新春の五島・島原紀行(最終回)-原城跡に佇んで-

 長らく書き継いできた「新春の五島・島原紀行」も、今回が最終回となる。計11回、2ヶ月半にも及ぶ長期の連載となったのには、訳がある。読者の読みやすさを考えて、一回あたりの分量を少なくしたからである。しかしそれにしてもである。年明けに出掛けてきた話を、梅雨のさなかにまだ書いているのだから、あきれられても仕方がなかろう。今月末には、「新春の五島・島原紀行」を纏めて一本の原稿に仕上げたいと思っているので、この間書いたものを急ピッチでブログにアップしてきた。締め切りなどに煩わされることなく、もっとゆっくり、のんびりしながら、老後の道楽を愉しみたかったのだが、なまじ色気を出したのが運の尽きである。

 原城跡を目指した我々一行は、バスの駐車場からしばらく歩いて目的地に着いた。そこは広々とした台地のような場所で、周りには一面の畑が広がっていた。風は少しあったが、冬だというのに暖かで、城跡を囲む島原湾の海は陽光を浴びて眩しく光っていた。世界遺産となった場所だからなのか、跡地を歩けば城の遺構を示すさまざまな案内板を目にすることになる。しかしながら、私にとってはそうしたものはどうでもよかった。一揆勢が立てこもった場所がここであり、立ち返ったキリシタンたちの夢が潰えた場所がここであることを知るだけで十分だった。

 正月早々のこの時期だからなのか、観光客は誰もおらずとても静かで寂しい場所だった。城跡の外れには、天草四郎の像が建てられていた。南島原市出身の彫刻家で、わが国の彫刻界の大御所的存在であった北村西望(きたむら・せいぼう)の作だという。城跡を去る際に、何故だか名残惜しさを感じて一、二度後ろを振り返った。一揆勢が籠城していたのが原城だが、その原城は乱の鎮圧後に徹底的に破壊された。近年の発掘調査によれば、本丸の入口や門の付近には、石垣や人骨が混在して見つかっており、原城の破壊が乱後であることがわかっている。敗走したキリシタンの捜索のために、山狩りも行われたらしい。一揆勢に参加した村の数は13村であったが、そのうちの6村は全滅したという。土地の荒廃を懸念した幕府は、四国の小豆島や筑後から領民を強制的に移住させたとのことである。

 各藩の勝手な軍事行動を禁じた武家諸法度が、乱への対応を遅らせたこともあって、近隣諸国が一大事の時は幕府の許可がなくても支援できるように改められている。松倉勝家が乱の責任を問われて斬首となったことは先に触れたが、天草を支配していた唐津藩の寺沢堅高(てらさわ・かたたか)は領地の一部を没収されたこともあって、その後自害している。総攻撃の際に軍令に違反した鍋島勝茂(なべしま・かつしげ)は閉門に処された。こうした乱後の動きは、幕藩体制の急速な確立をもたらしていった。

 島原の乱勃発が徳川幕府を震撼させてこともあって、乱をきっかけにキリシタンの取り締まりが九州のみならず全国的に強化された。乱の以前は、各藩が独自の方法で宗門改(しゅうもんあらため)をおこなっていたが、乱後は、幕府によって寺請による宗門改として制度化されることになった。禁止されたキリスト教の宗旨ではないことを確認することを宗門改と言うが、その宗門改を寺が檀家であることを確認することによって確実なものにしようとしたのである。

 乱後には、対外的にも大きな変化が生じた。徳川幕府は、1639年にイエズス会との結びつきが強かったポルトガルとの交易を断絶し、出島に住まわせていたポルトガル人全員を国外に追放した。湾岸の警備体制が全国的に強められていくなかで、長崎港の警備も厳しくなり、こうして鎖国が完成していくのである。このように見てくると、島原の乱は結果として幕府の権威を高め、キリシタンの取り締まりを名目にして、九州の諸大名に対する統制を強めることに繋がったのである。

 昼食を挟んで午後には島原城に向かった。こちらの城は本丸に当たる部分が歴史資料館となっており、キリシタンの資料や藩政時代の資料が展示されていた。この資料館から少し離れたところに、先の北村西望の作品を展示した西望記念館があった。彼の作品としてよく知られているのは、長崎の平和公園に設置されている巨大な「長崎平和祈念像」であろう。何も知らなければ、彼のことを平和を希求した彫刻家のように思うかもしれない。しかし実像は違う。ネットで検索してみれば直ぐに分かる。彼は戦前「児玉源太郎大将騎馬像」や「山県有朋元帥騎馬像」などの勇壮な男性像を初め、戦意高揚を意図した作品を数多く手がけている。西望も拘わった7人の彫刻家による「報国芸術会」によって制作された護国の勇士の胸像7点が、1939年に靖国神社にある遊就館に献納されている。さらには、大政翼賛会の会合にも芸術界の代表者として参加しているというのである。

 戦後になると西望の彫刻モチーフは平和、自由、宗教に変化したようで、そういった作品を多く制作したとある。時節に合わせたのであろう。こうした人物の制作した「長崎平和祈念像」などをありがたがって見上げるつもりは、私にはない。原城跡の天草四郎像にも特段の感慨は湧かなかった。聖人にもなれなかった四郎の魂は、キリシタンたちとともに昇天したのであり、もしかしたらこうした像などはもともと不要だったのかもしれない。城跡に立って「兵(つわもの)どもが夢の跡」を静かに偲べば、それでよかったのであろう。

 旅の途中で、中山亜紀写真集『Blessing 光の天主堂』(合同会社花乱社、2019年)を手に入れた。長崎の教会を巡りながら撮影した美しい写真集である。そのなかに、次のような著者の言葉が挟み込まれていた。「人間だけに許された祈り」という行為をめぐる何とも穏やかな文章である。私にとってはとうに「神は死んだ」ので、今更「神頼み」はしないが、それでも、時折空を見上げ、雲を眺め、風を感じ、星を探して心の中で祈ることはある。こうした文章を読むと、強ばってしまって柔らかさを失いかけた心身が、いつの間にやら解れていく。今回の旅の終わりに相応しい一文なのかもしれないと思われたので、改行なしで紹介し、稿を閉じたい。

 シスターにうながされて、一度だけ聖体拝領の列に参加を許されたことがある。神父さまは、遠慮がちに並ぶわたしの頭に手をあてて、静かに言葉をかけた。あなたに、 神の祝福を。その手のあたたかさを、心の高揚を、満ち足りた気持ちを、今、うまく言葉にするのはとてもむずかしい。ただひとつだけ、 確実に感じたことは、宗教も人種も超えたところで、人間だけに許された祈りという行為がわたしたちにもたらすいつくしみと平穏。それは、どのような感覚ともちがう、 不思議な幸福だった。撮影をはじめて、9年が過ぎた。さなぎが蝶々に生まれ変わるように、みずみずしく明ける朝に、ちいさな日常をかかえた人びとがおとずれる天主堂。その窓辺にときどき降りてくる天使を、わたしはまだまだ、見つけられずにいる。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/06/30

島原にて(1)

 

島原にて(2)

 

島原にて(3)