ある集まりに顔を出して(続)

 前回、「神奈川県レッドパージ反対同盟」の総会に顔を出した話を書いたが、その続きである。当初は、1回の投稿にすべてを盛り込むつもりでいたのだが、あれこれと書き加えているうちに分量が膨らんでしまった。そんなわけで2回に分けたのである。年寄りは話しも長いが、文章も長いということか(笑)。

 今、文章も長いと書いたが、その長短は絶対的な分量の話ではない。趣旨のよく分からない文章は、例え絶対的な分量としてはそれほどではなかったとしても、ひどく長く感じる。例え長かったとしても、趣旨がよく理解できる文章であれば、そう長くは感じない。話と同じである。話の長い人は、文章も長くなっている可能性が大である。私も心しなければなるまい。

 さて前置きが長くなったが(笑)、本題に戻ろう。先のような集まりに顔を出す気になった背景には、3人の方々の存在がある。まず、地元の社会運動で知り合いとなった市川さんである。彼は、「神奈川県レッドパージ反対同盟」の幹事をされており、その彼から「総会後に記念講演がありますから、講演会だけでも来ませんか」と誘われた。

 この市川さんは、定年退職まで日本航空で働いておられた。その間労働組合運動に熱心に取り組まれ、会社側の組合差別とも果敢に闘ってこられた方である。山崎豊子の大作は読み切れなかったが、映画となった『沈まぬ太陽』(2009年)は観ていたので、あのような職場で闘い続けてきた市川さんに、私は心密かに敬意を払っていた。

 不利益を被ることも省みず、理不尽なことに立ち向かおうとするような立派な方は、世の中にそれほどはいない。立派などとは程遠い私だが、立派にはなれなくても立派な人に敬意を払うぐらいのことは出来る(笑)。「敬して遠ざける」という言い方があるが、私の場合は、敬すると近付きたくなるのである。

 そんな市川さんから誘われたので、心が動いたこともあった。しかも、やはり知り合いの高山さんという若い女性が、今回新たに幹事になるとのことだったので、応援したいといった殊勝な気持もあったかもしれない。総会の最後に役員の紹介があって、全員拍手で承認されたが、私を含め周りのほとんどがが高齢者の中で、若い高山さんは異色の存在に映った。そんな方が幹事となってくれたので、みんな嬉しそうだった。

 これが第一の理由だったが、他にも理由はある。「レッド・パージ反対全国連絡センター」の事務局長を務めておられる鈴木章治さんの紹介記事を、『しんぶん赤旗』(2020年9月1日)で見付けたからである。現在81歳の鈴木さんが、記録映画『レッド・パージ』」の製作に取り組んでおられることを紹介した記事だった。監督は、先の集まりで記念講演をされた鶴見昌彦さんである。

 新聞に載った穏やかな表情の顔写真に見覚えがあった。以前私は、鈴木さんが勤めておられた東京電力の賃金・昇格差別の実態を知りたいと思い、裁判資料をお借りするために一度お目にかかったことがある。その資料をもとに二つほど小論を書いたが、本格的な論文に仕上げることはとうとう出来なかった。

 ここで詳しく触れることはやめておくが、鈴木さんたちは、東京電力の反共的で専制的な人事・労務政策によって、徹底した賃金・昇格差別を受け続けてきた。その差別に抗するために19年にもわたる裁判闘争を闘い抜き、1995年には勝利の和解を勝ち取っている。何とも頭の下がる闘いである。

 新聞の記事によれば、この和解を「レッドパージ被害者が自分たちのことのように喜んでくれました。今度はその人たちの笑顔を見たい」と、この労闘士は穏やかな表情で言うのである。老後の道楽に耽っている私ではあるが、鈴木さんの人生に少しばかり胸を打つものがあった。

 先の集まりに顔を出せば、もしかしたら鈴木さんにお目にかかれるかもしれないとの思いもあった。彼は総会で来賓挨拶に立ったようだったが、講演目当てに出掛けた私は、鈴木さんの挨拶を聞きそびれた。休憩時間に声をおかけし、雑談を交わした。彼も私のことを覚えていてくれたので、少し嬉しかった。30年近くも前のあの頃のことが懐かしく思い出された。

 そして最後の人物、下山房雄さんである。下山さんとは労働科学研究所以来の知り合いであり、その後人生のところどころでお世話になった。研究者の先輩でもあったから、近くにいた彼から学んで私も研究者の道を歩んできたようなところがある。このところ、下山さんとはご無沙汰続きであった。昨年の正月明けにお目にかかる予定であったが、彼が怪我をされたということで、断念した。

 そこでこの日である。集まりに顔を出せば下山さんも出席しておられるのではないかという予感がした。そして、その予感は当たった。当日お会いしてあれこれと話を交わした。彼の話に寄れば、今年の誕生日に米寿を迎えるので、そこまでは何とか生きたいとのことだった。

 そしてまた、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟とレッドパージ反対同盟、それに国民救援会の集まりにだけは、今でも顔を出しているとのことだった。そのわけを直接聞いたわけではないが、おそらく下山さんの心中には、時代の流れに抗して闘ってきた人々、今でも闘い続けている人々、その闘いで倒れた人々に対する思いが、消えてはいないからであろう。彼は、こんなところで私と会うとは思ってもいなかったようで、何とも嬉しそうだった。

 しばらく前に、ある論文の中で敗戦後の労働運動を概括した時に、下山さんから「レッドパージのことが触れられていないね」と指摘されたことがある。短い文章なのでカットしてしまったのであるが、下山さんには、カットしてはならないものをカットしているとの不満があったのであろう。私も、そんな指摘を受けて内心忸怩たるものがあった。今でも忘れられない懐かしいそして苦い想い出である。

 紹介してきた3人の方々のうち、市川さんは私と同年代なので老闘士とは呼びにくいのであるが、鈴木さんにしても下山さんにしても、もうそう呼んでも差し支えないだろう。世の中には、老害を撒き散らしている人物も多く、恥ずかしげもなく醜態を曝しているのであるが、二人の老闘士の潔い人生には、そうしたものなど微塵も見あたらない。

 そこにあったのは、最後まで筋を通して生きようとする人間のみが放つことの出来る、残光のなかの煌めきではなかったか。帰りの電車の車窓からぼんやりと眺めたのは、暮れるのが早くなった晩秋の夕景である。お二人ともこれからもお元気に過ごしていただきたい、柄にもなくそんな殊勝なことを私は願った。