「労働の世界」の変容とその行方(五)

 第4章 「社会」の衰退から再生へ

 第1節 「社会」の衰退と企業別組合

 では、これまで縷々紹介してきたような新自由主義の改革やその諸結果に対して、わが国の労働組合はどのような対応を試みてきたのであろうか。非正社員の増大にしても、成果主義賃金の広がりにしても、そしてまた組合組織率の低下にしても、これまでの労働組合の有り様に大きな衝撃を与えてもおかしくはなかったはずであるが、ナショナルセンターや単産はともかく、民間大企業の企業別組合はそうした認識に立つことは無かったと言ってよい。非社員の増大にしても、成果主義賃金の導入にしても、「高コスト体質」の是正のためにはやむを得ない対応であると受け止められていたし、組合組織率の低下にしても、ユニオン・ショップ協定によって企業内の正社員をほぼ100パーセント組織していた企業別組合にとっては、言わば他人事だったからである。

 当時の連合の高木会長は、偽装請負の蔓延に関して「バブル崩壊後、コスト削減でこういう雇用形態の人が製造現場にも入ってくるのを知りながら(労組は)目をつぶっていた。言葉が過ぎるかもしれないが、消極的な幇助。働くルールがゆがむことへの感度が弱かったと言われてもしょうがない」(『朝日新聞』2006年8月9日)と自己批判したのであったが、「社会」を衰退させた企業別組合には、新自由主義の改革に対峙する必要があるとの自覚すらもが薄らいでいたのであろう。

 先の『新時代の「日本的経営」』でも指摘されていたように、企業の側からすれば、企業内の協調的な労使関係については一貫して重視する姿勢を崩してはいなかったので、「長期蓄積能力型」のタイプ労働者のところでは企業別組合は生き残るはずである。しかしながら、そうした企業別組は、自らが作り出した「寄る辺」なき労働者の大群に包囲され、ますます企業内に自閉していくのではないかと予測されたのであり、民間大企業の企業別組合に関して言えば、そうした予測はほぼあたったように思われる。「企業社会」への労働者の深い統合こそが、新自由主義の改革をほぼ無抵抗に受容させたのであり、1990年代後半以降の事態は、ひとまずは「企業社会」の爛熟の必然的な結末として認識すべきなのではなかろうか。こうしてわが国の労働組合は、組合数も組合員数もそしてまた組合組織率も(更に言えば、労働争議件数も争議参加人員も)減少させ続けてきたのであった。

 しかしながら、こうしたいささか手垢にまみれた筆者のような評価では、わが国の企業別組合のリアルな姿を十分にとらえ切れていない可能性もある。なぜなら、民間大企業の労働組合の幹部などは、労働組合のスタンスと新たな活動スタイルについて、以下のようなことを自信に満ちて饒舌に語っているからである。「今日、時代が要請しているものの一つが『一人ひとりの自立』です。即ち、強い個の確立です。企業は個人の集合体であり、個人の力の総和が企業力となることから、『組合員一人ひとり自らキャリアデザイン、ライフデザインを描き、自立して資質を高める姿』に挑戦していくことが大変重要であると考えています。自ら進むべき道を自己選択し、そしてその結果について自己責任で対処していく。…組合がいかにその(自立した組合員の)支援者になるのか、なりえるのか、ある意味で組合の真価が問われていると言っても過言ではなく」云々と。ここまでくると、もはや今はやりの経営者の発言のようでさえある。

 こうした発言に見られる思考様式、即ち「企業の発展あるいは生き残りという言説」によって雇用の流動化を受け入れ、「価値の多様化や個の重視という言説」によって、活動スタイルを雇用の流動化に対応させようとするような思考様式(鈴木玲)が、すべての企業別組合に共有されているなどと断定するつもりは毛頭ないが、少なくとも、連合に加盟する民間大企業の組合幹部にはそれほど違和感なく受け入れられているようにも思われる。

 だが、クラシックな思考様式に拘っている筆者には、こうした主張を堂々と行う組織が、いったいどこまで労働組合なのかという疑問も湧く。これまでの伝統的な労働組合像からはかなり乖離した新たな組合像を前にして、深い戸惑いさえ覚えるのである。このような労働組合においては、集団的労使関係は制度化された形式として残っているとは言うものの、その内実は失われていくことになるだろう。なぜなら、組合員は労働組合に「寄る辺」」を期待することが難しくなるからである。こうして、組合員が頼ろうとはしない労働組合といった背理が、深まってきたのである。

