瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(五)

 「坂の上の雲ミュージアム」にて

 話があちこちに飛んでしまって、何とも纏まりのない文章になってしまっているので、再度旅の話に戻そう。尾道で一泊した私たちは、翌日しまなみ街道を渡って四国松山に向かった。夕刻に出掛けたのは、ホテルの真向かいにある「坂の上の雲ミュージアム」である。作者である司馬遼太郎の記念館(この名称の記念館は、彼の生まれ故郷である東大阪市にある)とでも言うのであれば、それはそれでわからなくもないが、こうした名称では松山に建てることは出来ないし、その意味もない。

 松山に建てるからには、松山出身の秋山好古(あきやま よしふる)、真之(さねゆき)兄弟や正岡子規が登場する「坂の上の雲ミュージアム」と命名するしかない。世の中にあまねく知られた作品とは言え、彼の一作品の名を冠したミュージアムだと言うのであるから、一体どのようなものなのか興味が沸いた。建物は安藤忠雄の設計によるとのことで、外観もそうだが内部もなかなかに斬新な作りである。贅沢な空間のなかに身を置いて、ゆったりとした気分で展示物を見て回った。

 傍迷惑も顧みずにその時の正直な気持ちを吐露させてもらうならば、立派な建物とは対照的に、展示されているものが余りにも貧弱だと言うに尽きる。内容が何とも乏し過ぎるのである。一通り見ては廻ったものの、予定の時刻までだいぶ時間が余ってしまった。売店で資料でも探そうかと思って見廻したが、買いたいものも特にない。何やら壮大な空洞の中にいるような虚しささえ覚えないではなかった。

 ミュージアムの名称となったこの『坂の上の雲』という作品は、1968年から1972年にかけて『産経新聞』の夕刊に連載された。連載が開始された1968年という年は、政府主催の「明治100年記念式典」が大々的に挙行された年でもある。この年からの連載の開始には、何やら因縁めいたものを感じないでもない。あるいは、もしかしたら、はっきりと自覚されたうえで始まったのであろうか。

 1972年に単行本化されてからこれまでに発行された部数は、累計2,000万部を超えたとも言われており、司馬作品の中では『竜馬がゆく』に次ぐ大ベストセラーである。近年は100万部を超えれば立派なベストセラーのようであるから、2,000万部ともなればもはや異様なまでの売れ行きと言う他はない。何故にそれほどの数の読者を獲得し得たのであろうか。やはりそこが気になる。

 勿論ながら、徹底した資料の収集と「歴史探偵」と呼ばれる程の微に入り細に渡った検証にもとづいて(こうした評価自体が、この「小説」で描かれた世界をすべて「事実」として受け止めさせる誘因になっており、そこに落とし穴もある訳なのだが…)、「物語」を紡ぎ上げていく作者自身の力量も、それはそれで並大抵のものではなかろう。そのことを否定するつもりはないし、またその必要もない。

 「癒やされる」ことの危うさ

 だが果たしてそれだけで、先のような売れ行きを説明出来るものであろうか。やはり難しかろう。膨大な時間をかけ丹念な取材にもとづいて描かれた歴史小説が、同じように売れる訳ではないからである。勝手に推測するに、描かれた世界が政治家や経営者まで含んだ多くの国民の心性に、強く共鳴したからではないのか。もっと正確に表現するならば、国民の心性に共鳴するような内容の「物語」を、作者自身が意図して描いたからではないのか。どうもそんな気がするのである。

 アジア・太平洋戦争での敗北と無条件降伏によって、戦前に作り上げられた「物語」を根拠とした、日本人としての自信や誇りやアイデンティティーといったものは、一挙に崩壊した。そこに生じた崩壊感覚というものは、戦後復興と高度成長による「経済大国」の達成によっても、癒やされることはなかった。『坂の上の雲』は、そうした崩壊感覚を癒やすための「物語」として、登場してきたようにも思われるのである。

 では、先のような崩壊感覚は、何故いつまでも癒やされなかったのであろうか。『永続敗戦論』(太田出版、2013年)の著者である白井聡の指摘を踏まえてみると、「経済大国」なるものは、敗戦の帰結としての政治・経済・軍事のすべてにおける対米従属構造が永続化されることによってもたらされたものであり、そのことが、敗戦そのものを巧みに隠蔽し否認するという多くの日本人の歴史認識や歴史意識の構造を、持続させてきたからであろう。

