晩夏の両毛紀行(完)-日光と明治の面影-

 「晩夏の両毛紀行」と題して長々と書き連ねてきたブログも、今回が最終回となる。話がそれなりの着地点にたどり着けるように努力するつもりだが、果たしてどうなることやら。足尾を離れたわれわれは、時折降る霧雨の中を日光に向かった。この日の夕刻に訪ねたのは、中禅寺湖畔にある英国大使館別荘記念公園である。大分昔のことになるが、日光に遊びに来た際にこの記念公園にも立ち寄ったことがある。過ぎ去りし日の懐かしい思い出に浸りながら、窓から中禅寺湖の暮れゆく夕景を眺めた。そしてまた、翌日の午前中には日光金谷ホテル歴史館を見学した。ホテルの前身である金谷カテッジインが、現在は歴史館として保存されているからである。

 事前に事務局から送られてきた今回の調査旅行の趣意書には、「保養地の近代化遺産と西洋からの『眼差し』について学ぶ」とあった。「眼差し」とはなかなかに興味深い表現である。調べてみると、見ることを人間関係におけるきわめて重要な要素と見なしたうえで、他者を見ることによって主体と客体の関係が成立すると考える場合に、主体が客体に向ける目が「まなざし」と呼ばれるとのこと。たんに眼で見ることを超えて、対象の認識にまで至るような視線とでも言えばいいのか。

 ところで、よく知られていることとは思うが、日光の社寺は既に1999年に世界遺産に登録されている。登録されたのは、日光1200年の伝統を継ぐ二荒山神社、家光の霊廟が建つ輪王寺(りんのうじ)、そして日光東照宮と周辺の景観である。われわれは日光と言えばこちらの日光しか思い浮かべないような気もするが、英国大使館別荘記念公園や金谷ホテル歴史館には、もう一つの日光がある。近代化遺産として注目すべきはこちらの方であろう。

 英国大使館別荘記念公園で手にしたパンフレットには、次のような一文が記されていた。ここは、 中禅寺湖の豊かな自然や国際避暑地の歴史とのふれあいが楽しめる公園であり、「 明治中頃から昭和初期にかけて、中禅寺湖畔には各国の大使館をはじめ多くの外国人別荘が建てられ、国際避暑地としてにぎわいました。 園内の建物は、英国の外交官で明治維新に大きな影響を与えたアーネスト・サトウの個人別荘として明治29年に建てられ、その後、英国大使館別荘として長年使われてきた姿に復元したものです。 内部では、 国際避暑地としての歴史や当時の英国文化について紹介しています。 また、2階の広縁からは、サトウが愛した中禅寺湖畔の『絵に描いたような風景』を満喫できます。」

 いずれにしても、この英国大使館別荘記念公園はアーネスト・サトウ抜きには語れないのであり(サトウなどと書くと、佐藤を思い出して日本と何らかの関わりがある人物のように思いがちだが、まったく関係ない。だが、日本語の読み書きや会話は勿論、古文書の読解にも習熟していたという。並の日本人以上であるー笑)、パンフレットには彼と別荘の関係に関して次のような紹介もあった。「奥日光をこよなく愛したアーネスト・サトウ。 1872(明治5)年にこの地をはじめて訪れ、 3年後には英文のガイドブック「日光案内」を刊行し、 広く日光の姿を紹介しました。1896(明治29)年 には、自分の山荘を中禅寺湖畔の南岸に建て、 好きな登山や植物採取などを楽しんだようです。この山荘にはイザベラ・バードも滞在し、友人あての手紙に「山荘から眺める風景の素晴らしさ」を綴っています。のちに山荘は英国大使館別荘となり、平成20(2008)年まで利用されました。」

 内田宗治著の『外国人が見た日本』(中公新書、2018年)によると、「外国人、とくに英国人たちが奥日光を気に入ったのは、そこが英国の北部、スコットランドに似た風土だったからである。夏も涼しい山野は自然豊かで、明治初期まで魚が棲まなかった中禅寺湖近くの渓流には、放流されたマスが生息するようになっていた。イギリス紳士にとって、毛鉤を使ってマスなどを釣るフライ・フィッシングは、カントリージェントルマンのたしなみ」とされていたとのこと。またこの著作には、次のような記述もある。

 「欧米人はアジア各地を植民地化すると、そこに避暑地を作ってきた。冷房がなかった当時、彼らには熱帯や亜熱帯に位置する植民地の夏の蒸し暑さが耐えがたく、酷暑の時期、政治・経済活動の拠点を標高が高く夏も涼しい避暑地へと移した」。そうしたこともあって、「大正時代から昭和前期にかけて、日本にも夏の首都といえるような欧米人の避暑地が生み出された。その代表が日光の中禅寺湖畔である。湖畔にはイギリス、フランス、イタア、ベルギーなど各国大使館の別荘が建ち、『夏場は外務省が日光に移る』といわれた」ようだ。サトウにも生まれ故郷に対する郷愁の念もあったろうが、彼の奥日光に対する偏愛ぶりを知ると、コロニアリズム(植民地主義)の匂いを漂わせた避暑地のイメージが揺らいでくる。快適さを求めただけの外交官たちに「眼差し」と呼べるようなものはなかったろうが、日本中を歩き回ったサトウには、日本に対する深い「眼差し」を感じるのである。