 こうした集団的労使関係に替わって注目されるようになったのが、個別労働紛争の広がりに示されるような個別的労使関係であった。こうした事態に対応するために導入されたのが、個別労働紛争解決制度であり、「労働審判制度」であった。前者についてのみ一言触れておけば、今日では総合労働相談件数は113万件(そのトップは「いじめ・嫌がらせ」である)、民事上の個別労働紛争相談件数は26万件にも達し(2016年度「個別労働紛争解決制度の施行状況」)、ともに高水準を維持したままなのである。更には、「短期」の「個人」の「業績」を重視した成果主義賃金が、労働組合の職場規制をいっそう弱め、その結果個別の労働紛争を広げてきたことも間違いなかろう。職場においても規制緩和が進められてきたとでも言えようか。

 パワーハラスメントやセクシュアルハラスメント、さらにはモラルハラスメントの広がりなども、職場における労働組合の衰退と無縁ではない。こうして、企業別組合はもはや春闘時にしか話題とはならない存在となっているのであるが、労働条件に対する拘りもきわめて微弱になっているので、すでに「賃上げ」組合ですらなくなっているとも言えよう。その結果、長期にわたり実質賃金が減少し、大企業の「労働分配率」は今日まで低下し続けてきたのであった(「法人企業統計調査」)。

 この間新自由主義の改革が追求してきたものは、長期雇用の限定や賃金の年功的性格の一掃などであったが、それらが徹底されていくならば、旧来の「日本的経営」が消滅していくように思われたり、また、労働者の企業へのコミットメントが希薄化していくのではないかと思われたとしても、おかしくはない。それ故、こうした変化を「日本的経営」の「崩壊」(牧野冨夫)や「企業主義的統合」の「解体」(後藤道夫)と捉えるような見解も生まれた訳であろう。筆者にも理解できない訳ではない。だが先のような変化は、そのこと自体で労働者の企業からの自立をもたらすことはなかった。彼らは、非正社員という「寄る辺」なき労働者の群れに投げ込まれまいとして、企業依存の姿勢を自ら脱却しつつ企業により深く「統合」されていったからである。

 今日の状況を冷徹に見るならば、正社員にしか関心を示さず「社会」の衰退に無関心な企業別組合は、21世紀には自然死する可能性さえ無しとはしない。喩えの是非は別として、「恐竜の道」(早房長治)を辿っているとの指摘が、たんなる妄言とも思えないのである。「連合」があろうことか労働者の抗議デモに見舞われたことは、その予兆にさえ見える。そうした事態を回避して労働者が企業から自立し得るためには、労働組合運動が自ら「寄る辺」を創り出すしかない。

 そのためには、労働組合もまた非正社員を正社員の「補完物」と見るような姿勢を改めていかなければならないのだろう。非正社員に組合戦略の照準を合わせながら、「社会」の有り様に着目する労働組合のみが、21世紀を生き延びていくのではなかろうか。その際、ユニオン運動と呼ばれる新しいタイプの労働組合の実践に注目するだけではなく、既存のナショナルセンターや単産による「社会」への対応の強化や、非正社員の組織化、非正社員の正社員化などにも、もっと大きな関心が払われるべきであろう。

 上記のような労働組合運動の転換を、筆者はたんなる願望としてのみ語っている訳ではない。労働組合が企業内に埋没し格差と貧困に対する関心を弱めれば弱めるほど、「社会」の側には格差と貧困に対する批判が生まれ、広がり、社会政策や労働政策の有り様が改めて注目されるようになる。そうした動きは、企業別組合の企業内への埋没に対する自省を生む可能性もある。連合に「非正規労働センター」が、全労連に「非正規雇用労働者全国センター」が組織されたことは、労働組合の新たな胎動を象徴的に示していたのではなかろうか。

 日経連が『新時代の「日本的経営」』を提唱した時には、たとえまったくの主観的な願望にしか過ぎなかったにせよ、「人間中心(尊重)の経営」や「長期的視野に立った経営」を堅持する必要があるなどと述べられてはいた。だが、そうした「社会」への形ばかりの配慮らしきものさえ、この20年ほどの間にすっかり失われてしまっている。経営者が放擲した「人間」や「長期的視野」の重要性を主張すべきは、「寄る辺」なき労働者をさまざまな形で結集しようとする労働組合の側であり、そうした労働運動を支援する社会運動や政党の側である。新自由主義の改革を批判し、「社会」を可視化しようとするような労働組合運動、言い換えれば社会運動ユニオニズムへの転換が強く期待される所以である。

