晩夏の山陰、隠岐紀行(一)-松江の明々庵にて-

今回から5回に渡って、「晩夏の山陰、隠岐紀行」と題した旅日記を綴ってみることにした。中身は、先月半ばに出掛けた社会科学研究所主催の調査旅行の話である。その趣旨等についてはすでにブログで紹介済みなので、ここで詳述することは避ける。一言で言えば、「地域資源を活用した地域づくり」である。地方の多くは軒並み少子高齢化による人口減少に見舞われて衰退が続いているが、そうしたところで取り組まれている地域再生の試みを現地に赴いて眺めてみようというわけである。

今回ブロブに旅日記を綴るにあたって手直ししたことが二つある。一つは回数を絞ったことである。多すぎると、読んでいる方も辟易する。もう一つは一回当たりの文字数を2500~3000字程度に短縮したことである。スマホで手軽に読んでもらえるようにしたいのである。二重にダイエットすしたので、少しばかり読みやすくなるのではあるまいか。年寄りの長話は嫌われるが、それと同様に長文(ながぶみ)も嫌われる。だらだらと締まりのない文章が続くと、読む気力は奪われる。それを避けたいのである。

今回の調査旅行の集合場所は、島根のJR松江駅であった。午後2時近くの待ち合わせだったので、新横浜駅から朝早い新幹線に乗り込んだ。岡山駅で伯備線の特急やくもに乗り換えて、松江に向かった。旅に出たという気分になったのは、初めて乗る伯備線の車窓から山間(やまあい)の景色を眺めつつ、旨い弁当を広げてからである。伯備線は、中国山地を挟んで山陽地方と山陰地方を結ぶ路線であり、旧国名の伯耆(ほうき)と備中(びっちゅう)から伯備線と命名された。倉敷駅と伯耆大山駅を繋いでいる。倉敷側では山陽本線の岡山駅まで、伯耆大山側では山陰本線の出雲市まで乗り入れている。

日本海側に辿り着いて安来(やすぎ)駅にも停車した。駅のホームでどじょうすくいの格好をした人が、安来節を踊っているのを見かけた。調べてみると、安来駅では、毎週日曜日にボランティアによって安来節による出迎えが実施されているとのこと。本場ならではの、ユニークな観光客歓迎イベントである。そう言えば調査旅行の初日は日曜日だった。のちに触れるが、安来は、中国山地のたたら製鉄で生み出された玉鋼(たまはがね、日本刀の原料となる高品質の鋼のこと)や鉄の積出港として栄え、鉄づくりの守護神を祭る金屋子(かなやご)神社の総本山が鎮座する聖地である。

松江に着いた我々は、タクシーに分乗して茶室明々庵に向かった。松江は松江城の城下町であり、また水の都でもある。西側の宍道湖と東側の中海という二つの大きな湖に挟まれ、市内を大橋川や城を囲む堀川があり、町のいたるところに川が流れ橋が架かっているからである。それとともに、松江は「茶の湯文化」が広がっているところとしても知られている。松江に根付いたこの文化は、果たしてどんなものなのか。それを知る格好の場所が明々庵であった。

明々庵では、茶を飲む前に支配人から、茶の歴史から、茶道、松江ゆかりの不昧(ふまい)流、そして茶人不昧についての話があった。それによると、松江は京都、金沢と並んで三大茶処、菓子処だと言う。これらの都市では茶会が催されており、茶に添えられる菓子である松江の「山川」は、三大銘菓の一つらしい。そんな話の後にようやく出された抹茶と菓子だったので、何だかひどく有難味が増したような気がした。

松江に茶の湯文化をもたらした人物は、松平家の七代目の藩主松平治郷(まつだいら・はるさと)である。号は不昧と言った。昧という漢字から思い出されるのは無知蒙昧の昧であろう。不昧だから道理に暗くないと言いたいのか。彼は江戸時代の後期を代表する大名茶人である。松江ゆかりの武家茶道は不昧流と呼ばれ、点前(てまえ)、禅、道具の三本柱からなる茶道を言う。「茶禅一味」(ちゃぜんいちみ)と呼ばれる精神を、ことのほか重視したようである。茶室も眺めたが、実に簡素で端正な造りで、まさに断捨離の極致のようにも思われた。こんなところでお茶をふるまわれれば、俗界の塵芥も流されるに違いなかろう。

