早春の北関東紀行(五)-草津の重監房資料館を訪ねて(上)-

 調査旅行も今日で三日目である。この日は、午前中に草津町にある重監房資料館を訪ねた後、長野原にある八ッ場(やんば)ダムに向かった。前者は、その名称からして過去を記憶せんとする資料館であることは明らかであるが、では八ッ場ダムの方はどうか。八ッ場ダムでは、ガイドの方の案内でエレベーターで降りて下からダムの威容を見上げ、美しい人造湖を眺め、さらには地元の方々からダムの完成までの経緯などを聞いた。小さな資料館もあったが、特に見るべきものはなかった。一見した限りでの私の印象に過ぎないが、ダムの建設に反対する運動が長期に渡って続いてきたことなどは、巨大なダムが完成したことによって、もはや遙か昔の過去の出来事として湖底に沈んでしまったかのようにも思われた。

 言ってみれば、この二つの場所は過去への向き合い方から見るときわめて対称的である。記憶しなければならない過去と、忘却したい過去とでも言えばいいのだろうか。二つの場所が抱えている事柄の性格からして、当然と言えば当然の話ではあるのだが…。先ずは前者から紹介してみる。重監房といったその名称からして、そこがただならぬ場所であることを見学者に想起させずにはおかないはずである。私なども少しばかり緊張した。資料館のホームページによると、重監房は次のように紹介されている。

 重監房とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園(くりうらくせんえん)の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。

 重監房は1938(昭和和13)年に建てられ、1947(昭和22)年まで使われていました。この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。

 上記のような紹介によって、この場所がどのような場所なのかをおおよそ窺い知ることができるだろう。監房という名称でも気になるのに、その上を行く重監房である。当時の診療所の威圧的な雰囲気がひしひしと伝わってくる。反抗的な患者を重罰に処するために設けられた重監房に関しては、その運用などに未だ不明な点が多く残されており、その全貌は未解明だとのことである。実態が隠蔽・秘匿されてきたからに違いなかろう。この資料館は、重監房の実態とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究を通じて、ハンセン病問題への理解を促すことを目的として、2014年に厚生労働省によって設立された国立の施設である。

 ハンセン病に関してさえろくな知識も持ちあわせていない私のような人間が、監房はもとより重監房のことなど知るよしもなかったが、この資料館でもらったパンフレットには、「ハンセン病の負の歴史を後世に語り継ぐ」のが重監房資料館であり、「ハンセン病をめぐる差別と偏見の解消を目指す普及啓発の拠点」だと書かれていた。過去を記憶することが、新しい未来を切り拓くための前提だということなのだろう。今回の調査旅行の訪問先に組み込まれていなければ、私などは絶対に顔を出すことはなかったはずだから、企画された方々に感謝するしかない。

 重監房の実態は、瀬木悦夫(せき・えつお)の実話小説『特別病室』に生々しく描き出されている(版画の挿絵を描いているのは戸早哲二郎であり、こちらもなかなか興味深い)。著者の瀬木はペンネームで、本名は関喜平といい中之条町の出身者である。資料館には瀬木悦夫復刻シリーズと銘打って『実話小説 特別病室』(2022年)と『われとわが身を』(同)が置いてあったので、入手して読んでみた。新聞記者であった瀬木は、1947年に栗生楽泉園に潜入して入所者から話を聞き、それをもとに先の『実話小説 特別病室』を纏めるのである。1950年には著作として出版された。

 「癩(らい)」は今日では歴史的用語となっており、「ハンセン病」の語が通常用いられているが、当時のままに表現すれば、「癩病患者と起居をともにした筆者のえがく療養所内のおどろくべき非行。息詰まる患者のうめき」、「言語に絶する虐使にうめく癩患者はどうなったか?」のキャプションが生々しい。特別病室すなわち重監房では、収監者は「暗いあなぐらに圧倒されて、発狂するか、縊死するか、餓死するか」といった状況に追いやられたのである。その意味では、重監房は、ハンセン病の深い闇を鋭く照らしだした負の近代化遺産であると言えるのではあるまいか。

