる習熟昇給の形を取った毎年の定期昇給制度が織り込まれていたり、資格ごとの賃金の上限も厳格に運用されていないケースも少なくなかったと言うし、また、能力は一度身に付けば失われないという前提から、資格の降格は想定されておらず、更には、たとえ工夫を凝らしたとしても、資格ごとに求められる能力の違いを文言として表すことは現実には難しく、それが曖昧な処遇につながったと言うのである。

 また人事考課について言えば、「やる気」や「意欲」を評価の対象とした情意考課や、潜在能力までをも評価の対象にした能力考課では、企業に対する貢献度の評価がどうしても曖昧になることは避けられない。情意考課や能力効果は、数値化された結果として具体化されることはないからである。曖昧であれば、処遇はどうしても「勤続」を評価した年功的なものになっていく。それが紛れの無い基準だからであり、それ故に普通の労働者が抱く「公正」概念と合致するからである。

 こうした賃金決定システムでは、「高コスト体質」の元凶である年功賃金を解体出来ないということで、先の「新時代の『日本的経営』」では、総額人件費管理を徹底し、「職能・業績反映型賃金管理システム」を確立することが強調されていた。有期雇用の「高度専門能力活用型」や低賃金の「雇用柔軟型」のタイプの労働者を増やすこと自体が、「高コスト体質」の是正に結び付く(時間給が低いだけではなく、ほとんどの場合一時金も退職金もないからである)ことは先に触れたが、とくに問題とされたのは「長期蓄積能力型」のタイプの労働者に対する処遇のあり方である。

 そこでは、企業業績と連動して上下する一時金のウェイトを増やしたり、貢献度反映型の退職金制度を導入したり、年功的な定期昇給制度を廃止したり、年俸制や洗い替え職能給を導入したり(高い評価を持続出来なければ賃金は下がることになる)、人事考課では成績考課を重視したりすることなどが提言されていたのである。「職能・業績反映型賃金管理システム」の確立によって経営サイドが目指していたのは、賃金決定を可能な限り「個別化」し、わが国の賃金が依然として脱却出来ないでいる年功的性格と賃金の持つ下方硬直性を打破し、査定・業績・変動型の賃金に改編していくことであったと言えよう。

 具体的な動きとしてまず注目されたのは、裁量労働制と連動した年俸制の導入であった。職能資格制度による能力主義的な賃金決定を改変して、顕在化された能力と実績によって賃金決定をよりシンプルに業績主義化しようとしたのである。年俸制を導入する理由として、業績主義の強化や経営参画意識の高揚などが挙げられていたことからも分かるように、自分の賃金を自分で稼ぎ出すといったような、賃金についての自己決定・自己責任意識を植え付けたかったのであろう。年俸制の特徴は、いうまでもなく定昇なしで賃下げも可能な業績主義そのものの賃金だという点にある。これまでの賃金体系の下では、余程特別な事情のない限り賃金を減額することは困難であった。しかしながら、管理職を中心に年俸制が導入されることによって、業績を口実にして賃金がいとも簡単にしかも大幅に減額されるケースも生まれたのである。

 査定・業績・変動型の賃金への改編の動きは、職能資格制度の業績主義的な運用という形でも現れた。年俸制は、形式上は業績に対して責任を負い得るだけの権限や裁量が付与されていることが前提となるので、すべての労働者に適用出来る訳ではない。「長期蓄積能力型」の労働者の多くは、やはりこれまでのような職能給の月給制とならざるを得ないのである。そうなると、ここでの課題は定昇の廃止と洗い替え職能給の導入ということになる。

 日経連報告は、「ある一定の時期に全員を対象に賃金が上昇する仕組み」としての定期昇給が存続する限り、賃金体系を変えても賃金は年功的になるとして、定昇制度の廃止を提起するとともに、職能資格制度が資格の「上ずり現象」によって現実には年功的に運用されていることを踏まえ、洗い替え職能給を導入して実績重視で運用しようとしたのであった。これまでの職能給では、全員が前年度の賃金水準を維持したうえで、人事考課によって次年度の賃金の上げ幅に差が生まれるというものであったが、洗い替え職能給では、降格という手荒な手段を取らなくても昇給ストップやマイナス昇給がありうるので、賃金水準は容易にラッパ型に開いていくという訳である。

年俸制にしても洗い替え職能給にしても、人事考課がこれまで以上に大きな位置を占め、しかもそこでは業績が決定的なあるいは中心的な評価対象とされていた。それはなぜだろうか。まず指摘出来ることは、先にも触れたように、これまでの人事考課が能力や成績とともに情意までをも考課の対象としてきたこともあって、制度運用上ある種の曖昧さを抱え続けてきたのであるが、この曖昧さが労使双方に不満を醸成したために、経営側にそれを払拭したいとの思いが生じていたのである。

