晩夏の両毛紀行(七)-桐生から岩宿へ(下)-

 2019年には、岩宿博物館と相澤忠洋記念館の共催で、岩宿遺跡発掘70周年を記念した特別展が開催されている。この特別展開催に合わせて3冊の資料集が作成されたようで、物好きな私はそれをすべて購入した。振り返って思うに、博物館を見学して相澤忠洋という人物に、いたく興味が沸いたからである。じつは、春の実態調査で桐生を訪れた際に、ボランティアのガイドの方が、「ここが岩宿遺跡で有名な相澤さんが住んでおられたところです」と指を指して教えてくれたのだが、その時はさほど心が動かなかった。相澤のことをまったくといっていいほど知らなかったからである。今なら興味を持ってしげしげと眺めたはずである。

 ところで、先の3冊の資料集だが、①が『相澤忠洋-その生涯と研究-』であり、②が『岩宿遺跡と日本の近代考古学』であり、③が『岩宿遺跡と群馬の考古学』である(以下では①、②、③と呼ぶ)。考古学などには興味も関心もない私のような人間が読んでみても、ほとんど何も分かるまいとは思ったが、広げてみるとあれこれと気になるところが見つかった。

 例えば②。博物館の館長である小菅将夫(こすげ・まさお)は、冒頭の挨拶文で次のように書いている。「科学としての日本考古学が成立するのは、 近代、明治時代からといわれています。 近代考古学の始まりは、明治維新後間もない1877 (明治10)年、モースによる大森貝塚の発掘です。また、大森貝塚の調査は縄文時代研究の幕開けでもありました。 その直後に発掘された陸平(おかだいら)貝塚は、 日本人だけで調査・報告され、 科学的な手法が徐々に根付き始めました。1884 (明治17) 年に弥生町遺跡で発見された壺は、弥生式土器の名称の起源となりました。(中略)弥生式土器から弥生時代という時代名が生まれ、その後、この弥生時代から水稲耕作が始まることがわかりました。 日本人の生活や文化の根幹がここから形成されたことになりますが、その具体的な稲作集落が最初に明らかになったのは登呂遺跡です。 そして、 登呂遺跡の調査は、第2次世界大戦後の日本人を勇気づけたことも忘れてはなりません。1946 (昭和21) 年の相澤忠洋による発見と、1949(昭和24) 年に発掘調査が行われた岩宿遺跡は、それまでの歴史の常識を覆し、 日本列島に世界史でいう「旧石器時代」 が存在することを初めて証明しました。 そして、 岩宿遺跡は皇国史観から解き放たれた戦後の科学的な歴史研究の象徴となりました。

 なかなかに興味深い挨拶文である。館長は『「旧石器時代」の発見』(新泉社、2014年)という著作もあるような研究者なので、ただの挨拶文に終わってはいない。富岡製糸場にフランス人のブリュナがいたように、日本の考古学にはアメリカ人のモース(エドワード・S・モース)がいたのである。昔教科書で学んだはずなのに、すっかり忘れていた。彼はアメリカの動物学者で、標本採集に来日し、請われて東京帝国大学のお雇い教授を2年務めた。先の挨拶文にもあるように、大森貝塚を発掘して日本の人類学・考古学の基礎をつくったことでよく知られている。また、日本に初めてダーウィンの進化論を体系的に紹介したのだという。他に気になったのは、登呂遺跡の発掘が「日本人を勇気づけた」とか、岩宿遺跡が「皇国史観から解き放たれた戦後の科学的な歴史研究の象徴」だったと述べられていたことである。

 われわれが新たな遺跡の発見にやたらに興奮したり、考古学がブームにまでなったりするのは、日本人の起源が古ければ古いほど立派だと嬉しがるような性癖があるからであろうか。私のような人間は、「古代のロマン」などに特段の関心はないが、その言葉に引き付けられる人は案外多いのかもしれない。『古事記』や『日本書紀』の神話部分をも歴史的事実として恥じない皇国史観と、どこかで一脈通ずるものがあるようにさえ思われるのである。明治以降の近代化が、皇国史観の起源となる江戸末期の尊王攘夷思想や復古神道や明治期の国粋主義などを底流にともないつつ成し遂げられていったところに、わが国の近代化のねじれとでも言うべきものが胚胎していたのかもしれない。

 さらに③を眺めていたら、これも小菅館長の挨拶文だが、そこには「群馬県の近代考古学研究の歴史は、大森貝塚が発掘調査されたわずか数年後の1880 (明治13)年、アーネスト・サトウが前橋市前二子(まえふたご)古墳から発見された資料を調査したことに始まります。その後、岩澤正作による精力的な遺跡の調査や、群馬県全域で古墳の悉皆調査が行われました。戦後は、相澤忠洋による岩宿の発見とその後の発掘調査がありましたが、それ以外にもいくつもの考古学的な研究成果が知られています。考古学ブームの第一波が押し寄せていたといえましょう。」とあった。

 私などは、日光に出掛けてイギリス人の外交官アーネスト・サトウのことをようやく少しばかり詳しく知ったぐらいだから、外交官だった彼が日本の文化にも関心を抱き、古墳の調査にまで出向いていたとは思いもよらなかった。サトウは、地元の人が発見した横穴式石室と副葬品を調査して、その成果を纏めたのだという。出掛けてみていつも思うことだが、繋がりというものは、実にいろいろなところにあるものである。

