早春の北関東紀行(六)-草津の重監房資料館を訪ねて(下)-

 患者たちの想像を絶する長年の苦しみを、できれば少しでも受け止めたいとは思うのだが、それが可能なのかどうか今の私にはまるで自信がない。一生療養所から出られない、親や兄弟姉妹と一緒に暮らすことができない、実名を名乗ることができない、結婚しても子供を産むことが許されない、亡くなっても故郷の墓に埋葬してもらえない・・・。療養所に暮らす元患者たちは、病にともなって受けた心の傷を、長い歳月を経た今もなお 消すことができないまま、ひっそりと暮らしているのである。「日本『近代』の解体のために」といった興味深いサブタイトルが付いた田中等(たなか・ひとし)の『ハンセン病の社会史』(彩流社、2017年)には、以下のような元患者の話が紹介されている。

 当時、当のハンセン病裁判を闘ってきたあるハンセン病者は、「たしかに直接的なきっかけは『らい予防法』であるが、私が謝ってほしいのは、大臣とか県知事とかではなく···ハンセン病だとわかって、モノを売ってくれなかったあの店のオヤジであり、私の家に石を投げてガラスを割った近所の人間だ」と、切歯扼腕の心情を吐露していたのが、僕には衝撃的でもあり痛々しくも感じられた。ハンセン病者たちは、基本的には日本の国策によって差別され社会から疎外されてきたのだが、おそらく一人の例外もなく具体的で日常的な生活の場で、 コトバではとうてい表現できないほど屈辱的な〈生〉を生きぬいてきたにちがいない。つまり、そうした厳しい現実相=〈生〉とは疎遠な行政の長らが、国民ないしは市民のいわば代表として謝罪することによって、たしかにある種の政治的な儀礼は終えることはできたとしても、失われた不可逆の〈生〉が回復できるわけでもないことは自明だろう。

 言われてみればまさにその通りである。病によって、たとえその人の顔形、姿形が変わるようなことがあったとしても、そのことによって人間としての尊厳を奪われてはならないはずである。今なら誰もが当然のことだと思うだけではなく、言葉にも出したりするに違いない。しかしながら、そんな物言いなどは言ってみれば上っ面の綺麗事にすぎず、「近代」の「日本」の「庶民」の世界では、偏見にもとづく差別が堂々とまかり通ってきたのであり、今でもまかり通っているのであろう。

 だから、元患者たちは療養所から出て行くことができなし、出て行ってもまた戻って来ざるを得ないのである。「異形の人」を見る何とも酷薄な世間の眼差し、そうしたものに晒され続けながら生きていくことの苦痛は、恐らく体験者以外には分からないに違いない。人間の世界は、「真・善・美」(トルストイ的なもの)だけで成り立っているのではない、「偽・悪・醜」(スターリン的なもの)をも伴っている、そんなことまで改めて教えられた資料館であった。

 ハンセン病ですぐに思い出すのは、映画『砂の器』(監督・野村芳太郎、1974年)である。昔、映画好きの上の娘から言われたことがある。『砂の器』は良くできた映画だし面白い作品だけれど、ミステリー映画にとっては肝心要となる殺人の動機がよく分からない、と。ハンセン病を患った父親とともに「放浪らい」を続けた主人公の和賀英良こと秀夫は、今は戸籍を改竄し過去を切り捨てて栄光への道を駆け上がろうとしている。そこに昔世話になったあまりにも純朴な巡査が突如現れ、ハンセン病の療養所に収容されている息子思いの父親に是非会うようにと強く迫ってくるのである。

 和賀は何故父親に会いに行かない(行けない)のか。ハンセン病の父親がいることが分かれば、約束された令嬢との婚約は破棄され、彼女の父であるパトロンも失って、新進の作曲家としての名声をも失われかねないことになる。父の存在は、和賀にとっては絶対に知られてはならない秘密だったのである。言い換えれば、ハンセン病の患者は(そして家族も)それほどの差別と偏見に晒されていたということなのだろう。この映画は、ハンセン病を取り上げることによって、日本の近代が抱え込んできた暗部を照らし出しているかのようである。美しくも厳しい日本の四季を背景に、「放浪らい」を続ける親子の姿を涙なしに見ることはできない。

 先日家人から、ハンセン病の元患者を主人公にした『あん』(監督・河瀬直美、2015年)という映画を観るように勧められた。原作はドリアン助川の同名小説である。映画の出来不出来に関する評価は置くとして、この時代に改めてハンセン病問題を正面から取り上げた勇気には、敬意を表さなければならないだろう。療養所に入所している元患者の德江は、餡(あん)作りが得意であったためにどら焼き屋のアルバイトとして働くことになる。その結果、美味いどら焼きが評判となって行列ができるほどの店になるのだが、德江がハンセン病の診療所にいることが噂となって知れ渡ると、客足は一気に遠のいてしまう。世間というものはそのぐらい酷薄なのであろう。

