晩夏の佐渡紀行(三)-描かれた佐渡を読む②-

 「描かれた佐渡を読む」の2回目に取り上げるのは、ともに佐渡の出身者であり、またともに佐渡を離れた青野季吉と若林真である。二人は生まれ故郷の佐渡に対してどんな思いを抱いていたのであろうか。その辺りが気になるところである。青野季吉ならまだしも、若林真については、知らない人も多いであろう。実は私自身も、ここで取り上げるまで彼のことについては何も知らなかった。フランス文学者として著名な人物で、多くの翻訳もある。

 ●青野季吉の場合-生まれ故郷の佐渡-

 ところで、先の井上靖は新潟から佐渡に向かう船内で、青野季吉の『佐渡』(小山書店、1942年)を読んだと書いている。随分古い本だが今でも手に入れることができる。青野季吉は佐渡の佐和田の生まれで、プロレタリア文学に関する文芸評論家として著名であり、「種蒔く人」の同人でもあった人物である。佐渡の歴史に関する叙述も多いこの本は、今読んでも大変興味深いし、また佐渡の風土というものを知るうえでも役に立つ。彼は冒頭で、芭蕉のあまりにも有名な句「荒海や 佐渡に横ふ 天の川」が佐渡の印象を形作るのに大きな役割を果たしたと述べている。

 この句が残す観念は、荒海の向ふに浮かんだ流人の島と云う寒々とした形を植ゑつけないではおかない。句の構成から云っても、荒海と天の川と云う廣大無邊自然のなかに、佐渡と云う限定された存在が、ぽつッと配置されているのだから、その観念が刻まれるのは、當りまへである。(中略)言って見れば、荒海やの句の魔力が、佐渡の絶海の孤島感を、ひとり勝手にひろめて止まないのだ。

 「絶海の孤島」とまでは思わないにせよ、私もまたどこかにそんな印象を抱いてきたので、なるほどと独り合点した。著名な藝術作品が世の中に与える印象というものは、もしかしたら想像以上に大きいのかもしれない。しかしながら、そうした印象は現実の佐渡とは違っている。青野は佐渡の大きさに関して、以下のようなことを書いている。

 佐渡をはじめて観る人が、その意外な「大きさ」に驚くのは、船上で大佐渡、小佐渡の連山を眺めた瞬間だけではない。いよいよ船が夷港(現在の両津港のことー筆者注)について、周囲四里餘の加茂湖を観たり、それにつづいて打ちひらけた国仲平野を観たりすると、改めてまた別種の意外感を起こさないものはない。

 今回の場合ある程度の予備知識を得て出掛けているので、意外感はかなり小さいものの、バスで廻っていると島にいるような感じはまったくしない。それだけ広いのである。日本列島でもっとも大きな島であり、その面積は東京23区に匹敵するというのであるから、島に入れば島を感じなくて当然であろう。

 他にも紹介しておくべきことは多々あるが、私が興味を持ったのは、終わり近くや後記で披瀝されている彼の感懐である。私もまた指摘されているようなことに関心を抱いているので、いたく心が惹かれたのであろう。どこかで自分自身を見出したいと思って書くこの雑文なども、きっとそうしたものに違いない。

 私の目は,古い佐渡、ないしは不易の佐渡へもっぱっら向けられて来た。これは、いまの私の願望、二つとない故郷をあらたに見出したいと云う願望が、おのづからとった姿勢である。ひとは、そう云ふ願望に駆られる時、まづそこに目を凝らして、故郷と云ふものを造形しないではをれない。自己を喪失した個人が、あらたに自己を見出そうとする時、まづ彼の家や血の系譜に分け入らうとするのと同然である。

 私は佐渡に生まれて、佐渡を喪った一人だ。しかし喪ったことは、忘れたことではない。(中略)この書で私は、主題によって、語りかける相手をかへた。故郷の人に、他国の人に、或は目に見えぬ何者か。半ばは主題がそう命じたのだ。しかし結局、私は自分自身にしか語らなかった。喪った故郷を再び見出し度いと云うのが、このを書をかく念願だったからだ。

 ●若林真の場合-離脱し回帰する佐渡-

 他に誰か佐渡について面白いことを書いている人はいないかと、暇にまかせてあれこれ探してみた。私は故郷の福島に関する本だけではなく、新潟に関する本も少しは持っている。母が新潟の出雲崎の出身だからである。その一冊に「再発見!新潟ガイド」と副題の付いた『文学風景への旅 上』(考古堂、1989年)があり、パラパラと眺めていたら「佐渡の文学風景」という章があった。早速読んでみたら、両津生まれのフランス文学者である若林真の『海を畏れる』(文藝春秋、1973年)や長塚節の「佐渡が島」などが紹介されていた、