 しかしながら、もっとも興味深かったのは①にある博物館の小菅館長と相澤忠洋記念館の相澤館長の二人の挨拶文である。まずは相澤館長の挨拶文である。そこにはこんなふうに書かれている。「此の度、 発掘 70周年を迎えるに当り、(中略)各位より、 岩宿出土の石器だけでなく、 相澤忠洋の人間性の判る様に顕彰する展示にする特別展を開催したいとの強い要請を受け、 私の永い間心に抱き続けて来た 「わだかまり」も変化し全面的に協力することに致しました」とある。ここに言う長年の「わだかまり」があったが故に、博物館とは別に記念館が作られたのではあるまいか。

 それを受けて小菅館長は次のように書く。「 不遇な中でも、信念に基づいて考古学に邁進していった様子は、多くの日本人に感動を与えてきました。 岩宿遺跡を発見して世に出した功績は、遺跡や資料とともに不朽の価値があるものと思います。また、著書の『「岩宿」の発見』は、相澤の半生を描いた名著として、全国読書感想文の課題図書として有名です。さらに考古学研究に対するひたむきな姿勢は、近年道徳の教科書にも取り上げられています。 展示では、 相澤の生涯を物語る具体的な資料を多数展示しましたので、相澤の辿った道筋とその研究に対するまっすぐな姿勢、そして人間相澤忠洋を感じ取っていただきたいと思います。」

 今回初めて『「岩宿」の発見』を読んだが、一家離散の後浅草で丁稚奉公をしながら尋常小学校の夜間を卒業し、戦後父のいる桐生に復員してからは、赤貧洗うが如き生活のなかで納豆売りの行商までして、相澤は考古学の研究に打ち込むのである。狷介な私のはずなのに、涙なしにはとても読み通せなかった。しかしそんなふうに思うのは、こちらが赤の他人だからであって、日々の生活も家族の団欒も顧みることなく、ただただ「ひたむき」で「まっすぐ」に研究に打ち込む相澤は、若くして亡くなった前妻や子供たちからすれば何とも疎ましい存在だったようだ。ちょうど、安吾の側にいた南川潤が、彼の我が儘ぶりに辟易したように…。

 それに加えて、在野の研究者の発見が、大学の研究者たちにどのように扱われたのかも興味深いところである。先にも触れたように、相澤が関東ローム層から石器を採集したことは、芹沢から杉原へと伝わって、本格的な発掘調査がおこなわれることになる。その成果が、旧石器時代の発見として大々的に報道されたのだが、杉原が執筆した岩宿遺跡の報告書には、相澤の名前は出てこない。ただ「相澤忠洋君にわれわれの発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた」という簡単な謝辞が記されていただけだったという。苦労を重ねてきた相澤にしてみれば、何とも釈然としない思いであったろう。

 上記のようなことを、上原善公の『発掘狂騒史-「岩宿」から「神の手」まで-』(新潮文庫、2017年)を読んで知った。岩宿遺跡の裏側には、発掘をめぐるあまりにも人間臭いドラマが展開されていたのであり、知らなくてもいいことまで知ってしまったような気分に陥った。記念館館長の長年の「わだかまり」とは、そんなところにもあったのかもしれない。先の『「岩宿」の発見』には次のような文章がある。

 赤土の崖と私がよんだそこは、たちまち「岩宿の崖」とよばれ、「岩宿遺跡」となり、「岩宿文化」となった。十月からは大々的な発掘調査が実施された。各新聞は日本に一万年以前、または十万年前にも人間がいたことが実証されたと報道した。私は、あるときは奇人にされ、あるときはインチキだ、売名的サギ行為だと非難の声があがるなかにまきこまれながら、そのことが学問的になればなるほど、大きくなってくることがたまらなくさびしかった。学問とは二次的な立場から出発した私に、執念がもえたとすれば、それは孤独な心と赤土の謎への追究が、ともし火となってもえたというほかにないだろう。しかしまた、岩宿の丘、赤土の崖は、静寂に戻っている。その大自然の静寂をよそに、そこから発見された文化、そしてその調査にたいしては、学界も世間も騒然となっていった。商品にしてみればパテントあらそいということであったろうか。

 今回の実態調査で岩宿博物館に立ち寄ったのは、もしかしたら「せっかく近くまで来たのだから」といったような、いささか俗っぽい理由だったかもしれない(笑)。私もそんな思いで見て回ったに過ぎないのだが、そのうちに私の関心はどんどんと広がっていった。思いも掛けぬ展開である。ところで話は余談となるが、相澤が世に知られるきっかけを作ったのは芹澤であり、そして彼の愛弟子の一人だったのが、「神の手」と呼ばれて遺跡発掘の捏造を繰り返した藤村新一である。芹澤は「神の手」の所業に深い疑いを抱くことはなかったようだ。この事件の顛末については、毎日新聞旧石器遺跡取材班による『発掘捏造』(毎日新聞社、2001年)が詳しい。下手なミステリー小説を読むよりよほど面白い。藤村は、発掘をめぐる狂騒曲に踊らされた犠牲者でもあったのだろうか。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/12/16)

岩宿雑景(1)

 

岩宿雑景(2)

 

岩宿雑景(3)