早春の北関東紀行(一)-高崎から安中・富岡へ-

 「新春の五島・島原紀行」をようやく終えたと思ったら、今度は「早春の北関東紀行」を書き始めなければならないことに相成った。2月末に実施された社会科学研究所の調査旅行に参加した話を、これから6回ほどに分けて書くつもりなのであるが、いつものようにゆったりとした気分で書き継いでいくような状況にはない。何故かと言えば、今回の調査旅行をメインテーマとして研究所の『月報』で特集が組まれることになっており、その締め切りが8月末に設定されているからである。原稿の締め切りなどは、かなり早くから知らされているのだから、それに合わせて準備しておけばいいようなものだが、あれこれあってなかなか取り掛かれないでいた。

 人文科学研究所の旅日記も書き終えたし、少しは気分転換の時間も持てたので、いよいよ今日から社会科学研究所の旅日記に取り掛かることにした。2022年度の春期の調査旅行は、今年の2月末というまだ春浅い季節に実施された。向かった先は群馬の各地である。今回で群馬に顔を出すのは3度目である。たとえ3泊4日程度の小旅行とはいえ、3回も続けて顔を出せばあらかたのところは見尽くしたようにも思われるので、おそらく今回が最後の群馬行となることだろう。テーマは「近代化遺産を通して学ぶ社会変化」となっており、それを北関東をフィールドにしながら明らかにするのが、今回の調査旅行の目的である。このテーマは、前々回も前回も変わってはいないが、見学先は徐々に徐々に広がってきている。

 調査旅行に参加させてもらっている私のような人間にとっては、一人では決して行かない(行けない)ところにつれていってもらえるのは、大変有り難いことではあるのだが、さてそこで旅日記のようなものを纏める段になると、先のようなテーマがぼやけてきて書くべき軸がいささか不鮮明になりがちなのである。少しは捻りをきかせた旅日記を綴りたいので、先に紹介したテーマである「近代化遺産を通して学ぶ社会変化」を意識しながら、以下の稿を進めてみたい。今回廻った場所はすべて群馬県内なので、タイトルは群馬紀行でも上州紀行でもいいかと思ったが、3回に渡って実施された調査旅行のまとめということもあるので、あえて「早春の北関東紀行」としてみた。

 調査旅行の初日となる2月26日の集合場所は高崎駅前だったので、最安値のコースである渋谷、大宮経由で高崎に向かうつもりでいたが、出掛ける間際になって高崎線が事故で運休していることがわかった。仕方がないので、渋谷から東京に出て最高値の新幹線で高崎に向かうつもりでいたが、念のため渋谷で事故情報を確かめたところ、ダイヤは乱れているが既に復旧したとのことだった。少し時間は掛かったが、どうせ急ぐ旅でもないのでのんびりと車窓の先に広がる関東平野を眺めた。高崎に着いて駅の構内で昼食を摂る店を探していたら、元同僚のAさんと会った。聞けばこの3月で定年退職だとのことで、少々驚いた。振り返ってみれば、この私も退職して既に5年である。

 高崎から最初に向かったのは、安中市にある新島襄の旧宅である。彼は同志社大学の創設者としてよく知られているが、私などはそれ以外のことは何も知らない。上毛カルタにも「平和の使徒(つかい)新島襄」とあるぐらいだから、県民にはよく知られた偉人なのであろう。朝日新聞前橋支局の編になる『上州の文学紀行』(1969年)によれば、「同志社大学設立の礎を築き、慶応義塾の福沢諭吉と並ぶ明治私学の二傑といわれる。ともに官尊民卑や権威主義の思想を排して、自主独立、自由平等の精神を人々のうちに植えつけようと私学教育に一生を投じた。 14歳のとき、藩主から選ばれて蘭学を学び、18歳で幕府の海軍伝習所に入所。漢訳で聖書を読みキリスト教にひかれる。1864年に函館から米船で脱国。米国で清教徒の富豪ハーディ氏にひきとられ、アーモスト大学とアンドヴァ神学校を卒業して帰国した」とある。滞米中に岩倉使節団の通訳も務めている。

