「敬徳書院」余滴(続)

 余滴の話が(続)にまでなってしまった。いよいよ今回が最後である(笑)。山梨まで出掛けて従兄弟の眞人さんと会った折に、彼から佐野喜平太の写真や、中央に「神護」と書かれ上下左右に英語(GodやMajestyやJapanやEmperor等の単語)を配したお守りのような小さな額板、それに喜平太が使用していた印鑑3種(私には「泊亭」と刻されたものしか読めなかったが)を預かってくれと頼まれた。

 その時私は、京子叔母から受け継いだ大事な物だろうから、眞人さんが持っていた方がいいのではないかと考えて、彼の依頼を辞退した。しかし、その後彼から同じ物が私の自宅に送られてきた。眞人さんには子供がいないので、是非私に預かって欲しいとのことだった。そこまで言われるのなら預かるしかなかろうと思い、受け取ることにした。彼によれば、先の額板は喜平太が渡米したときのものではないかとのことだった。

 眞人さんは眞人さんで、自らの行く末を考えて、私と会ったことを機会に身辺を整理したかったのであろう。私がブログを終了し、冊子の刊行を終え、「敬徳書院」の店主を辞したら、扁額とともに眞人さんから預かった物を新潟大学の附属図書館に寄贈するつもりである。「佐野文庫」をあれだけ大事に保管してくれているのだから、喜んで私の申し出を受けてくれることだろう。

 ところで、眞人さんとお会いした際に、母親の弟で医師でもある長沼和男という方が自費出版された、『鎌の柄や』(1986年)と題した大著を見せてもらった。1,000ページ近くもあるのだから、文字通りの大著である。この本は、泰蔵の妻であり眞人さんの母親であった京子叔母の実家の様子や、泰蔵と京子の結婚や泰蔵の死を軸にした当時の佐野家の様子などを、身近にいた著者の視点からかなり赤裸々に綴ったものである。

 眞人さんからこの本をお借りして、佐野家に関わる箇所をコピーしておいたので、この機会に改めて読み直してみた。それによると、佐野喜平太は「親分肌の人で人望があったが、大酒家で50歳に達しないうちに(これは誤りである)他界した」し、娘婿として佐野家に入った佐野秀作は「一寸小心のところ」があり、「婿養子であったにもかかわらず代々当主が若死にするとされていた佐野家の例に従って腸チフスのため50歳で死亡」したとある。

 当時の佐野家の人々とりわけ泰蔵に関しても、著者の独特の鋭い観察眼で詳しく描写されている。長身であった泰蔵は、「物静かで上品な話し方」をする人物で、「可成りの読書家」でもあった。だが、旧家の長男であり家柄を大事にしていた泰蔵と、開業医の娘として「ハイカラな生活」に馴染んでいた京子との結婚には、「はじめから若干のかげり」があったとまで記されている。二人の間に最初に生まれた学という子が、早くに亡くなったこともこの本で初めて知った。

 泰蔵の病の兆候やその後の病変、さらには死を前にした泰蔵の様子についても、医師の眼でかなり詳しく触れられている。彼の葬儀に際して、「福島に嫁いでいた佐野泰蔵の姉、高橋タミ夫妻とその娘」が参列したことまで書かれていたのには驚いた。私など何も知らなかったからである。

 泰蔵の死後、息子の敬文さんが佐野家を継ぐことになったわけだが、泰蔵の死をもって佐野家は終焉したと言っても間違いなかろう。この本を巡っては、他にも触れたいところがあれこれあるのだが、あまりに深入りすると余滴をさえ超えそうな不安も感じるので、この辺りにしておきたい。

 最後の最後にもう一つだけ記しておきたいことがある。柏崎にも年上の従兄弟が住んでおり、その彼に「敬徳書院」のホームページが出来たことを知らせたら、私が入手した「敬徳書院」の扁額に関して以下のような内容のメールが送られてきた。そのまま紹介してみる。

 貴殿のHPを拝読して、一つ気になったのが「敬徳書院」の扁額の件です。HPに大きく載っているあの扁額の写真です。実は一昨年、旧佐野家の最寄りの駅である越後線妙法寺から一つ先の和島という所の大地主・久須美家の屋敷が一般公開されました。佐野家より規模が大きく、近在の民のために私財を投げうって越後線を創設、それが原因で没落したと言われています。

 戊辰戦争で焼け残った大きな館が残っていて、現在は長岡市の管理になっていますが、その屋敷が公開された折、私も見学に行ったのですが、広い玄関を入った正面に何とこの敬徳書院の扁額が飾ってあったのです。大地主同士で佐野家との交流もあって扁額を譲られたという説明もありました。

 となると、貴殿が手に入れた扁額は何なのか。同じ物が回りまわって貴方にたどり着いたのか、それとも二つあったのか。書体などから同じ扁額であることは間違いありません。その辺のいきさつは追い追い開陳されるのでしょうが、ちょっとミステリアス、楽しみに待ちたいと思います。

 以上がそのメールである。従兄弟が出掛けたのは、2015年の6月に和島(昔は村で、その後2006年に長岡市に編入された)の住雲園で開催された「久須美家縁の文人墨客展」である。この展覧会に企画の準備段階から運営にまで関わったのが、新潟大学教育学部の岡村浩という方である。

