春の愁いを抱きながら歩く

 如月の2月はあっという間に過ぎて、もう弥生3月である。今回は、2月20日に出掛けた高田の寺社巡りについて書いてみたい。高田は「たかだ」ではなく「たかた」と読む。横浜市営地下鉄グリーンラインの駅名ともなっており、その駅は私の住むところから5つ目にある。だからかなり近い場所なのだが、ベッドタウンでもあるこの駅にこれまでに一度も降り立ったことがなかった。用事がないからである(笑)。

 この日は春爛漫のうららかな陽気に恵まれ、春風駘蕩という表現がぴったりの日和だった。この言葉が何故か昔から好きである。無い物ねだりということなのかも。スマホで当日の気温を調べてみたら、最高気温が18.7度とあった。4月並みの気温である。こんなことも直ぐに調べられるのだから、スマホもなかなか便利な道具ではある(笑)。

 出掛ける間際に、歩けばもしかしたら汗ばむかもしれないと思って、着たものを一枚脱いで出掛けた。1月にあった年金者組合のウオーキングでは、カイロまで用意したのだが、それが嘘のようである。季節は確実にしかも足早に巡っている。

 今回の参加者は20名を優に超えており、いつもよりも盛況だった。春の陽気に誘われたこともあっただろうし、家での自粛生活に飽きてきたこともあったのかもしれない。参加者で最高齢の方は90歳を超えていた。何ともお元気な方である。高田駅で合流した一行がまず最初に向かったのは、駅からさほど離れていない高田天満宮である。

 ここは、江戸時代には高田村の鎮守社だったということで、鳥居から拝殿までは100段近くもある階段を上る。高田は坂の多い土地柄のようである。今のところは特段の苦もなく上ったが、そのうちきっとこんな階段は嫌になってくるに違いない(笑)。階段の途中には満開の梅が咲いており、階段を登り切ったところからは、春霞の中に富士の姿が浮かんでいるのが見えた。いかにものどかな風景である。

 この天満宮にも戦没者の慰霊碑があった。その碑文には、「南の海に北の荒野に」「戦場の華と散った」だとか、「殉国の諸霊のご冥福」を祈るだとかの、美文調の文字が刻まれていたが、臍曲がりな私はそれが美文調であればあるほど、目を背けたくなる。戦争の悲惨、その被害と加害の実相は、こんな碑文にはもともと宿ってなどいないと思っているからである。

 高田天満宮を抜けて次に向かったのは、興禅寺であり続いて塩谷(えんこく)寺であった。この二つのお寺は、ともに落ち着いて静かな佇まいであり、好印象を抱いた。先の天満宮でもこれらのお寺でも、何時ものように案内人を買って出てくれた塩野さんが、それぞれの寺社の由来や観るべきものを教えてくれた。さらに、塩谷寺では拝殿までさせてもらって管主の話を聞いたのであるが、どれもこれも上の空で聞いていたためか、ほとんど何も覚えていない。

 興味の無いことには何時もそんな態度だろうとからかわれそうだが(笑)、今回はいつものそれとは明らかに違った。と言うのは、2月13日に中学以来長々と付き合ってきた友人のKが亡くなり、今回のウオーキングの前日には、古淵の相模原市営斎場であった葬儀に顔を出してきたばかりだったからである。彼のことについては、ブログでも何度か触れたことがある。

 いつかこうなることは分かっていたような気もするので、嘆いたり悲しんだりしたわけではない。気が滅入って落ち込んだりしていたわけでもない。ただ、彼の人生とはどんなものだったのか、そのことを繰り返し反芻していただけである。この4年ほど高齢者の介護施設で暮らしていたKは、かなりあっけらかんと自分の死を口にしていた。あえて私にそんな態度を示したかったのかもしれないのではあるが…。

 やるべきことはあらかたやったという思いもあっただろうし、また、再びものを書けるような身体に戻らないのであれば、施設のベッドに横たわってただ生き長らえていても仕方が無い、そんな思いもあったかもしれない。私も時折彼の入所している施設にご機嫌伺い方々顔を出したが、そのたびに死というものが少しずつ近付いているようにも感じられた。

 彼の娘さんから「父が危ない」との連絡を受け、慌てふためいて施設に駆けつけた。亡くなる前日のことである。目は見えてはいないようだったが、私の声にかすかに頷いていたところをみると、耳は何とか聞こえていたようだ。状況が状況だったので、面会は30分程しか叶わなかった。

 Kが亡くなった後、友人たちへの連絡を頼まれたので、5人ほどの知り合いに電話してみた。連絡を取った際にもあれこれのことを感じ、思い、考えたのであるが、それは余計なことなのでここでは触れない。彼とは小学校以来の知り合いであり、私にとっては中学校以来に知り合いであるYさんにも伝えておこうと思って、同級会名簿を頼りに電話してみたところ、このYさんも1月6日に既に亡くなっていた。Kの死の先にもう一つの死があったので、驚いて言葉を失った。

 電話をした友人たちは皆遠く離れたところに住んでおり、葬儀に顔を出すことが出来たのは私だけであった。やむを得ないようにも思われたし、また必然のようにも思われた。世間の常識からすれば、Kは我が儘を通して生きてきたし、他人に対する好悪の感情を何時も露わにしていたからである。そんな彼の葬儀らしい静かで簡素な集まりだった。

 Kの遺族にとっては、Yさんの死にそれほどの関心はなかろうし、Yさんの遺族にはKの死も縁遠い出来事に過ぎなかろう。それはそれでやむを得ないし、当然のことであるに違いない。だが、二人のことをよく知っている私からすると、Kの人生を偲ぶだけではなくYさんの人生をも偲ぶことになってしまった。死というものが急に身近に感じられ、しばらくぼんやりと物思いに耽った。

 静かに二人の人生を偲んでいると、逆に二人から、おまえは(あなたは)「どのように生きて、どのように死ぬのか」と問われているような気にもなってくる。悼む思いが強ければ、どうしてもそうなる。そんな死者からの問いに答えあぐねて、ぼんやりとしてしまったのである。

 そんなわけで、今回の寺社巡りは物思いに耽りながらの散策となった。春の日差しは眩しいほどで、お寺にあった桜の木も、すでに蕾を膨らませつつあった。春の訪れに全身を曝しながらも、それが何処か遠くの出来事のように感じられたのは、二人の死のためであっただろう。できることなら、春愁に身を委ねて更にずっと遠くまで一人歩き続けてみたかった。

 今回は三つの寺社がともにあまり離れていなかったこともあって、昼食前にウオーキングは終了した。何処で昼食をとるのか迷ったが、知り合いのYさんと一緒にセンター南駅前にある蕎麦屋に行くことにした。彼は『都筑小景』と題した冊子を纏めた方である。その彼も、他人には言いたくない悩み事を抱えているとのことで、いつも以上にもの静かであった。

 そんな彼を前にして、私もKやYさんの死には触れずじまいだった。ぽつりぽつりと会話が交わされただけの昼食も済み、駅前で彼と別れた。春の光は昼を過ぎて更に眩しさを増したようであった。友人で同僚だった多辺田政弘の句、「そう言えば春になくしたものばかり」がふと頭をよぎった。その彼も2017年の2月に世を去った。