定年前夜のこと(三)

 三 定年退職を前にして

 私が勤務していた経済学部には4つのコースがあり、私が所属していたのはそのうちの「福祉と環境コース」であった。このコースの教員の一人として、経済学部のホームページに受験生向けの文章を書いてくれと頼まれた。経済学を学ぶ意義とか面白さを学部として伝えたいということだったのであろう。私は頼まれた仕事はほとんど断らない主義者なので(だから頼まれるのである-笑)、快く引き受けた。そうすることによって、気持ちよく退職したいと思っていたこともあったかもしれない。その文章は、「『働くこと』を見直す」と題してこのブログに掲載してあるので、興味があれば参照していただきたい。

 その他にも頼まれたことはある。学部長の内山哲朗さんからは、『経済学論集』に定年退職者への謝辞を書かなければならないのだが、そのための材料を送ってくれないかというメールをもらった。私も経験があるからよくわかるのだが、定年退職者が多いと、謝辞を作成するのも一仕事となる。今年度は私を含めて鈴木直次さん、徳田賢二さん、福島利夫さんの4人が定年退職するので、退職者自身から材料を提供してもらえるならば助かるとのことだった。質問は6項目あったが、学歴や職歴、研究業績については既に紹介してあるので、それ以外の4項目について、以下のような文章を書いて送った。読んでもらいたいのは、「退職にあたっての感慨等」である。

●学会活動について
 長きに渡って社会政策学会、日本労働社会学会、労務理論学会の三つの学会の会員であった。他に、学会ではないが女性労働問題研究会の会員でもあった。しかし、定年退職を機にすべて退会することにした。なお社会政策学会では、学会年報の編集委員長の仕事を引き受けたことがある。

●教育関連
 学部では、一部と二部の「労働経済論」とゼミナール、それに一部の入門ゼミナールを担当し、大学院では社会政策を担当してきた。教師として講義もゼミもともに大事にしてきたつもりだが、それ以外に特に記すべきことはない。

●学内での役職・行政等
 学内で就くことになった主要な役職は、経済学科のカリキュラム委員長、経済学部長(2000年~2004年)、副学長(2004年~2007年)などである。この他に、教員組合の給対部長、社会科学研究所の事務局長、「専修大学九条の会」の事務局長などの仕事にも従事した。

●退職にあたっての感慨等
 還暦を迎えたあたりから定年とその後の人生を意識するようになり、65歳を過ぎて前期高齢者となったあたりからは、人生の終末というものを意識するようになった。こうした心の動きを吐露すると、周りからは老け込んできたかのように思われたりすることもあったが、私自身は別にそんなふうに思っているわけではない。末期の眼を持って自分の終末を見据えるならば、一瞬一瞬を丁寧に生き切ることができるのではないか、そんなふうに考えているからである。
 専修大学では、教育と研究それに求められた役職の仕事に、私なりに精一杯力を注いできたつもりだが、それでも、「悔いはない」などと言い切るほどの自信はない。やはりあれこれの悔いは残る。入職以来32年間もお世話になったので、悲喜も愛憎もあったとはいえ、専修大学にも自分なりの愛着を持ってきた。時には大学批判という形をとったが、それは愛着の裏返しでもある。しかしながら、時は移り新しい世代と交代しなければならない季節となった。花も実も葉も落ちて裸木となったのであるから、交代して当然である。だからこそ、あえて専修大学との繋がりを断ち切って、残りの人生に踏み出さなければならないのだろうと思う。退職後は研究者としての生活をすべて終え、時折気儘に旅でもしながら「残日録」のようなものを綴ってみたい。
 ゼミの論文集のはしがきに、「さよならだけが人生だ」との井伏鱒二の名言(名訳だが)を引いたことがある。もともとは唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の「勧酒」の井伏訳であり、彼の『厄除け詩集』にある。酒を勧めたり勧められたりしながら大いに楽しく飲んで、あとは惜しげもなくさらりと別れていく。そしてもう滅多なことでは会うこともない。こんな清々しい別れというのもなかなか味わい深いのではないか。できうるならば、最期まで志の気高さと心映えの美しさを求めて、弛みなく生きてみたいと思っている。
  コノサカズキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトエモアルゾ/「サヨナラ」ダケガジンセイダ

 もう一つ提出を依頼されたのは、『経済学論集』の退職記念号に載せるための写真や経歴、業績である。写真については、『記憶のかけらを抱いて』の巻頭に載せた4枚の写真のうちの1枚を使わせてもらうことにした。黒田さんや小西さんと一緒に2005年の春にニュージーランドに出かけた際に、クライストチャーチのビアホールで撮ってもらったものである。10年以上も昔の写真なので、現在の私よりもかなりいい男に写っている(はずである-笑)。そこを狙った詐欺的な行為と言われても仕方がない。

 これまで私が見てきた退職者の写真は、ほとんどが正面を向いた上半身のもので、しかもスーツにネクタイという出で立ちであり、無難ではあるがあまりにも立派過ぎて何とも面白みがない(笑)。面白みが求められているわけでもないのだから、当然と言えば当然なのだが、こういったところに「遊び心」を出すのも悪くはないと思い、好物のビールと一緒の写真を載せてもらうことにした。もしかしたら、目立ちたがり屋のように勘違いされて、同僚からいささか顰蹙を買ったかもしれない(笑)。

 経歴については先に触れたし、業績についても単著については紹介したので、それ以外のものをどうするか考えた。『記憶のかけらを抱いて』では、①単著以外に②共著・編著・訳書、③論文・調査報告・講演録等、④辞典等、⑤書評に区分してすべてを載せておいたが、『経済学論集』には①と②のみを載せることにした。例えたくさんの業績を載せたとしても、それをしげしげと眺めるのは自分とごく少数の知り合いだけであって、後は誰一人として見向きもしないような気がしたからである(笑)。

 共著・編著・訳書として紹介したもののうち、『現代中高年問題と労働組合』(労働旬報社、1980年)に収録された論文は下山房雄さんと、そしてまた『日本資本主義と労働者階級』(大月書店、1982年)に収録された論文は鷲谷徹さんと、共同で執筆したものである。また、『電機産業における労働組合』(大月書店、1984年)に収録された論文は、橋田俊之のペンネームで書いた。当時電機労連から委託されたかなり規模の大きな実態調査に従事していたこともあって、もしかしたら実名で書いたのでははまずいことになるかもしれないなどとと考えたためである。今で言うところの「忖度」である。

 この橋田俊之というペンネームの由来は、中学校や福島高等学校以来の友人である平田無着、小泉俊一、佐藤宏之の3人の名前から一字をもらい、それに私の橋を加えて作ったものである。なかなかよく出来たペンネームではあった。しかしながら、その後程なくして私は専修大学に転職したので、わざわざペンネームを使う必要もなくなった。だから、橋田俊之というペンネームを使用したのは、これが最初で最後となった。当時を思い出すとやはり何とも懐かしい。

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