「老いるショック」考
前回のブログは「老いるショック」の発見で終わったが、今回はそれにまつわる戯れ言や痴れ言のような話を綴ってみたい。このところ、どうしたことか面白くもないことやろくでもないことが、身辺にやたらに起こる。ひとつひとつを取り上げてみれば、世の中にはよくあることで、それほど嘆くようなことでもなさそうな気がする。だから、できるだけ無関心を装って放っておくように心掛けてはいるのだが、小さな違和感ではあっても積もり積もってくると、時折癇に障ってしまうこともある。表情だけではなく声のトーンや発する言葉にまで不愉快な気分が表れてしまうのである。大人(たいじん)ではなく小人(しょうじん)だからだろう。
これではまずいと思って取り繕おうとするのだが、小人なのでうまくいかないことも多い。大人であれば、そんな些細なことなどお構いなく泰然自若としていられるのかもしれないが、気だけは若いものの現実を素直に受け入れることができない年寄りの場合は、そうはいかない。傍若無人の振る舞いとなる。あろうことか、世の中には恥も外聞もなく切れてしまう暴走老人まで登場する始末である。私の場合、今のところそこまでには至っていないが、何となく近付いているような気がしなくもない。ふと我に返って、これぐらいのことを我慢できなくてどうすると自分自身を諫めることもしばしばである。
昔の年寄りは早くに老いてしまったはずだから、不愉快な気分を抱いたまま不機嫌に生きている期間が、今よりもずっと短かったのではないか。ところが現代は違う。いつまでも元気な年寄りが多くなったのである。しかしながら、長生きすればするほど、時代の変化との間に生まれるギャップは大きくならざるをえない。そうなると、世の中から「無用の長物」として取り扱われているといった感覚が、どうしても強まっていくことになる。それが苛立ちを生む。先日は「敬老の日」だった。だが、周りから敬われている老人などいったいどれほどいるものであろうか。こちらは敬われたいと思っているわけでもないから、まあどうでもいいようなものだが、何となく老人を敬して遠ざける日のようにも思えてくる。野球で使われる敬遠のようなものだとでも言おうか。
なかには「無用の長物」扱いされたくなくて、いつまでも過去の地位や経歴にしがみつこうとする年寄りも現れる。これは老害を生むことになる。傍から見ていると、いい年をして何時まで何をやっているのかと思うが、当の本人はいかにも真剣だから始末が悪い。視野狭窄となって周りが目に入らないのであろう。あるいはまた逆に、自分を「無用の長物」扱いしている社会を逆恨みし、しょっちゅう時代をこき下ろすような年寄りも現れる。繰り言や文句ばかりをのたまう老人である。しかもその繰り言や文句を、社会に対する「批判」や「批評」といった何とも立派な精神の発露の如くに勘違いしている年寄りも多いので、これまた困り者となる。
上に触れたようなことは、人様ではなく自分にも少しく当てはまることなので、だからこそ困るのである。そんなこんなでいつまでたっても気分がすっきりしない。先日上の娘から「みうらじゅん」を知ってるかと聞かれた。知らないと答えたら、彼の『老いるショック大賞』(筑摩書房、2026年)が面白いから読んでみたらと一読を勧められた。父親の鬱屈した気分を晴らしてやろうとの娘心だったのかもしれない。最初はタイトルからしてダジャレの本かと思ったが、そうではなかった。実に愉快かつ爽快な捧腹絶倒の本だった。老いを悲しむのではなく笑っているのである。
私が若い頃はオイルショックが世の中を騒がせたが、80歳を前にした今では、老いるショックが毎日を騒がせている。冷蔵庫のドアを開けたものの何を取りに来たのか忘れている。書斎に本を取りに行っても同じである。スパーに買い物に行っても、必ずと言っていいほど買い忘れする。今日は何曜日かも定かではない。何度も同じ話をするので、「以前に話したかもしれないけど」と前振りを言ってから話す。毎日が老いるショックの連続。老いを嘆き悲しむ話などいくらでもある。そんな話をいくら聞いても不機嫌は治らない。だが、自分や家族や知り合いの老いを発見して、ショックを受け大笑いすると、気持ちは和む。
この本の面白さは、直接手に取って味わってもらうしかないが、大笑いしたものを二、三紹介してみる。「90代の父が『最近は若いのに補聴器を付けている人が多いな』と言う。ワイアレスイヤホンだと説明したが、まずワイアレスを信じていない。以来、見るたびにあれも補聴器じゃないのかと聞いてくる」。「久しぶりに知人に会う。『太った?』と訊かれると、ガックリする。『痩せた?』と言われると心配になる」、「買い忘れしないように書いたメモを持って出かけるのを忘れた。家に電話して聞こうと思ったが、スマホも忘れていた」等々。しばらくの間、夜寝しなに笑いながら読んでいたら、家人に気味悪がられてしまった。
不思議なことはあるもので、ゼミの卒業生のS君もまた、作者のみうらじゅんのことをメールでわざわざ知らせてきた。私がこういう人物の書くものが好きなんじゃないかと思ったかららしい。ついでに、「天災も多く『不安タスティック』」ではありますが、ご自愛ください」などと書いてきた。そこで、「コーラよりファンタが好きなファンタ爺」と返しておいた。どうでもいい遣り取りなのだが、何だか気分が晴れたような気がした。先のS君は、みうらじゅんの作品に『アウト老のすすめ』(文藝春秋、2025年)があることも知らせてきた。年を取ったら、世の中のいささか窮屈な規範になど縛られていないで、アウトローの如くに生きるのも悪くはなかろう。さらに言えば、イン老ではなくアウト老でいることが元気の素なのかもしれない。

