「浅春の山陰紀行」を書き終えて
先週のブログで、9回に及んだ「浅春の山陰紀行」を書き終えることができたので、ほっと一息ついたところである。途中で一回中休みを挟んだものの、この二ヶ月は旅日記を書くことに専念していた。そんなことをしている間に、季節は晩春から初夏へと移った。五月晴れをそれほど味あわないうちにもう水無月である。今日は6月の5日だが、天気予報では日中の気温は28度にまで上がるとのこと。咲き始めた紫陽花もそろそろ見頃となることだろう。
一息ついてこの間何をしていたのかといえば、一つは、毎年刊行している冊子の編集作業であり、もう一つは、「浅春の山陰紀行」を纏めて、読み物に仕上げる作業であった。まずは前者の方から。シリーズ「裸木」は毎年9月初めに刊行しているのだが、そのためには2ヶ月前に原稿を入稿しなければならない。校正のための時間を確保しなければならないからである。完成した冊子を読むと、必ずと言っていいほど誤字や脱字が見つかる。毎年なくそうと努力してはいるのだが、なくならない。できるだけ余裕を持って校正をやらなければ、誤りをなくしようがない。
冊子の編集に当たってまず最初にやるべきことは、タイトルを決めることである。今度の号のタイトルは、『カメラを片手に』としてみた。次に、冊子はいつも三部構成としているので、その表題と中身を決めなければならない。第一部は「暮れなずむ日々から」、第2部は「カメラを片手に」、そして第3部は「旅の空から」とした。そのうえで、冊子に使えそうなブログの原稿をかき集め、少しはまとまりのあるものに整理してみたというわけである。
それがすんだら、今度ははしがきとあとがきを書かなければならない。あってもなくてもいいようなものかもしれないが、あったほうが何となく収まりがつくような気がする。両方に近況報告を兼ねたブログの原稿を活用することにしたが、大事なのはやはりはしがきの方である。タイトルの由来のようなことを一言、二言書かなければならないからである。今回は以下のようなことを書いた。
シリーズ「裸木」は今号で第9号となる。当初から第10号をもって終刊とすることにしているので、いよいよ終わりも見えてきた。タイトルは「カメラを片手に」としてみた。これまでのシリーズ「裸木」のタイトルとは大分趣が異なっている。意味ありげでもないし重くもないし静かでもない。今回あえて「カメラを片手に」などとやたらに軽いタイトルにしたのは、喜寿を過ぎるところまで生きてきたのだから、この際世間のさまざまなしがらみから身を解き放って、自由に気儘に伸び伸びと振る舞いたくなったからである。カメラを鞄に放り込んで、軽やかな足取りで外に出てみたくなったのである。カメラ小僧ならぬカメラ爺の出現である。
こんなふうにして150ページほどになる冊子の体裁は整ったので、あとは頭からゆっくりと読んで表現を整えていくことになる。何度読んでも気になるところは出てくるものである。雑文家でしかないのだから、適当にやればいいようなものだが、それがなかなかできない。こちらが神経質すぎるからなのか。入稿までの間焦らずにのんびりと作業を進めるつもりである。
これが冊子の編集作業であるが、もう一つやったのは、「浅春の山陰紀行」を纏めて紀行文として完成させる作業である。どういうことかと言えば、ブログの原稿を元にして同じタイトルで人文科学研究所の『月報』に投稿しようと考えているからである。ブログではいささかくだけた表現もあちこちに入れているが、そうした箇所を削除して体裁を整えなければ、紀行文にはならない。
今回は、そうした通常の作業に加えて新たに文章を書き加えた。結構な量である。せっかく資料を収集したのに、使っていなかったものがあったし、この機会に書き加えたくなったものも出てきたからである。どんどん加筆していたら、当初の分量の1.5倍にもなった。400字詰めの原稿用紙で80枚ほどである。むやみやたらに加筆するわけにもいかないので、このぐらいが限度というものであろう。
そんなこんなでこの1週間を過ごしてきた。一日中パソコンの前に座りっぱなしというわけにはいかないから、合間の休憩時に断捨離の続きのようなこともやった。いらないものは探せばあれこれと出てくるものである。そんなことをしていたら、『徒然草』に次のような文章があることを知った。第七十二段である。以下の原文と現代語訳を読むとよくわかるが、吉田兼好は元祖断捨離人間だったのかもしれない。元祖断捨離人間を自称する私なので、読んでいてひとりでに頬が緩んだ。
いやしげなるもの。居るあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書きのせたる。多くて見苦しからぬは、文車の文、塵塚の塵。
現代語訳は次のようになる。下品なもの。身の回りに調度品が多いこと。硯箱に筆がたくさんあること。仏間に仏像が多いこと。庭の植え込みに庭石や草木が多いこと。家の中に子孫が多いこと。人と会って口数が多いこと。願いの趣旨に自分がした善い行為を多く書き記していること。たくさんあっても見苦しくない物は、文車の書物とゴミ捨て場のゴミである。ここに出てくる文車(ふぐるま)とは、文書や書籍などを収載して牛や人力で運搬するための車両のことである。
」