春を探しに(三)-ぶらぶら花見へ-

 3月ももうすぐ終わりである。あくせくしないでのんびり、ゆったりと日々の暮らしを営んでいきたいのだが、年を取ってくるとやはり時間の流れがどうしても速くなってくる。一日や一月や一年が経つのがあっという間である。のんびり、ゆったりをいつも心掛けるとともに、表情のない時間の流れを意識的に区切っていくことも、やはり大事なことなのだろう。

 3月の年金者組合のウオーキングでは、青葉区にある桜の名所と古刹である祥泉院を巡った。組合の新聞の案内には「ぶらぶらお花見」とあったが、そこに登場した「ぶらぶら」という表現が気に入った。私が参加しているこのウオーキングも、「てくてく」から「ぶらぶら」へ、また「ぶらぶら」から「よぼよぼ」へと年を経るに従って変わっていくのであろうが(笑)、ウオーキングにもっとも相応しいのは何と言っても「ぶらぶら」だろう。何故かと言えば、この言葉にはどこかに余裕というものが感じられるからである。辞書には、あてもなく気楽にゆっくり歩くさまとある。

 「ぶらぶら」と似たような表現で、「ぷらぷら」や「ふらふら」がある。同じく辞書を広げてみると、「ぷらぷら」は、なすこともなく怠惰に暮らしているさまを言うようだし、「ふらふら」はあてもなく動き回るさまをいうようである。語感の肯定的な評価の順に並べてみると、「ぶらぶら」、「ふらふら」、「ぷらぷら」ということになるだろうか(笑)。

 今のところ、自分としては「ぶらぶら」歩き、「ふらふら」動き回り、「ぷらぷら」暮らしているような気もしないではないが、年寄りの日常であれば、まあ誰しもそんなものなのかもしれない。そのことに特段の不都合もないし不満もない。生涯現役でいたい方がそうしていることに関して何も言うことはないが、それを他人に自慢げに語ったりするなど、もっての外である(笑)。年寄りの風上にも置けぬ所業と言うべきか。

 老化現象なので、筋力の低下によって歩き方が「よぼよぼ」してくるのは避けられない。歩き方だけではなく、身体の動きがどことなくぎこちなくなるのもその所為であろう。あちこちが「こきこき」してくるのである。弱まることと強ばることはことの両面である。肉体の弱まりと強ばりというものは、遅らせることは出来ても防ぎようはないが、せめて精神の弱まりと強ばりぐらいは何とかしたいものではないか。年寄りの矜持が必要なのはそこであろう(笑)。

 余計な話はそのぐらいにして本題に戻ろう。田園都市線の藤が丘駅に集まった我々一行は、そこから歩いてすぐ側にあるもえぎ野公園に向かった。この公園には大きな池がある。この池は元々は灌漑用の溜池であったということで、それを中心にしながら廻りに里山を残した素朴な作りの公園である。「紀元二千六百年記念溜池復旧工事」と刻まれた小さな碑も建っていた。

 紀元二千六百年(昭和15年、1940年)は、存在もしなかった神武天皇の即位の年を元年とした年号である。神話に過ぎない『日本書紀』にもとづいているのだが、今となっては何処にも通用しない過去の遺物である。だがこの年には、日本の全国各地で、奉祝と称した壮大な馬鹿騒ぎが繰り広げられたようだ。毎日新聞社の写真集である『昭和史 9』にもたくさんの写真が掲載されており、「15年11月10日、この日は千載一遇とばかり昼は旗、夜は提灯の波が日本列島にどよめいた」との一文もあった。

 公園の側には、参議院選挙に立候補が予定されている自民党の候補者のポスターが、掲示されていた。見るともなしに見ていたら、そこに「三原じゅん子」とあった。自らの美貌をさりげなくアピールしているかのような、いけ好かないポスターではあったが、急に思いだしたことがあった。確かこの人物は、国会で「八紘一宇」は日本が大事にしてきた精神だなどと妄言を吐いたのではなかったか。また別な場所では、今年は皇紀何年だなどとも語っていたのではなかったか。そんな戦前の亡霊のような人物が「自由」「民主」党の国会議員とは…。驚き呆れるばかりである。顔は美しいのかもしれないが、頭の中はきっとスカスカなのだろう(笑)。