 余談となるが、私の好きな作家に田宮虎彦がいる。彼は1988年4月9日に、自宅のマンションから飛び降りて自らの生涯を閉じた。76歳だった。彼の死を伝える新聞記事の切り抜きをたまたま読んでいたら、『朝日新聞』の夕刊に、次のような一文が掲載されていた。「田宮さんは晩年、丸4年をかけてハンセン病(らい)問題を取材した。 奥さんの妹の夫が同病の国立療養所・栗生楽泉園(群馬県草津町)の医師をしていて、その告別式で園を訪れたのがきっかけ。その後、全国13カ所の国立ハンセン病療養所を巡り、テープを回しながら入園者の生の声を聴いて歩いた。当時、「入園者の80%は病がいえているのに、なぜ社会復帰が進まないか、なぜ故郷に帰れないのか。 社会的な立場から問題をとらえ、本格的な長編を雑誌に連載して偏見を覆す力になりたい」と話していた。しかし、(昭和)54年ごろ、取材で世話になった約200人に『カ不足で作品化は断念した』と手紙で通知した」とのことである。

 当日の『毎日新聞』の夕刊には、「 昭和31年、妻の千代さんを亡くした悲しみを『愛のかたみ』として発表、 これがベストセラーとなったが、文芸評論家の平野謙から手厳しい批判を浴びてから沈黙、執筆も極端に少なくなっていた」などと、訳知り顔で書かれていた。権威に寄りかかって自ら調べようともしないこんなステレオタイプな文章を、私は何度読まされてきたことか。いったん著名人によって流布された俗説は、噂話となっていつまでも生き残るようだが、それは事実に反する。平野やその尻馬に乗った小田切秀雄らの批判以来、友人たちも彼から去ったようだから、すっかり文壇嫌い、人間嫌いとなっていたので、そう見えていたに過ぎない。

 なぜなら、書くことのみが彼の生きるすべてであったからである。『愛のかたみ』もまた彼が蘇生するためのものであった。妻の死後にブランクもあったが、その後さまざまな作品を発表した。私が見るところ重要なのは次の3冊か。『花』(新潮社、1964年)、『沖縄の手記から』(新潮社、1972年)そして『ブラジルの日本人』(朝日新聞社、1975年)である。いずれも綿密な現地調査を踏まえた長編の力作である。ハンセン病の世界に関する作品が完成していたら、上記の3作と並ぶものとなったことだろう。

 4年も取材を重ねながら、彼は何故に作品化を断念したのであろうか。そこが気になる。田宮自身は、ハンセン病に関する知識が不足していたために断念したと語っているが、果たしてそれだけなのか。その先は私の勝手な想像に過ぎないが、ハンセン病の患者に対する取材を続けていくうちに、彼や彼女らの嘆きや悲しみ、苦しみ、怒り、そして呻きのようなものが、世間によって生み出されたことを深く知ることになり、人間というもののおぞましさを痛感したからなのではあるまいか。

 田宮は、「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」といった平野や小田切(さらには吉本隆明なども)の公的な場での無責任な放言によって、深く傷付けられるのだが、そんな醜悪な人間が、高名な文芸評論家であったり思想家であったりもするのである。その「虚名」故に、その他大勢の追随者が生まれたのであろう。まことにおぞましい限りである。彼らは、ハンセン病の噂話をまき散らすような世間の人間と同類の輩だったのではあるまいか。そして、自らが同類であることに気付きもしなかったのではあるまいか。繊細な神経の持ち主であった田宮は、先のような無責任な放言に対して黙って耐えるのであるが(唯一と言ってもいい反論は、雑誌『新潮』の1980年5月号に掲載された「トルストイとスターリン」と題したエッセイのみである)、そうした人間であればこそ、ハンセン病に関する作品を纏めることに躊躇(ためら)いが生じたようにも思われる。

 ハンセン病に対する偏見と差別は、我々一人一人の心の中に根深く存在しているのであり、そのことを自覚する者のみが、偏見と差別から逃れうる可能性を持つことができるのかもしれない。今回このブログの文章を書くにあたって、久方ぶりに『砂の器』を見直してみた。世間から蔑(さげす)まれ忌み嫌われ追い払われながら、父とともに「放浪らい」を続けた秀夫は、世間を一切信用することのない孤独な魂を持った野心家としての和賀英良へと変身した。額から血を流した際に見せた秀夫の目が、和賀英良の登場を予感させている。

 そうした変身によって、彼は父と子を排斥し続けた世間というものに復讐し、心に深く刻みつけられた無念の思いを晴らそうとしていたようにも見える。だから、彼の野心はギラギラしたものと言うよりも、深い翳りを帯びたものであったに違いない。そんなことを考えると、殺人をも犯すような和賀を生み出したものは、世間すなわち我々自身だったのではないかと言えそうな気もするのだが…。田宮の無念と重ね合わせながら、ふとそんなことを思った。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/08/18

重監房資料館にて(1)

 

重監房資料館にて(2)