 その岡村さんは、「越後小島谷・久須美家に関する書画」と題した論文を教育学部の紀要(第8巻第2号)に書かれており、そこで先の展覧会との関わりについても詳しく触れておられる。彼の論文のことは、先の眞人さんから教えてもらった。

 この展覧会は、その題名通り久須美家と縁のあった文人や墨客の作品を展示したものであり、久須美家所蔵のものを展示するだけではなく、広く「中央の名流文士との往時の交流をしのぶ」ものであった。越後鉄道(現在のJR越後線)の創設者として知られる久須美家27代の久須美秀三郎は、は中央政界にもかなり通じていたようである。

 長岡市の和島支所が発行している「住雲園と久須美家の人々」と題するパンフレット(これはネットで読むことができる)によれば、衆議院議員を二期務めた久須美秀三郎は、「山縣有朋、勝海舟、大隈重信、渋沢栄一など明治の偉人達とも親交厚きものがあった」ようなので、副島種臣とも何らかの繋がりがあったのであろう。

 そのため、展覧会には副島の手になる越後各地の神社に残る社標や書碑なども展示された。副島が来越した折に久須美家を通じて揮毫を求めたのであろう。しかしながら、副島の来越の目的は不明だとある。板垣退助や後藤象二郎、江藤新平らと共に「民撰議員設立建白書」に名を連ねた副島のことだから、遊説を兼ねて越後の有力者である久須美秀三郎を訪ねたのかもしれない。

 岡村論文では、「敬徳書院」の扁額が「出品作中白眉のもの」であると評されており、「出雲崎の地主兼廻船問屋・佐野氏は文書古典籍を集めていた。その荘厳な文人門に掲げられたもの。代議士をした主人ならではの、つてにたよる揮毫依頼だったのだろう」と記されている。

 この岡村さんという方は、私が扁額を買い取った猪本さんとは昔からの知り合いだとのことで、猪本さんは、岡村さんの依頼もあって先の展覧会に自分の保管する「敬徳書院」の扁額を展示することを承諾したのだそうである。この辺りのことについては、最近猪本さんに電話して確認してみた。私にメールをくれた従兄弟は、「久須美家縁の文人墨客展」に出掛けて、今は私の手元にある扁額を見たというわけである。

 佐野喜平太は、眞人さんが指摘するように、久須美家を通じて副島に揮毫を依頼したのかもしれない。その可能性はかなり高いような気もするが、今ではその経緯は不明である。その眞人さんは、佐野家没落後、文人門と扁額を長岡の悠久山公園で見たことがあると知らせてきたが、猪本さんの話によると、それを門構えにしていた小松パーラーもしばらくしてなくなり、扁額だけは佐野家に出入りしていた骨董商の木内さんに引き取られたとのことであった。

 猪本さんは、大分昔にこの扁額を木内さんの店で見付け、先にも紹介したように、その由来をよく知っていたので買い取ることにし、それ以来自宅に保管してきたというのである。そして、その扁額を猪本さんから買い取ったのが、物好きのこの私である(笑)。奇縁と言うほかはない。

 たったひとつの額を巡って、実にさまざまな人々がさまざまな形で登場してくるものである。この間「『敬徳書院』の扁額のこと」と題して5回、「『敬徳書院』余滴」と題して2回、計7回にも渡って気儘に綴ってきた話も、今回で終了となる。関わりのあった方々についても、好き勝手に書き記してきたのたが、もしも失礼の段があればどうかお許し願いたい。

 元気でいれば、来年にはシリーズ「裸木」の第6号を纏める腹づもりであり、タイトルは「遠ざかる跫音」にでもしようかと思っている。そして、そこに「敬徳書院」の扁額にまつわる話も載せるつもりである。佐藤耐雪さんの『出雲崎編年史』等にも触れたかったのだが、今回はそのゆとりがない。書き足りなかった点については、冊子に纏める際に補筆することにしたい。

 当初、「時代」の波間に漂いながらいつのまにか没していく「人間」の「人生」や、「盛」やら「衰」やらが入り交じって紡がれていく「時間」の「質感」のようなものを描きたいなどと、偉そうなことを語ったが、そんなものには未だ程遠いはずである。非才なのでやむを得ない。

 今回大分長い文章を綴りながらいつも感じてきた郷愁のようなものを、写真や音楽でも表現しておきたくなった。そのために、毎回の文章に写真だけではなく音楽の動画も貼り付けておいた。使用した写真は、2018年に長岡に出掛けた際に撮影したものであり、音楽は昔懐かしい楽曲ばかりである。

 今回は最後だということで、アストル・ピアソラの「リベルタンゴ」にしてみた。ネットでの紹介によると、ピアソラ自身は「リベルタンゴ」について、「新天地(イタリア)での新たな発想への祝福」であると語っていたらしい。Libertad「自由」とTango「タンゴ」の合成語である「リベルタンゴ」は、過去から解き放たれた「自由」への「熱情」であり「祝祭」であり「讃歌」なのであろう。息を呑むばかりの踊りが圧巻である。  

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