続・「老いるショック」考
みうらじゅんの『老いるショック大賞』をニヤニヤしながら読んでいたら、急に続きの話を書きたくなってきた。自分の体験した「老いるショック」を振り返って、笑える話に仕立て上げてみたくなったのである。そんな気持ちになったのは、いつのまにか笑うことが好きになったからである。昔からそうだったわけではない。若い頃は生真面目で一本気、堅物で頑固だったから、笑いとは縁遠かった(はずである)。しかしながら人間は変わる。いつのまにやら笑うことが好きになった。年を取ってきて、まっとうなだけの生き方に息苦しさを感じるようになったからかもしれない。
先日、中学校の同窓会の案内が届いた。3年ぶりの集まりである。もしかしたらこれが最後の同窓会となるような気もしたので、すぐに出席と返事を書いて返信用のはがき投函した。そこには、欠席者はもちろん出席者にも近況を書いて欲しいとあったので、以下のような一文を書いた。紹介してみる。「中学を卒業してから長い歳月が流れ、もうすぐ80歳。元少年もすっかりじいさんになりました。頭はツルツル、眼はショボショボ、膝はガクガク、足はヨロヨロ状態で、まさに『老いるショック』の連続。こうなったからにはショックを笑い、愉しみ、味わうしかありませんね。徘徊まがいの散歩のついでに、盗撮さながらの写真に熱中して、時折昔を懐かしみつつ残された人生を生き抜いてみようかと思っています。同窓会を詠んだ拙句 少年の心残して秋に逢う」
これまでの同窓会の近況報告には、かなり真面目くさった話を書いてきた。仕事の話、家族の話、子供の話、孫の話、趣味の話等々。今から振り返ると、恥ずかしくなるようなことばかりをよくぞ書いたものである。自慢話や成功譚、マウンティングなどは昔から大嫌いであったから、そんな話を書きたかったわけではない。なのに、いつの間にやらそんな匂いが漂ってきていたのである。俗物だからなのか。しかしながら、80歳も目前に迫ってくると、上記のような話などはもはやどうでもよくなる。もっと別次元のことを書きたくて、先のようないささかふざけた近況報告にしてみた。
そこで冒頭の話に戻してみる。私の「老いるショック」の始まりは、40代に入りたての頃にまで遡る。仕事がらみで同僚と沖縄に出掛けたことがあった。仕事もひと段落したので、せっかく沖縄まで来たのだからということで、タクシーに乗って戦跡を巡った。観光地ならいざ知らずあちこちの戦跡を巡る客など珍しかったこともあったのか、運転手に「お客さん、戦前はどちらにいらっしゃったのですか」などと尋ねられた。私は昭和で言えば22年生まれ。偉そうに言うことでもないが、正真正銘生粋の戦後生まれである。そこで「まだ生まれていませんよ」と返事をした。
気まずくなった運転手は「失礼しました」と返事をして、その後黙った。私は別に不機嫌になったわけではなかった。ただ、頭が禿げ始めていたから、年よりも老けて見えるんだろうなあと思っただけである。当時はそうとは思っていなかったが、今から考えれば「老いるショック」の始まりである。禿から生まれる「老いるショック」はその後もあれこれと続いたが、いずれも同工異曲の話なのでここでは割愛する。一つだけ付け加えておけば、昔小僧二人が我が家に遊びに来た折に、本棚に置いてあった金子勝昭の『正しい頭の禿げ方』(風媒社、1992年)を見つけ出して、笑っていたことがあった。よほど可笑しかったのであろう。懐かしい想い出である。
なぜ男の禿げ頭は笑いの対象となるのだろう。そんなことを熱心に考えていると、ますます髪の毛が薄くなりそうなので、何時頃からか考えるのを止めた。高価な育毛剤やカツラにまで手を出したこともあったが、いつの間にかそれらもすべて手放した。面倒臭くなったのである。若くして禿げると男性ホルモンの分泌が旺盛だと思われ、まるで精力絶倫男のように見られたこともあったが、残念なことにただそう見られただけである。比較すべき基準がないから、なんのエビデンスもないほら話や与太話のようなものであろう。
頭の周辺に少しばかり残った髪も、白くなった。セクハラやパワハラに倣ってヘアハラなる新概念を流行らせようと試みたりもしたが、賛同者は誰もいなかった。賛同したとして何の得にもならないし、ただただ恥ずかしい思いをするだけだからであろう。禿げ頭に必要なのは「帽子」である。禿隠しやボケ「防止」に役立ちそうなので、このところ愛用している。帽子を忘れると、何だか人前で裸を晒しているような感覚に陥るからである。
もう一つの「老いるショック」は昨年起こった。スポーツジムのプールでの話である。ジムのプールは、1コースだけ水中ウオーキングをする人のために空けてある。だから、そこでは泳いではいけないことになっている。しばらく他のコースで泳いでいたが、泳ぐのに飽きてウオーキングのコースに移った。プールの水の温度も心地よく、周りに誰もいなかったので、歩いている途中で手足を思い切り伸ばしうつ伏せ状態になって浮いてみた。プールの底を眺めながら浮いていると、体がふんわりして何とも言えない心地よさである。
しばらく浮いていたら、プールを巡視していた若い男性から、「大丈夫ですか」と大きな声を掛けられた。何とも不安げな声であった。老人がプールで心臓マヒで倒れたのかと思われたのかもしれない。これでは「老いるショック」どころの騒ぎではない。すぐに起き上がって「大丈夫ですよ」と返事をしたものの、こちらとしてはかなり恥ずかしかった。年寄りとなったからには、人前で誤解を招きかねないような行動をすべきではないということか。それ以来、プールでうつぶせになって浮くことは止めにした。もしかしたら、ネトフリならぬ寝たふりなども危ないかもしれない。本当に寝ているのではないかとの疑惑を招きかねない。ただし、聞きたくもない話に対して聞こえないふりやボケたふりをするのは、ありかもしれない。
最後に紹介するのは、つい最近の出来事である。場所は近くのスーパーの2階にある百円ショップである。年寄りでもセルフレジでのカード支払いぐらい楽なもんだと、意気揚々と会計を始めた。文具類をはじめあれこれと買ったので、バーコードを探して読ませるのが一苦労。全部読ませたところですっかり安心してしまい、最後のカードでの支払い処理を忘れてしまった。品物だけをもって移動してバッグに詰め込んでいたら、「お客さん、会計が済んでいませんよ」と店の人の声を掛けられた。こんなことは初めてである。店を出ていたら、万引きに間違われた可能性もある。「老いるショック」の極みである。もしかしたら、ショック療法が必要となっているのかもしれない。「老いるショック」恐るべし!