 欧米の国情や文化を十分に知って1874年に帰国した新島は、「一国を維持するは決して二、三の英雄の力にあらず。 実に一国を組織する教育にあり、品行ある人民の力に拠らざるべからず。是等の人民は一国の良心ともいうべき人々なり。而して吾人は、即ち一国の良心ともいうべき人々を養成せんと欲す」(同志社大学の設立趣意)と述べ、日本にキリスト教主義に立つ本格的な大学を建てるという希望を抱いて、父祖の地安中をあとにするのである。たいへんな困難の末に、1875年に京都に「官許同志社英学校」を設立するのだが、同校を大学にするために不眠不休の活動を続けているなか、過労のために倒れるのである。享年48歳であった。

 我々が訪ねた旧宅は、彼の生家でもあり、アメリカから帰国して両親と再会した場所だということで保存されているようだが、生家での滞在期間は短かったので、そこに彼の特段の痕跡はない。旧宅でもらった資料を眺めていたら、彼の痕跡は生家ではなく安中教会にあるようにも思われた。今回我々はこの教会を訪ねることはなかったが、資料によれば、1878年に新島襄より地元の求道者30名 が洗礼を受け、安中教会が創立されたということである。この教会は、「 群馬県では最初のキリスト教会であり、同時に、日本人の手により創立された日本で最初のキリスト教会」なのだという。安中教会礼拝堂 (新島襄記念会堂)、及び温古亭、 義円亭、 牧師館 (旧宣教師館)は、その建築上の歴史的意義が認められて、2004年に「登録有形文化財」 に指定されている。

 地元の人々が洗礼を受けたのは1878年だということだから、新島は再度安中に戻って生家のあるこの地でキリスト教の布教活動に尽力したのである。同志社大学と安中教会から浮かび上がってくるのは、教育家でもあり宗教家でもあった彼の精力的な活動であり、明治期の典型的な理想主義者であった彼の姿である。新島の妻が会津出身の八重である。彼女については、『ふくしま人1』(福島民報社、2015年)が詳しい。新島は、アメリカの友人に八重をこう紹介したという。「彼女は見た目には決して美しくはありません。ただ生き方がハンサムなのです。私には、それで十分です」と。如何にも新島らしいコメントである。

 次に向かったのは、富岡製糸場の隣にある韮塚製糸場の跡地に建った資料館である。もともとこの製糸場は韮塚直次郎(にらづか・なおじろう)が建てたものであるが、この人物のことを知る人は少なかろう。私もまったく知らなかった。調べてみると、埼玉県深谷市出身の彼は、渋沢栄一、尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)と並んで市の三偉人の1人とされており、世界遺産に登録された富岡製糸場とも、そしてまた、富岡製糸場の初代場長となった尾高惇忠ともきわめて深い関わりのある人物なのである。彼の努力があってこそ富岡製糸場の礎は築かれた、そう言っても過言ではないようにも思われる。

 彼は、尾高惇忠宅で働いていた搾油工と住み込みの家事使用人との間に生まれ、7歳まで尾高家で過ごしている。のちに彦根藩士の娘を尾高家が見立て養女(万一の場合に備えて養女とすること)としたので、その彼女を妻とした。直次郎の本領が発揮されたのは、富岡製糸場の建設にあたって建設責任者となった尾高から、建築資材を調達するためのまとめ役を任され、その役割をしっかりと果たしたことであろう。そのために、単身で富岡に移住してその任務にあたったとのことである。操業が始まってからは賄方(食堂)を担当したという。また、妻の地元の彦根から工女を募集して、人材確保の面でも尽力したようだ。

 尾高惇忠が韮塚直次郎に富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任せたのは、日頃の彼の姿を直接見ていて、直次郎に対して深い信頼を寄せていたからであろう。富岡製糸場は洋式の建物となることが決まってはいたが、その当時、それがどんな建物となるのか想像することさえも困難であったに違いない。主要な建築材料となる煉瓦も、その製造方法すら分かっていなかったため、直次郎は地元の瓦職人たちを束ね、外国人技師から煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しから始めたのだという。そして、富岡に近い畑から煉瓦に適した粘土を見つけ、その周辺に窯を設けて試行錯誤の末に煉瓦を焼き上げることに成功するのである。近代化を急いだ当時の先人たちの苦労が、偲ばれるような話である。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/07/07

富岡にて(1)

 

富岡にて(2)