玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(五)

 「海ゆかば」雑感

 しかし、「防人歌」との繋がりで直ぐに思い起こされるのは、巻十八にある大伴家持の長歌からとられた「海ゆかば」であろう。「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の邊にこそ死なめ かえりみはせじ」という歌詞であり、信時潔が作曲した。戦前は第二の国歌ともなり、「玉砕」時には必ずラジオから流されたこともあって、あまりにも悲壮かつ荘厳な歌となった。

 ネットで当時の映像を探すと、息子や夫を亡くした大勢の喪服姿の母親や妻たちが靖国神社の拝殿前に正座し、兵士たちが直立不動で捧げ銃をするなか、神官が通り、天皇をはじめとした皇族たちが「英霊」の御霊安かれと頭を垂れる、そんななか「海ゆかば」が流れるのである(映像の場面で実際に演奏されたかどうかはわからないが、いかにもありそうである)。数多くの若者たちが「大君の邊」に命を落として「屍」となっていったのに、そしてまた無数のアジアの人々が侵略戦争の戦火の犠牲となったというのに、「大君」であった昭和天皇は、いったいどんな責任を取ったというのであろうか。今でも許しがたい思いは消えない。

 1975年の訪米を前に行われたニューズウィーク誌との会見で、戦争責任について問われた昭和天皇は、次のように発言している。「そういった言葉のアヤについて、文学方面はあまり研究していないので、お答えできかねます」。「大君」にあるまじき、余りにも驚くべきかつまた恥ずべき発言であり、一人の人間の物言いとしてみても愚劣きわまりない。詩人の茨木のり子も、そしてまた作家の藤枝静男も、「天皇個人への怒り」を感じたようだが、当然の感性なのではあるまいか。

 天皇もまた天皇制の犠牲者であるなどとしたり顔で語るようでは、人が良すぎるにも程があると言うべきだろう。そこまでの人の良さはもはや罪である。自衛隊の音楽隊などは、今でも「海ゆかば」を演奏したり歌ったりしているようだが、こんな「大君の邊」に屍となろうとでもいうのか。

 件の土生田さんは、金田城で休んでいる時、「『海ゆかば』は家持の天皇に対するゴマスリの歌ですよ」と喝破したが、さもあらんと思った。「防人歌」のなかには「今日よりは 顧なくて 大君の 醜の御盾と 出で立つ我は」といった歌のようなものもたくさんある。「醜の御盾」(しこのみたて)といった言葉も戦前よく使われたらしい。権力闘争の渦中にあった選者の家持が、天皇を意識して選んだものもあったであろう。

 しかし、防人たちの本心はそんなところにはなかったのではあるまいか。「防人歌」がもてはやされるようになったのは先の大戦からで、戦意高揚と忠君愛国の宣揚のために政府が大々的に利用した結果、その存在が広く世に知られることになったのだという(この辺りのことについては、太宰府天満宮の側にあった九州国立博物館のショップで手に入れた郷土歴史シリーズの一冊である『防人』(さわらび社)に詳しい)。

 ところで、冒頭で触れた武田祐吉には、『勤皇秀歌(萬葉時代篇)』(聖紀書房、1942年)なる著作がある。この本は、「我が國は、太古以來尊嚴無比なる國體を護り來たり、國民は、その國體の本義に依り、崇高なる勤皇精神を以って、活動の指針と為したのである」などと書き始めるような何とも怪しげなものなのだが、ここでは時代の相を反映して「海ゆかば」が天まで持ち上げられている。例えば、「日本民族の祖先が、數千年前の古代に於いて、かやうに堂々と國民精神を發揚してゐことを、この歌に依って知り得るのは實に快絶である」などと述べられる如くである。

 家持もゴマをすったようだが、武田も、それほど恥ずかしげもなく時代に阿っていたのであろう。そんなことを思うと、時代に興奮し感涙にむせぶことの多かった万葉愛好の歌人などよりも、花鳥諷詠から余り離れずに、比較的落ち着いていた俳人の方が、余程立派だったと言えるのではあるまいか。

 更に付け加えておけば、武田には当時の文部省思想局が編纂した日本精神叢書(因みにこの叢書は、国民の「日本精神の心解と體得とに資せしめる」目的で刊行されたものである)の14にある「萬葉集と忠君愛國」(1936年)と、26にある「萬葉集と国民性」(1937年)を出している。前著では、忠君愛国の精神やら皇室の慈恩やら報國の精神やら神ながらの國やらを説いてるし、後者においても萬葉集と日本精神やら敬神崇祖やらを説いている。言ってみれば、当時の国粋主義的なイデオロギーの宣伝と普及に、一役も二役も買っていた訳である。

 にも拘わらず、戦後に出た『武田祐吉著作集』全8巻(角川書店、1973年)では、先の『勤皇秀歌』をはじめこれらの著作はすべて除かれ、彼はただただ上代文学に関する真面目な学究ででもあったかの如くに取り扱われているのである。あまりにも厚顔無恥であり、いい加減が過ぎるのではなかろうか(旭日と富士を描いて神州日本を讃仰していた横山大観が、戦後「私はただの風景画家でしたから」などと平然と居直っているのによく似ている)。

 こんなことを書き連ねているうちに、堀田善衛の『故園風來抄集』(集英社、1999年)に収録されている「古事記から万葉集へ」というエッセーを思い出した。それによれば、彼は学生時代に、すでに全員が特攻隊員となっていた霞浦海軍航空隊の士官たちのとんでもない宴会を目撃する。

 狂乱の挙句、二階の広間から皿小鉢や卓袱台が放られただけではなく、畳まで剥がされて投げ捨てられ、庭の灯篭も倒れたという。乱痴気騒ぎがすんだ後でその部屋に入ると、墨で黒々と「敵艦轟沈、天皇陛下万歳」などと記されていただけではなく、その下には驚いたことに生々しい「男女媾合の図」があったという。この「男女媾合の図」には、性を巡る大らかな笑いなど一欠片もない。

 堀田は、「痛ましいばかりの内心の荒廃が露呈」した「デカダンス」であったと書いている。逃れようもない死によって生み出された「荒廃」であり、「デカダンス」であったはずである(百田尚樹の『永遠のゼロ』などが触れようともしない一断面である)。しかも、そこには万葉集と古事記の岩波文庫が放り出されていたという。

 この二著は、「大君の邊」に屍となることを受け入れさせる手段として、大いに活用されたのであろう。堀田は、防人の歌などを持ち上げて若者たちの思想改造に熱中した「犯罪的な思想家たちに対する憎悪」から、戦後20年にわたって「古事記と万葉集を手にすることを拒否して来た」のであった。「憎悪」とまで書く堀田にこそ、深く学ぶべきものはある。