不昧は数寄屋造りの草庵茶室を好んだようで、明々庵や菅田(かんでん)庵といった茶室は、母屋から独立して建てられている。こうしたところで、先の茶禅一味を味わいたかったのであろう。また彼は、膨大な数の茶道具の収集家としても知られており、解説書まで残している。松江の人々は、文化人としての治郷に敬意を表わすとともに、親近感も抱いているようである。ごく普通に不昧「公」と呼んでいるところにも、それは感じられる。先の支配人は、落語の「目黒のさんま」に登場する殿様は不昧だとも語っていた。人間臭い殿様だと思ったからかもしれない。しかしこの落語は、世情に疎い殿様をからかった噺である。

明々庵からは国宝松江城が遠望された。いささか書割のようでもあったが、快晴の碧空に浮かぶその美しい姿はなかなか見応えがあった。不昧はあの立派な城の城主でもあり、また同時に明々庵を造った人物でもあった。その二つがどうもうまく繋がらない。落差が大きく感じられたからである。明々庵を訪ねて気になったことが二つあった。一つは、大名茶人としての不昧は、城主としては果たしてどのような評価だったのかということであり、もう一つは、茶禅一味を大事にし、簡素で端正な茶室を愛した人物が、何故に大枚を投じて数多くの茶道具の収集に熱を上げたのかということである。もしかしたら、私のそんな違和感を解き明かしてくれるかもしれないと思い、帰り際に二冊の冊子を購入した。その二冊とは、『今に生きる不昧』(2018年)と『令和につなぐ不昧のこころ』である。ともに山陰中央新報の記事をまとめた冊子であり、同社刊である。

私が感じた違和感は、既に他の方も抱いていたようで、次のような記事が目に留まった。紹介してみる。不昧は「明治時代は東京の数寄者(すきもの、風流な人物のこと人)の間では高く評価されたが、茶人という側面に限定的だった。大正に入り名君とされた。不昧好みの和菓子がリメークされ、ゆかりの窯元が注目された時代。背景に商売上の利益獲得や、鉄道網発達で観光振興を図る目的があった。 誇れる郷土の偉人が欲しい。それなら不昧を名君に。虚像が一人歩きを始めた。

1917年に松平家が書籍『松平不味伝』を発刊した。終戦後、不昧が一部で暗君とされるきっかけの書だったかもしれない。茶道についての動きは入念に書かれ、藩主の業績にはあまり触れていない。お茶の殿様のイメージが強まった。900点超とされる茶道具を収集した行為は、文化財保護と好意的に評価される一方、道楽者とのレッテル貼りにもつながりかねなかった。終戦で日本人の価値観が変わる中、評価はマイナスへ働いた。『茶道具収集に溺れ藩財政を傾かせた』と。藩主だった時に飢饉があり、餓死者も出たのだろう。農民一揆の発生が記録される。収集を続け民を顧みなかったという見方をされた」。なるほどと思わせる記述である。

さらに興味深い記事も見つかった。こちらも紹介しておく。「武家のたしなみのお茶に庶民が憧れたのは全国共通。お茶が解禁になると人々は買い求めた。しかし、最初は抹茶でもやがて煎茶に移行した。中村茶舗の中村寿男社長は『茶道という礼法と結び付いたことが抹茶の敷居を高くし、敬遠されたのでは』 とみる。そのまま抹茶が残った松江や島根県東部は例外だ。これは不味とは無縁ではないだろう。大名茶人に対する、ひとしおの憧れや敬慕の念が抹茶中心のお茶文化を育んだのではないか」。私が興味深く読んだのは、「茶道という礼法と結び付いたことが抹茶の敷居を高くし、敬遠された」という指摘である。装道(着物)にしても華道(いけばな)にしても同じようなことが指摘ができるのではあるまいか。明々庵同様もっと簡素で端正なのがいい。不昧から学ぶものがあるとしたらそこかもしれない、ふとそんな気がした。