 そして更には、情意考課を通じて企業にとっての異質な問題行動を封じ込めることにあらかた成功し、「生活態度としての能力」(熊沢誠)をかなり高いレベルで均質化し得たことが、逆に情意考課の役割を低めたという事情もある。違いを明らかにしようとすれば、もはや業績にしか現われなくなっていたのである。こうして、能力主義管理は、処遇の曖昧さに対する労働者の不満を梃子にしつつ、業績に照準を合わせた成果主義賃金を産み落としたのであった。

 成果主義賃金は、業績の大小に賃金を連動させる仕組みとして「世俗化」したので、誰にもわかりやすい公正な賃金制度でもあるかのように受け止められた。若年層に成果主義賃金に対する評価が高かったのも、それ故であろう。しかしながら、そこにはわかりやすいことの「無理」も存在した。自己完結的な労働の分野では業績はすでに歩合給(あるいは出来高給)によって評価されてきた訳で、チームによって遂行される労働においては、もともと個々人の業績を短期のうちに評価していくこと自体が困難だったからである。だからこその時間給だったはずである。

 そうしたところに成果主義賃金を導入すれば、導入当初は好意的に受け止められるケースも生まれるものの、時間が経過すればするほど評価の「無理」は表面化し、不満が蓄積していかざるを得なかった。業績を評価することが難しくなった結果、好業績をあげ得るような行動特性としてのコンピテンシーを評価せざるをえなくなったのであるが、ここにはそうした「無理」が端的に示されていたと言わざるを得ない。こうした成果主義賃金の「変形」が示しているのは、賃金というものを如何様にも変えることが可能であるかのように勘違いして奏でられた、狂騒曲の虚しさだったのではなかろうか。

 上記のような形で、成果主義賃金は労務費コストの削減に貢献したと思われるが、それとともに、あるいはそれ以上に重要なことは、業績というものを企業の祭壇に祭り上げることによって、労働者のそしてまた経営者の賃金に対する思考様式を変え、職場における労働のあり方を変えたことであろう。生計費対応的な賃金を何か古臭いものででもあるかのように思わせることになったし、従来の9時5時労働プラス残業時間といった働き方を成果達成型の労働へと変え、これまでの労働時間を遙かに超えた働き方を、労働者の「自発」を装いつつ強制したのである。こうした事態は、労働者のワークライフバランスを崩すことになったが、それに留まらずに、「短期」間に「数値」化された「結果」を出すことを厳しく追求するような経営姿勢は、この間度重なった企業の不祥事の温床となった可能性もある。

 こうした影響を受けて、近年若者の間にもいわゆる自己実現系のワーカホリックが新たに出現しているのだと言う。仕事に燃え尽きることさえ厭わないかのように見える、前向きな若者たちの群れである。そこでのキーワードは、仕事の中身としての「働きがい」や「やりがい」指向であり、主体のあり方としての「自己実現」や「自分らしさ」指向である。彼らの描く成功モデルは「ニューリッチ」や「起業」であり、それを可能にするのは、仕事のプロフェッショナルへの成長や主体的なキャリアの形成である。

 ここには、新自由主義が描くような、「自己責任」を自覚した自立した個人としての労働者像がある。フリーターやニートが問題とされた際には、若者たちの労働意欲の「過少」が注目されて、若者たちに対するバッシングが広がったが、他方でその対極には、あまりにも前向き過ぎるが故の労働意欲の「過剰」が問題となってもいるのである。労使関係が希薄になった世界での労働意欲の「過剰」は、財界が提唱するような「自律型」の人材や「価値創造型」の人材を育成しようとする試みへと接続している。若者たちの企業への帰属意識は希薄化したとよく言われるが、そうした希薄化は、仕事への前向きな姿勢によって十分すぎるほど補完されているようにも見える。

 「業績」の達成が「自己責任」と結び付けられることによって、企業はあたかも労使関係なき生産ユニットやビジネスユニットと化し、プロフェッショナルとしての「仕事術」が人生の指南書ででもあるかのように説かれ、あまりにも軽薄な内容のビジネス書ばかりがベストセラーとなって氾濫するなかで、雇用概念は正社員の間でも風化を遂げつつある。ビジネス書の氾濫などは、他方でのプロレタリアートならぬプレカリアートの分厚い沈殿と好一対と言うべきであろうか。ともに「自己責任」という観念が生み出した結果である。

 しかしながら日本の現実は何とも酷薄である。「自律型人材」なるものはあっという間に世俗の塵芥にまみれ、「名ばかり店長」や「名ばかり管理職」に加えて、社会・労働保険の保護や定昇、一時金、退職金の保護無き正社員のような、いわゆる「名ばかり正社員」を生み出したのであった。その結果は、過剰な労働によって生み出された働く人々の深い疲弊である。過剰な労働は、短期間であれば遂行も可能であろうが、そうしたものを長期に渡って遂行し続ける不可能である。その「無理」を象徴していたのが、若年・中堅層に広がる鬱病であり「メンタルヘルス」不全問題だったのではなかろうか。人的資源を濫費する成長の限界が、こうした形でも露わになりつつある。