 翌日は調査旅行の最終日であり、われわれは午前中に金谷ホテル歴史館を訪ねた。ここも歴史を感じさせる場所だった。手にしたパンフレットには、「1873年(明治6)、東照宮の雅楽師金谷善一郎が、 アメリカ人宣教医ヘボン博士の勧めでこの屋敷に開業したのが、 外国人専用の宿 『金谷カテッジイン』です。『サムライ・ハウス』と呼ばれた宿は、観光や避暑で日光を訪れる多くの外国人に利用されました。 イギリス人旅行家イザベラ・バードもそのひとりです。1893年(明治26)、 善一郎は本格的なホテル 『金谷ホテル』を創設。宿としての役目を終えた 『金谷侍屋敷』は長年大切に保存され、2014年(平成26) 国の登録有形文化財となり、 翌2015年(平成27)3月より 『金谷ホテル歴史館』」として一般公開しています」と記されていた。

 金谷ホテルの名は知ってはいたが泊まったことはない。伝統的な格式を保った立派なクラシックホテルのようだから、私のような狷介でがさつな人間が出掛けるようなところではないと勝手に思っているからである。「伝統」や「格式」といったものにいつまで経っても馴染むことが出来ない。こちらが田舎者なので気後れしている所為もあるのかもしれない。金谷ホテル歴史館はイザベラ・バードが宿泊した当時の姿を保っているとのこと。ガイドの方は、ここが彼女の泊まった部屋だと詳しく教えてくれた。もらったパンフレットにもイザベラ・バードの文章が引用されていたが、ここでは、時岡敬子訳の『イザベラ・バードの日本紀行』(講談社学術文庫、2008年)から紹介してみる。美しい訳文である。

 この家のことはどう書けばいいのかわかりません。まさに日本の牧歌的生活がここにはあります。家の内外ともに目を喜ばせないものはなにひとつなく、あの宿屋のどんちゃん騒ぎを経験したあとでは、勢いよく流れる渓流の水音と鳥のさえずりが快いここの静けさにはまことに心が洗われます。 この家は簡素ながらも不規則な形をした二階建ての離れで、石垣のある敷地に立っており、玄関前には石段がついています。庭は植栽がよく考えて配置してあり、いまは牡丹、あやめ、つつじが咲いていてとてもきれいです。 山は麓部分が赤いつつじに覆われてすぐうしろに迫り、そこから流れ落ちる山水がこの家の水源となっていますが、冷たくて澄んでいます。

 またもう一本の渓流が小さな滝となって落ちたあと、この家の下を 通って岩の小島のある池をめぐり、 下の川に合流しています。 入町の灰色の家並みが道路の反対側に大谷川とともに閉じ込められてあり、その向こうには小高い山々が途切れながらそびえ、山々を覆う豊かな森には峡谷や滝の亀裂が入っています。とてもやさしくて上品な雰囲気の金谷の妹が玄関でわたしを迎え、 ブーツを脱がせてくれました。二ヵ所ある縁側はよく磨き込まれており、それは玄関やわたしの部屋に通じる階段も同様で、はとても上質で白く、ブーツを脱いでストッキングだけとなった足でさえ、歩くのがためらわれるほどでした。磨き込まれた階段を上がると美しい景色の望めるぴかぴかに磨き込まれた広縁があり、そこから広い部屋に入ります。

 イザベラ・バードの感激ぶりが直裁に伝わってくる。歴史館に併設されている金谷カテッジインに立ち寄った際に、「日光金谷ホテルの百二十年」と副題の付いた『森と湖の館』(潮出版社、1998年)いう本を見つけた。金谷ホテルの歴史を辿った本なのだが、著者が作家の常盤新平だったので、もしかしたらブログを書く際に役に立つかもしれないと思って購入しておいた。作家の書いたものであれば少しは面白く読めるのではないか、そんな思い込みがあるからである。

 このブログを書くために斜め読みしていたら、次のような文章に出くわした。「先年亡くなった池波正太郎が、このホテルの何もかも以前のままに保存されていることに瞠目したとき、金谷は「鬼平犯科帳』や『剣客商売』でつとに有名なこの作家に言った。『温存させてゆくために、まったく神経を磨り減らしてしまいます』金谷ホテルに滞在した池波正太郎は古きよきものが温存されていることに賛辞を惜しまなかった。それは建物や器物のみではなく、ホテルで働く人たちやダイニング・ルームの味覚も含めて、世界的に知られた金谷ホテルの風格を持続させていたからだ。」

 昼食はこの金谷ホテルのレストランでとることになっていた。食事時間までに間があったので、折角の機会だからとホテルの中をあれこれと眺めて廻った。今では創業以来150年近くは経っているので、確かに古い。今古いと書いたが、これではただ時間が経過したというだけの表現であろう。懐かしさを表すのであれば旧いと書きたくなるし、由緒のある古さであれば故いと書いた方がいいのかもしれない。例の「温故知新」の故である。金谷ホテルの場合は、その由緒ある長い歴史を維持していることもあって、故いが相応しいのかもしれない。

 今回の調査旅行で、私は古きものの中に何を見たのであろうか。そこには「眼差し」と呼べるようなものがあったであろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、東武日光駅から帰途に着いた。終点間際に電車はスカイツリーの側を通ったが、その超近代の巨大なタワーは私には何やら内容空疎な虚像のようにも思われた。旧さや故さを拒絶しているように感じられたからなのであろう。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/01/13)

日光の面影(1)

 

日光の面影(2)

 

日光の面影(3)