 『海を畏れる』は先に紹介した青野季吉の『佐渡』と同様の趣で書かれているようで、「海に囲まれた佐渡を世界における島国日本に比定し、佐渡出身の一知識人の故郷離脱と回帰との想念を文明批評と重ね合わせて書いた小説で、佐渡の文学風景のびっしり詰まった小説」であると紹介されていた。私のような人間がすぐに飛びつきたくなるような紹介文である(笑)。早速入手して読んでみたら、こんな箇所が目に留まった。

 四郎治の言うとおり、時の権力に容れられなかった芸術家、僧侶、政治家の史跡がこの辺りには多かった。古希を過ぎた世阿弥が、都を偲びつつ、荒れはてた草庵で、観る人もないのに自作の曲を謡い、舞っていたと伝えられる正法寺、鎌倉幕府の勘気に触れた日蓮が二年もの蟄居を強いられた妙照寺、承久の乱に敗れた順徳上皇の配流の居であった黒木御所、これらの史跡はいずれも、いまハイヤーを走らせている幹線道路からほど遠からぬところにあり、小学校や中学校の遠足といえば、きまってこのような史跡だった。

 「この島の連中は阿呆だよ。世阿弥だの、日蓮だの、順徳院だのを、島が生み出した偉人のように錯覚して、さかんに吹聴しとるが、そういう流人たちの誰が、ほんとうにこの島を愛したというんだ。彼らはみんな、一日も早く、島を逃げ出そうと、そればかり願っていたんじゃないか」四郎治の毒舌がまた始まっていた。

 確かに「毒舌」ではあるが、なかなかに的を射た的確な「毒舌」ではある(笑)。ところで、ここに世阿弥が登場しているので、話のついでに彼についても触れておこう。後に触れる佐渡の郷土史家磯部欣三にも『世阿弥配流』(恒文社、2000年)と題した著作があるし、青野の『佐渡』にも、「佐渡の世阿弥」と題する章が設けられてかなり詳しく触れられてる。彼の生涯を辞典風に紹介してみると、おおよそ次のようになる。

 室町時代の能役者、能作者で観阿弥の長男。12歳のおり、父とともに将軍足利義満に見出されて殊遇を受けた。22歳で父は死ぬが,観阿弥の大成した能をさらに幽玄の能として完成させた。義満が没し、義持が田楽の増阿弥を寵愛してから不遇となり、義教が将軍となってからはことに弾圧を受け、嫡子十郎元雅没後、大夫を甥の音阿弥に譲らされて、佐渡に流された。その後島で没したのか帰洛したのかは不明。

 世阿弥は、義満の寵愛を受けながら不遇の身となり、長男も亡くして佐渡に配流され、8年余りの間島での暮らしを余儀なくされるのだが、その後の行方については不明というのである。配流されたのは、今の私と同じ72歳ということだから、当時であればかなりの老齢の身である。教科書にも登場するような歴史上の人物であるが、その芸術家の生涯は、政治の世界に翻弄されて波乱に富んでいる。そんな彼だからこそ、配流された佐渡で何を考えていたのかが気になる。

 先の「毒舌」では、「彼らはみんな、一日も早く、島を逃げ出そうと、そればかり願っていた」と述べられているが、こと世阿弥に関しては違っていたかもしれない。彼は佐渡で『金島書』(金島集ともいう)を書いているが、青野によれば、「『金島集』の世阿弥に第一に目立つのは、ほとんど無関心とも云う可き平静さで自然の景物や、歌枕や、見聞に向かってゐることだ」と言う。観世太夫の座を長男に譲って出家したにも拘わらずその長男が客死するに及んで、既に絶望の淵を覗ききっていたからなのかもしれない。

 「我雲水の住むに任せて、そのままに、衆生諸仏も相犯さす、山は自つから高く、海は自つから深し、かかりつくす、山雲海月の心、あらおもしろや」とまで書くところをみると、世俗的な執着からはすっかり離れ、超越し達観していたようにも見える。思うに、そうでもなければ、80歳まで島暮らしを続けることなど不可能だったのではあるまいか。いかにも本物の芸術家らしい老残の身の処し方であり、生きる構えであると言うべきだろう。