 しかしながら、敗戦を糊塗し隠蔽し否認している限り、表面的には崩壊感覚は癒やされたかのように見えながらも、替わりとなる「物語」がない限り、いつまでも現実を無視したままであるという胡散臭さを、どうしても払拭することは出来ない。

 もう少しわかり易く言えば、「経済大国」なるものは戦後の精神的な空白を埋め合わせるかの如くにして達成されたのであるが、逆にそれが故に根無し草の「豊かさ」とならざるを得ず、そこに纏わり付く漠然とした不安を、払拭することは出来なかったのである。「経済大国」の達成という「成功」が、改めて精神的な空白の持続という「失敗」を国民の間に強く意識させたと言い換えることも出来るかもしれない。広く社会に定着したと思われていた戦後民主主義も、その底流においては依然として先のような崩壊感覚を抱え込んでいたのであろう。

 『坂の上の雲』の連載が始まった1968年という年は、若者の「叛乱」の爆発的な広がりということでも注目される年であるが、精神的な空白という感覚は、そこにも通底していたようにも思われる。戦後民主主義を「虚妄」として足蹴にする言説と、凄惨な「内ゲバ」にまで至る暴力主義的な行動様式に、精神的な空白に対する苛立ちを見て取ることも可能であろう。

 そうした時代に、『坂の上の雲』という近代日本の黎明期の青春の輝きを描いた「物語」、そして日清・日露戦争での勝利を描いた「物語」が投じられたのである。精神的な空白を埋め合わせるうえで、格好の妙薬となったのではあるまいか。言ってみれば、国民の多くが待ち焦がれていた強精剤や回春剤のようなものであろう。そして、作者自身もそのことを十分に自覚して執筆していたようにも思われるのである。

 そのことは、日清戦争から日露戦争にかけての日本のように「奇跡を演じた民族」はまず類がないとか、日本海海戦での勝利を「人類がなしえたともおもえないほどの記録的勝利」であったなどと書いていることからも、明らかであろう。こうした、作家の文章と言うにしては何とも無防備かつ無遠慮な(つまり、あられもないということだが-笑)表現に出会うと、私のような「東京物語」などを愛する人間は、いささか顔の赤らむ思いがするのではあるが…。

 彼の作品は、文学ではなく「歴史講談」だと評されたり、雑談に次ぐ雑談だと指摘されたりもするが、言い得て妙である。だから、堅苦しさを感ずることなく面白く読めるのであろう。「国民作家」の「国民作家」たる所以である。私はと言えば、『坂の上の雲』全6巻(文藝春秋、1072年)だけは古本屋で購入して斜め読みや飛ばし読みを試みたものの、こうした壮大な「物語」にどうしても生理的に付いて行くことが出来ない。

 「長編」よりも「短編」の方が肌に合うし、「大説」よりも「小説」の方が好きだし、しかもその「小説」の中では「私小説」を愛しているような人間であっては、付いて行けなくて当然であろう。そもそも、ベストセラーと言われただけでそっぽを向きたくなるようないささか狷介な人間なので、付いて行きたいという訳でもない。

 司馬遼太郎本人は、「戦争賛美」と「誤解」されることを恐れて、生前「坂の上の雲」の映像化を断っていたとのことである。こうしたエピソードさえも、作者と作品の評価を高めているのであるが、誤解を恐れずに言えば、「誤解」されうる要素を十分に含んだ作品であるとも言えるのではあるまいか。敗戦を糊塗し隠蔽し否認する歴史修正主義の潮流に連なる人々も、「坂の上の雲」をきわめて高く評価しているようであるが、果たしてかれらの評価を「誤解」であると一蹴出来るものであろうか。そんな疑問も沸く。君側の奸が駄目な場合も多いが、そんな奸を側に置く君が駄目な場合もあるからである。

 先のような事情もあって『坂の上の雲』は死後も映像化されずにいたが、その後NHKでテレビドラマ化され、2009年から2011年の足掛け3年にわたって断続的に放映された。かなりの人気を博したようであるが、私はとうとう何も見ずじまいだった。