 またまた話は脱線した。この池には以前はカワセミもいたようだが、外来種の魚が持ち込まれたために在来種が食べ尽くされてしまい、それを餌にしていたカワセミもいなくなったのだという。数年前には「かいぼり」が行われたようだから、そのうち戻ってくればいいのだが…。都会の公園には子供向けの遊び場や遊具があったりすることが多いが、そうしたものが何もないところがいい。

 ほぼ満開となった桜を眺めつつ池を一周した。あちこちに春の訪れが感じられた。私の方は、桜よりも目映いばかりのベビーグリーンに目を奪われた。そのあと、道路を挟んで向かい側にある「もえぎ野ふれあいの樹林」に向かった。こんな里山が住宅地の真ん中に残されているのである。いささか急な坂道を辿ると山頂に辿り着く。桜もいいが、雑木林の落ち着きも捨てがたい。晴れて見晴らしのいい日には、ここから箱根の山並み越しに富士も見えるのだという。この日は春霞で何も見えなかったが、そんなぼんやりした眺望も悪くはない。

 欅(けやき)並木の歩道を真っ直ぐに歩いて程なくすると、祥泉院に着く。本堂にたくさんの彫刻が施された曹洞宗の立派なお寺である。年金者組合のウオーキングではお寺を訪ねることも多いが(そのうち世話になるからということなのかー笑)、何時も気になるのは、何処のお寺にもあれこれと飾り物や置物、掲示物などがあることである。なくてもいいのにと何時も思う。もっと簡素で、鄙びて、静かで、枯れて、落ち着きのある寺にはできないものなのか。 

 祥泉院で興味深かったのは、ここに武蔵国都筑郡(こおり)出身の防人(さきもり)であった服部於田(はとりべの うえだ)とその妻呰女(あさめ)の歌碑があったことである。漢字ばかりの万葉仮名ではとても読めない。案内板には、次のように記されていた。夫の歌は、「我が行きの息衝(つ)くしかば足柄の峰延(は)ほ雲を見とと偲(しの)はね」であり、妻の歌は、「わが背なを筑紫へ遣(や)りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も」である。

 ここで言う「都筑郡」は、今の横浜市都筑区、旭区、緑区、青葉区などの一帯を指しており、地域としてはかなり広い。何故祥泉院にこの二首の歌碑があるのかよくは知らないが、この歌については、区が誕生して25周年となる年に作成された『図説 都筑の歴史』(2019年)にも登場している。そこに紹介されている現代語訳は次の通りである。

 夫のものは、「私の旅が嘆かれるときは、足柄の山 にはう雲を見ながら私を偲んで欲しい」であり、妻のものは 「私の夫を筑紫にやってしまって、恋しくて帯は解かずに心乱れて寝ることであろうか」というものである。先の図説には、「防人として筑紫に向かう夫と妻との間の深い情愛の念がうかがえる」と書かれていた。妻のものなどは、かなり直截な愛の表現なのではなかろうか。気になる歌である。

 昼食の弁当は、祥泉院の隣にあったみたけ台公園で広げた。何の変哲もない公園だったが、その隅に土塁のようなものがあった。同行の人によると、昔の古墳跡ではないかとのことだった。食事が済んだところで二手に分かれた。もっと歩きたかった私は、鶴見川の土手を通って市が尾駅に出るコースを選んだ。昼は春霞の陽気だったが、この日は夜には春の嵐になるとの予報だった。土手を歩く頃には、その兆しが感じられるような空模様となっていた。日頃の鬱屈を忘れさせてくれる、ぶらぶら花見の一日だった。