 第2節 「社会」を再生させるために

 たしかに、政府や企業は景気回復のために所得格差の拡大を容認し、国民もまた、景気の回復によるトリクルダウンが所得格差を縮小するであろうと期待もして、小泉内閣以降の「構造改革」路線を受け入れてきたようにも思われる。だがその結果、中流が生み出してきた「親和性の高い社会」は崩壊し、格差の広がった「優位社会」(自己を他者よりも優位な位置に置こうとする優位戦略が支配的となった社会)へとシフトしてきたのであった。こうした新自由主義の改革が生み出した社会は、「健康水準が低く、暴力的で、信頼感に欠け、社会的な結束力が弱い」(リチャード・ウィルキンソン)不平等な社会、つまり「社会」らしからぬ社会でしかなかったのである。

 「企業社会」の下でほぼ企業内に収斂した労使関係が、企業の内と外で「非法的」(西谷敏)な性格を強め、「社会」への関心を衰退させてきたからこそ、新自由主義の改革は社会的な保護や規制、あるいは制度やルールによる抵抗をほとんど受けずに、猛威を振るえたのではなかったか。今日の事態は、「企業社会」の下での新自由主義の改革がもたらした、その意味では両者の「負」の臆面が重なり合った二重の「痛み」であったようにも思われる。企業を「社会」に等値し、更にはまた市場を「社会」に等値し続けてきたが故の「痛み」であったとでも言うべきであろうか。

 先に紹介した湯浅誠の『反貧困』には、「『社会』という言葉の衰退とその理由」については市野川容孝著『社会』を参照せよとの指摘がある。その指摘に従って市野川の著作を紐解いてみたのであるが、そこで目に留まったのは以下のような叙述である。「日本において政治的な言葉としての『社会』が急速に忘れ去られ、衰滅している一つの理由は、この社会を社会主義やマルクス-レーニン主義と等置してきた当の人びとが、それらの瓦解を目の当たりにしながらも、それらの何をどう否定し、批判すべきかをきちんと言葉にする作業を、不快であるがゆえに自分で避けてきた、あるいは不快と思う人によって妨げられてきたからではなかろうか」。

 社会主義やマルクス-レーニン主義とまったく無縁のところで生きてきた訳ではない筆者にとっては、何とも耳の痛い話ではあるのだが、それでもきわめて興味深い指摘である。こうした指摘に一言付け加えるならば、「社会」が衰退していったのは社会主義やマルクス-レーニン主義の「瓦解」後ではなく、実は「瓦解」の前からなのであり、「企業社会」の形成と成熟自体が、わが国における「社会」への関心を衰退させてきたという日本的な現実である。

 なお市野川は、「リベラリズムというカタカナ語が急浮上し、あるいは正義や公共といったそれまでさほど目立たなかった日本語が突如、迫り出す一方で、社会という言葉が忽然と姿を消す」といった事態を踏まえて、丸山真男の『日本の思想』から次のような文章を引いている。原文は、「新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどに早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍らにおしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え『忘却』されるので、それは時あって突如として『思い出』として噴出することになる」というのである。今更ではあろうが、聞き捨てにするわけにはいかない鋭い指摘であろう。

 彼の政治的図式主義批判を半ば受け入れて、大所高所の議論をあまり好まぬようになり、また理論信仰批判に少しは影響されて実感信仰に傾いた筆者のような人間には、何とも気が重い指摘ではある。「窮乏化論の否定を含むわたしの発言に対して、組織的にバリゾウゴンを浴びせてきた集団があったはずだが、あの人たちは今どこへ消えたのだろう」(馬場宏二)とか、「一般に賃金を論ずる際に労働力の再生産費で説明する方法」は「無力」かつ「有害」(石田光男)であるといった主張を、今頃になって改めてひとり静かに読み返してみると、何とも奇妙な懐かしさにとらわれるのである。「無構造」の伝統は、実感信仰で「豊かさ」を論じ、状況が変われば再び実感信仰で「貧しさ」を論ずることにも通じており、自らもまた、こうした融通無碍の世界に生きていることを深く自覚しておかなければならないのだろう。

