風薫る五月へ

季節は巡って今日は4月29日。昔は天皇誕生日であったが、今は「昭和の日」と言うらしい。昭和天皇に違和感どころかかなりの不快感を抱いているような臍曲がりの私なので、「昭和の日」などに何の関心もない。今日からゴールデンウィークが始まり、5月はすぐそこである。毎日が日曜日となった身としては、残念ながらゴールデンウィークの高揚感もまったくない(笑)。ましてやオリンピック・パラリンピックをや、といったところか。

今は3度目の緊急事態宣言下にあるが、去年の5月に、1年後今のような状態にあるなどとは想像もしなかった。大分長引いているので、知り合いと外で飲み食いする機会はすっかりなくなったが、それ以外はごく普通に暮らしている。自粛暮らしで鬱状態などといったことも特にない。桜も散り、ツツジ(漢字で書くと躑躅となるが、なんと難しい漢字なのだろう)も盛りを過ぎて、もうすぐ紫陽花の季節である。

これまで「敬徳書院」の扁額を巡って2か月近くに渡りあれこれのことを書き綴ってきた。終わり頃になって、意外にも予期せぬ出来事が起こった。調べものをしているうちに、いろいろなことがずるずると引きずり出されてきたからである。最終回で久須美家のことに触れたが、この久須美家の初代は、曽我物語で知られる曽我十郎祐成(すけなり)だというのである。

曽我物語と言えば、忠臣蔵と並んで三代仇討ちのひとつに数えられており、源頼朝が富士の裾野で巻き狩りの折に、弟五郎とともに父の敵工藤祐経を討ったことで知られるが、そんな十郎祐成が何故越後の久須美家の初代なのか。不思議に思ったので調べてみた。そうしたところ、十郎は、仇討ちに先立って、妻に越後の国の国上寺(こくじょうじ)で仏門の修行に励んでいたもう一人の弟禅師坊を頼るように伝えたのだという。

仇討ち成就の後妻は逃れるのであるが、身重の身であったために、道中で祐寛(すけひろ)を出産したという。しかしながら、曽我の姓を名乗るのに身の危険を感じたこともあって、越後に多い久須美姓を名乗り、祐寛は寺の麓に隠れ住んだらしい。曾我兄弟にもう一人の弟がおり、妻が越後に逃れて祐成の子を育て、久須美を名乗ったことなどまったく知らなかった。私などが知らなくてもまあ当然ではあるのだが…。

そんなことをここに書き留める気になったのは、家人には中学以来の深い付き合いがある友人がおり、その彼女の連れ合いである伊藤邦彦さんが、曽我物語の研究者だったからである。彼は、「曽我物語は何を伝えようとしたか」を副題とした『「建久四年曽我事件」と初期鎌倉幕府』(岩田書院、2018年)という大著を纏めておられる。私は、この700ページを優に超える著作を、しばらく前に伊藤さんから贈呈された。

実に詳細に調べ上げられた立派な研究書なので、門外漢の私などは興味のありそうなところを拾い読みするのがせいぜいであったが、それでも曽我物語のことがどこかで気になるようになったのであろう。祐成だの祐経だの祐寛だのと、「祐」がよく出てくるので、祐吉の私が気になったというわけではない(笑)。そう言えば、昔病院の待合室で「たかはしすけよしさん」と呼ばれたことがあった。しばらく自分のことだと気付かなかった。今となっては懐かしい想い出である。

引きずり出されてきたのはこれだけではない。もう一つの話も家人がらみである。副島種臣が越後に来たことは分かっているが、その目的は不明であった。この副島が民撰議員設立建白書と関わっていたこと、そしてまたこの建白書が契機となって自由民権運動が広がっていったことはよく知られている。

この自由民権運動であるが、当初は士族民権と呼ばれるような運動として始まるのだが、その後地租改正に反対する姿勢を明らかにするなかで、運動は不平士族のみならず農村にも浸透していくことになる。各地の農村の指導者層にとって、地租の重圧は大きな負担であったからである。これによって、自由民権運動は全国的なものとなるのである。この時期の農村指導者層を中心にした自由民権運動を、「豪農民権」と言うのだそうである。

先に登場した久須美秀三郎もそうした一人だったようで、1894年に高田(現在の上越市)で作成された「新潟県下自改両党諸名士取組一覧表」(自は自由党、改は改進党のこと)には久須美秀三郎の名も見える(この資料は上越市のホームページにある)。だから、彼も「豪農民権」と関わりがあったのではないかと推測される。久須美秀三郎と副島種臣との関わりも、そうしたところに生まれたのかもしれない。

それはそうとして、高田と言えば「高田事件」でよく知られている。自由民権運動の激化のなかで、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件が起こり、その頂点としての秩父事件へと連なっていくのであるが、この「高田事件」というのは、1883年に発生した自由民権運動に対する弾圧事件である。

赤井景韶(あかい・かげあき)らの自由党の活動家20名余りが政府転覆容疑で逮捕されるのだが、逮捕された大部分の者が冤罪であった。そのなかで赤井のみが国事犯として収監されることになる。その後彼は脱獄し、その過程で殺人事件を引き起こし、そして逮捕後死刑となるのである。

ところで、家人の昔の同僚に赤井という姓の女性がおり、彼女が言うには、自分の夫が赤井景韶の末裔だと告げたことがあるらしい。飲み会の席だったので、誰もそのことに関心を示さずじまいであったようだが、家人は社会科の教員であり自由民権運動にも少しは興味があったため、彼女の話にいたく関心を示したらしい。こちらも何とも不思議な繋がりではある。

こんな繋がりをあらためて振り返っていると、5月1日のメーデーや5月3日の憲法記念日を前に、歴史の重みが鮮やかな五月の空に浮かび上がってくるような気がする。それにしても何とも爽やかな季節である。たとえコロナ禍であっても、目映いばかりの緑に心は躍る。このところ長かったブログの文章を、巡り行く季節に合わせてすっきりと短くして、元に戻してみた(笑)。清爽の五月を喜ぶ星野立子の二句。

五月来ぬ 心ひらけし 五月来ぬ
薄暑来ぬ 人美しく 装へば

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