 そこには勿論ながら患者たちの抵抗もあったが、しかしそれは生易しいものではなかった。「立上がる癩患者」の章には次のような叙述がある。「1947年8月15日、遂に患者たちは起ち上った。患者大会を開いた。軽症患者400名集合。職員の不正、患者生活の窮情が議論されて、それを裏づける具体的資料の蒐集に全員協力することを誓った。この口火を切るまでに事を運んだ陰には、非常な勇気が必要であった。負ければ投獄、餓死――を覚悟せねばならない。これまで何度、起ち上ろうと始動したか知れないが、勝算がみえない限り、徒らに手を出すことは出来なかった。ところが今度という今度は、勝算が判(はっき)りしてきたのだ。外部からの協力――断じて勝つまでは一歩も退かないと、堅い盟約を結んでくれたこの土地の共産党地区委員会の協力であった」。

 「神々は細部に宿る」といった箴言(しんげん)がある。この資料館は、患者を死に追いやるほどの重監房での処遇の劣悪さを通じて、ハンセン病に対する差別と偏見の広さと深さを、われわれにまざまざと突きつけているようにも思われた。収監された患者は、闇に閉ざされた絶望的な世界でいったい何を思っていたのであろうか。そんなことを考えながら、粛然とした気持ちで館内の資料を眺め重監房の模型に入り、そして少し離れたところにあった重監房の跡地を眺めてきた。静かな森の中にあった跡地には、もう礎石しか残ってはいなかったのだが…。

 現在、全国には14カ所のハンセン病診療所(国立13カ所、私立1カ所)があり、入所者の総数は929名だとのことである。重監房資料館の隣にあった栗生楽泉園には、48名の入所者の方々が暮らしている。資料館の館員の方は、入所者は皆普通に暮らしているのだから、物珍しそうに見ないでくれと語っていた。当然であろう。私としては、できることなら入所者の方々の話を直接聞いてみたかった。しかしながらよくよく考えて見ると、何の基礎知識もないままに、バスに乗って資料館を見学に訪れた私のような人間が、そんな考えを抱いていいはずはなかろう。入所者の深い悲しみをろくに知りもしないから、先のような不遜な思いが生まれるのかもしれない。

 私にできることは、わが国におけるハンセン病の歴史に関して、資料館で手にしたパンフレットなどをもとに、その概略だけでもきちんと紹介しておくことぐらいである。人間としての尊厳や人権を口にし、差別や偏見を批判するような人であれば、誰しもがそれぐらいのことを知っておかなければならない義務があるようにも思われたからである。

 1900年代には、 ハンセン病はコレラやペストと同じような恐ろしい伝染病と考えられていた。1907(明治40)年に「癩予防二関スル件」という名の法律が制定され、各地を放浪する「浮浪らい」と呼ばれた患者の収容が始まる。この法律は、1931 (昭和6)年に成立した 「癩予防法」へと引き継がれ、 国立の療養所が各地に建設されて、すべての患者の強制隔離が進められていく。1953 (昭和28)年には「らい予防法」へと法改正が行われたものの、そこには大きな問題が残されたままであった。投薬による治療が可能となったにも拘わらず、退所規定が設けられないままに強制隔離が続けられたからである。一度療養所に収容されて隔離されれば、患者は生涯そこから出ることができなかったのである。

 1996 (平成8)年に至ってようやく「らい予防法」は廃止されたのであるが、元患者たちの名誉の回復は依然として不十分なままであった。人権蹂躙の強制隔離を続けた国の責任を追及して元患者が提訴し、2001 (平成13)年には、国の強制隔離政策を憲法違反とする原告勝訴の判決が熊本地裁で言い渡されるのである。 国は上告を断念し、さらに2008(平成20)年には今後のハンセン病対策の指針となる「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が制定された。今では療養所の周辺住民とも広く交流が図られるようになってきているのだが、ここに至るまでの道のりのなんと長かったことか。その長さこそが、日本の近代を象徴しているようにも思われた。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/08/10

重監房資料館にて(1)

 

重監房資料館にて(2)