東日本大震災私記(一)

 はじめに 

 春先に投稿を予定していたのは、東日本大震災をテーマにした文章であった。これまでに書いたものを、この機会に整理してまとめておきたいと思っていたからである。書いたものは三つほどある。一つは「東日本大震災私記」(かながわ総合政策研究センター『所報』NO.168、2011年10月1日)であり、もう一つは同じ『所報』に掲載された「東日本大震災私記(続)」(No。170,2012年2月1日)であり、そして最後が、「被災地再訪-「あの日」の「その後」に関する断章-」(『専修大学社会科学研究所月報』NO。618,619合併号、2015年1月20日)である。ブログへの投稿を機に、だぶっている箇所を削除し若干の加筆を施して、一続きの読み物になるように仕上げてみた。タイトルは、最初のものが気に入っていたので、これをを活かして「東日本大震災私記」とすることにした。

 毎年のことではあるが、年が明けてから初春にかけての肌寒い時期に思い出すのは、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災と、2011年3月11日に発生した東日本大震災である。今日の日付は4月23日なので、死者が6,434名にのぼった阪神・淡路大震災から24年目を迎え、死者が15,896名、行方不明者が2,536名にのぼり、原子力発電所の事故によって大規模な放射能汚染が広がった東日本大震災から、8年目を迎えたばかりである。直接の被災者にとっての時間感覚は恐らくまったく違ったものであろうが、私などからすると、もうそんなにも長い歳月が過ぎたのかといった感慨さえ覚える。

 私もそうであるように、亡くなった近親者や知人・友人のことをそう簡単には忘れることができない。無理に忘れようとすればするほど忘れられなくなるのである。大事なことは、死を記憶し続けることであろう。そうすることによって、死者はようやく心中に埋葬され、その結果、生者は死者によってよりよく生かされることになるのではあるまいか。メメント・モリという言葉がある。「死を記憶せよ」と訳されるようであるが、そうした言葉が今でも残っており、繰り返し蘇っているところを見ると、死を記憶し続けるのはそう簡単ではないということなのかもしれない。

 福島県の中通り北部に位置する福島市に育った私としては、東京電力の福島第一原子力発電所で発生した、炉心溶融(メルトダウン)を伴った史上例を見ない過酷な事故(この事故は、国際原子力事象評価尺度において最悪のレベル7に分類されている)について、何時までも記憶を新たにしておきたいと願っている。それ故、3月11日の直前あるいは直後にでも投稿したいと思っていた。しかしながら、居住する団地の管理組合理事長の仕事に関連して、予期せぬ(いや、もともと予期されていたことかもしれない-笑)出来事に見舞われてしまい、どうしてもそのための時間が取れずに、投稿が遅れることになった。だがよくよく考えてみると、その日の前後には多くのメディアが3.11を取り上げるので、その日をいつまでも忘れたくない人間にとっては、すっかり静かになった今頃取り上げる方が、かえっていいのかもしれない。

身辺雑記

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