夏の福島を彷徨って

 今回の旅行の目的は、久方ぶりに姉夫婦や弟夫婦と顔を合わせて久闊を叙すところにあった。姉夫婦は80代に入り、弟夫婦も70代の半ばとなっているので、会える時に時に会っておかなければと思ったのである。一期一会の気分に囚われたということか。こちらももうすぐ79歳となり、80代も目の前である。今の元気がいつまでも続くわけがなかろう。いろいろと身体の不調はあっても、幸いにも皆元気で過ごしていたので、こちらも安心した。姉の家では次男にも会えたし、弟の家では次女にも会えた。二人とももうすっかり大人となっており、話の輪にも加わってきた。

 福島に顔を出したついでに、あちこちに写真を撮りに出掛けた。この機会に懐かしい場所に出向いてみたくなったのである。出掛けた日の夕方から、福島では「わらじ祭り」が始まることになっていた。日本一となる大わらじを担いで市内の大通りを練り歩くのである。その後このわらじは、信夫山にある羽黒神社に奉納される。仙台の七夕、山形の花笠まつり、秋田の竿灯、岩手のさんさ踊り、青森のねぶたなどと比べると、少し見劣りするような気もしないではないが、懐かしい田舎の夏の風物詩である。

 福島に着き荷物をホテルに預けてから、信夫山の麓にある県立美術館に向かった。美術館で昼食を摂った後駅に戻り、駅前の大通りやパセオ通り、文化通りそして稲荷神社などを巡って市内を散策した。大学進学で上京するまで福島に住んでいたのだから、どこを巡っても懐かしい匂いが感じられた。翌日は午前中に県庁とその側にある紅葉山公園、そして隈畔(わいはん)にも顔を出してみた。調べてみると、隈畔とは阿武隈川の河畔を指す造語なのだという。

 昔結婚前に家人を実家に呼んで福島を案内したことがあったが、その時も二人で隈畔を歩いた。彼女によれば、おじさんから「アベックはいいねえ」などと冷やかされたという。私は恥ずかしそうに俯いていたらしい。そんなことは私の記憶からすっかり消えている。記憶力の良すぎる家人も困り者である。合間を縫って霊山(りょうぜん)の麓にも出向いてみた。弟がクルマで案内してくれたのである。市街地を離れると、田圃の緑が目に染みるほどの美しさである。

 霊山はそれほど高い山ではないが、新日本百名山にも選ばれている。昔々小学生の頃に遠足で来た記憶がぼんやりとだが残っている。霊山は福島市歌の一番の冒頭にも登場する。紹介してみよう。「霊山の雲は高く かがやく朝光(あさかげ) 生々の気運ここに 殷賑(いんしん)今ぞ勢ふ 東北の関門 若き我が都市 栄えあれ福島 我等開かむ」。歌詞を見ると歌がひとりでに口に出て来る。幼い頃に覚えたものはいつまでも忘れないものなのであろう。この市歌の作詞は北原白秋、作曲は山田耕筰。あまりにも著名な二人の作だということを、今回このブログを書くために調べていて初めて知った。

 霊山からの帰り道にひまわり畑が目に留まった。大波城の跡に群生するひまわりを眺めていたら、映画『ひまわり』を思い出した。帰り際に、畑の手入れのために近くにいたおじさんが、「持ってぐがい」などと気軽に声をかけてくれて、4~5本切って持たせてくれた。この日の夜は、弟の家の近くにある中華料理店で、友人たちと会った。二人とも身体にはあれこれと不調をかこつことがあったようだが、今は心配するほどではないとのことだった。Hは病気を機にすべての役職から降りたと語っていた。店を出たら、遠くに花火の光が見えた。何とも幻想的な光景だった。暗闇の中の光が夏の終わりが近いことを思わせた。

 翌日はタクシーを貸し切って懐かしい思い出の場所を巡った。上京するまで住んだ五月町のわが家があった場所、第一小学校、附属中学校、福島高校、そして信夫山の展望台。さらには飯坂線に乗って醫王寺にまで足を延ばした。そしてたくさん写真を撮った。先に福島市歌の話をしたが、校歌なども忘れ難い。小学校の校歌は、「連なる吾妻の山青く」で始まる。校舎には、「終始一誠意」の言葉が入った横断幕が張られていた。今でも覚えているこの言葉は、中国の宋の時代の学者であった朱長文(しゅ・ちょうぶん)に由来するようで、学校の校訓などに広く使われてきたらしい。中学校の「集いの歌」には「希望燃え立つ学び舎に 今咲き競う我等こそ」とあった。今にして思えば、確かにあのころ皆が皆希望を胸に咲き競っていたのであろう。

 高校の校歌は、「徽章は香りのいみじき梅花」で始まる。その二番に登場する「心字の池水(ちすい)」は、3.11の後水が枯れてしまったとのことだった。昔この池の前で当時の文芸部の部員が集まって、顧問の須田先生とともに写真を撮ったことがある。あの写真はどこにいってしまったのであろうか。校歌は、作詞が詩人の土井晩翠、作曲が「早春賦」でよく知られている中田章である。応援歌の「あかざの香り」も忘れ難い。

 泊まったホテルには大浴場が付設されていたので、わざわざ飯坂温泉に行く気がなくなった。そこで、変わったところで醫王寺はどうかという話になった。単線の飯坂線の駅舎はどこも田舎の風情をたたえており、写真心がくすぐられた。桃畑を通り抜けて醫王寺に着いた。ここには何度か来ているが、最初は父と来たような記憶がある。誰もいない森閑(しんかん)とした寺内を散策していると、蝉の声が高い杉の木から響き、懐かしい思いばかりが溢れてくる。安住敦(あずみ・あつし)の句「妻がゐて子がゐて孤独いわし雲」がふと思い出された。この日の夜には、中学校の同級生と夕飯を共にした。職場でも家庭でも悩みは尽きないようだった。誰もが自分の人生を苦労しながら最後まで生き抜こうとしているのであろう。

 最終日には、午後の新幹線の乗車時間までの間に、福島市写真美術館(愛称は花の写真館)に出向いてみた。弁天山の隣に花見山公園があるが、昔ここを訪ねた写真家の秋山庄太郎が「福島に桃源郷あり」と称えて全国に紹介したこともあって、花の名所として広く世に知られることになった。こうした由縁もあって、市によって彼を顕彰する写真館ができたとのこと。写真に興味を持ち始めたこともあって、のんびりと鑑賞してきた。彼は花自体の美しさに魅入られたようだが、私はどちらかと言えば、風景の中に咲く花々の方が好きである。意外だったのは、この写真館の建物が旧さを感じさせたままであり、カメラを向けたくなったことである。

 花見山公園と言えば、既に亡くなってしまったYさんが、桜の季節にこの公園から吾妻連峰を撮った絵葉書を送ってくれたことがあった。そんなことも懐かしい想い出である。盛沢山だった福島行も、過ぎてみればあっという間であった。もしかしたら、福島に住み続けた人には私が抱いたような感傷は生じにくいのかもしれない。あまりにも見慣れた風景だからである。帰りの新幹線に乗車して福島の想い出をぼんやりと振り返っていたら、瞬く間に東京に着いた。こちらもまたあっという間であった。駅の人ごみに揉まれていたら私の感傷もあらかた吹き飛んだ。

    

 

 

 

 

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