われわれが今後課題とすべきは、労働問題の世界から衰退していった「社会」を再浮上させることである。そのためには、新自由主義の改革に抗し得るようなさまざまな理念と運動を、多様に組み合わせていかなければならないだろう。その際に重要となるのは、労働者の人生に深く関わるとともに、それが「社会」の重要な構成要素ともなる職場や企業、仕事と生活に関する構想力である。職場を構想する力については、人的資源管理の「過剰」(企業への全人格的包摂)と「過少」(労働力の使い捨て)を抑制しつつ、持続可能な労働を可能にするためのワークルールが重要となるだろう。「社会」が衰退すれば、さまざまな領域でルールが軽視され「偽装」が蔓延する。「偽装」に覆われた労働の世界においてこそ、もっとも徹底した「コンプライアンス」(法令遵守)が求められなければならないはずである。遵守すべき法令に労働に関する法令が含まれていないような「コンプライアンス」であるならば、そうしたものにいったいどれほどの意味があろうか。

 企業について言えば、今求められているのは「企業の社会的責任」(CSR)を自覚した企業である。教科書ふうの理解によれば、企業規模が大きくなればなるほど、企業は株主の私的所有物から社会の所有物になり、社会的な存在としての性格を強めるはずである。しかし、名だたる大企業が真っ先に「派遣切り」を行ったり、過労死認定基準をはるかに上回る36協定を締結していたりするわが国の現実を見れば、こうした解説の何と虚しいことだろうか。

 偽装請負を指摘されて、「3年たったら正社員にしろと硬直的にすると、日本のコストは硬直的になってしまう。もう少し市場に任せてほしい。派遣法を見直してもらいたい」(2006年10月13日、経済財政諮問会議)と述べて、実情を無視している法律の方が問題であると開き直った経営者が、その当時日本経団連の会長を務めていたのであり、そうした人物がわが国を「希望の国」にするのだと語っていた。「社会」を無視しつつ「国家」を語るという、珍妙ではあるがいかにも日本的な光景ではあった。「企業の社会的責任」は、労働組合や市民や政党の「社会」に着目した「監視」と「発言」と「運動」無しには生まれない。企業のさまざまな活動を「社会」に埋め込んでいくことが求められているのである。

 仕事を構想する力としてはどのようなものが期待されているであろうか。ここで重要な役割を果たすと思われるのは、ILOの提起している「ディーセント・ワーク」(わが国では、「働きがいのある人間らしい仕事」と訳されている)という考え方である。見苦しくない労働、即ち「権利が保障され、十分な収入を得、適切な社会的保護のある生産的な仕事」が、途上国、先進国を問わずすべての働く人々にとって必要なのであるが、現実はそうした状況からは程遠い。『労働経済白書』(2008年版)が、「日本におけるディーセント・ワークに向けての課題として、正規雇用化に向けた取り組みや長時間労働の是正が必要である」と、改めて述べている如くである。「働き方改革」が提唱されたりしたのも、わが国におけるインディーセントな状況の蔓延と無縁ではない。

 ディーセント・ワークは、企業が求めるフレキシビリティ(=柔軟性)の前提として、労働者がどんな状況に陥っても「社会」において生存可能なセキュリティ(=保障)無しには、成立しえないと言うべきであろう。「社会的保護」とはそのことを指す。そしてまた、ILOの提起には「社会対話」の推進が掲げられていたことにも、あらためて注目しておきたい。「働き方改革実現会議」の有識者委員15名のなかには、労働組合側の委員が僅かに1名しかいないのだが、こうした現実は、「社会対話」を推進するものとは到底言い難かろう。

 そして最後に指摘しておかなければならないのは、地域と家庭を構想するための「ワーク・ライフ・バランス」の実現である。わが国では男女間の性別役割分業がはっきりしており、雇用労働を男性に、家事労働を女性に振り分けてきた。しかしながら、こうした関係の下では、ワークとライフのバランスは両性にとって危ういものとならざるを得ない。男性の場合には働き過ぎが慢性化し易くなって、家族と共有する時間を失っていく。女性の場合は、家事労働をもっぱら担うことによるストレスに加えて、仕事に就くとしても非正社員の選択を余儀無くされることになる。

 こうした両者によって営まれる家庭生活が、実り豊かで充実したものになりうるはずもない。改めてワーク・ライフ・バランスが論じられなければならない所以である。ワーク・ライフ・バランスとは、両性にとっての労働時間と生活時間を調和させることであり、そのために決定的に重要な課題となっているのは、男女を共通に規制する労働時間の短縮である。これなしに語られるさまざまな「技法」は、ワーク・ライフ・バランスの名に値しないと言わざるを得ない。男性のワーク・ライフ・バランスが図られない限り、女性が活躍することなどあり得ない。「総活躍」といったキャッチフレーズも、夢幻と終わる他はなかろう。