早春の上州紀行(二)-高崎から富岡へ-

 また上州と言えば、上州名物の「かかあ天下と空っ風」もよく知られた科白である(「か」の付く言葉ということで、「雷」も上州名物とされているようだが…)。ここで言う空っ風とは、冬に赤城山から吹き下ろす風のことで、「赤城おろし」とも言われている。そう言えば、私の育った福島でも冬の風を吾妻山に因んで吾妻下ろしと言っていた。吾妻下ろしも冷たい風だったが、これだけ有名なところを見ると、上州の空っ風はその比ではないのだろう。

 ところで、気になるのは「かかあ天下」の方である。世間的には妻が所帯を支配し夫の家庭内での力が弱いことを指しており、亭主関白と対で使われている。私などは「かかあ天下」という言葉がどのようにして生まれてきたのかといったことなど何も考えずに、上州の女は気が強いのだろうぐらいにしか思っていなかった(笑)。だが、どうもそういったことではないらしい。先の「赤城おろし」の所為もあって上州の冬は寒く、厳しい自然環境と土地の貧しさ故に、古くから養蚕業や製糸業、織物業が盛んだった。そして、そこでの仕事は主に女が担うものとされてきた。近代に入ると、製糸工女や織り手として女の働く場がさらに広がっていった。そのために、懸命に働き稼いでくれる妻を見て、男どうしが自分の女房は天下一だと自慢し合ったというのである。

 それを聞いた他所の土地の人間が、「かかあ天下」と冷やかしたらしい。そんなことで、「かかあ天下と空っ風」といった科白が生まれたようだ。桐生で手にしたパンフレットには、働き者であった上州の女たちを、「時代をリードするパイオニア的存在」であったとまで持ち上げていた。ちょっと「褒め殺し」のような気もしないではなかったが…(笑)。養蚕や製糸や織物業で働いていた女性たちの現実は、果たしてどのようなものであったのだろうか。この後何処かで少し詳しく触れてみたいと思っている。

 それはともかく、先のような話からすると、「かかあ天下」は一見女を褒め讃えた男たちの何とも優しい言葉のようにも思えなくはない。だがそれはことの反面であろう。「かかあ天下」の裏には、女の稼ぎに寄りかかって遊び暮らす俗に言う「ヒモ」のような男たちの姿も、見え隠れしているのではあるまいか。妻の働きで養われている夫のことをよく「髪結いの亭主」と言ったりするが、そんな亭主にも例えられるような男たちが向かった先は、博打である。

 上州には、五街道の一つである中山道をはじめ三国街道(中山道の高崎から分かれ、北陸街道の寺泊に至る街道)や日光例幣使街道(東照宮に貢ぎ物を捧げるために勅使が通った街道)など多くの街道が走っており、主立った宿場町には飯盛り女もいたし賭場も開かれていたようである。男たちは、天下一のかかあが稼いだ金で博打を打っていたという。その残滓は今でもあるようで(笑)、群馬には競輪(前橋)、競艇(桐生)、オートレース(伊勢崎)(以前は高崎に競馬場もあった)場があり、パチンコ店も結構多いのだという。私は何も知らなかったが、世間ではギャンブル県として知られているらしい。

 旅行は好きだが趣味という程でもないので、群馬に限らず何処とも縁は薄いのだが、それでも群馬にはこれまでに四度ほど足を延ばしたことがある。そのうちの三度は温泉行である。私が育った福島もそうだが、群馬も温泉が多い県として知られており、私も昔伊香保温泉や四万温泉や水上温泉に出掛けた。伊香保温泉に泊まった時には、ついでに榛名山に登り榛名神社にも行ってみた。また、その昔嬬恋村にあった大学のセミナーハウスにもゼミ合宿で泊まったことがあり、帰路に浅間山の鬼押出しにも寄った。すべて懐かしい想い出である。

 私の場合は、群馬との繋がりはその程度に過ぎないが、家人と群馬との縁はかなり深い。母親は桐生の生まれで、家は風呂屋を営んでいたという。家人の話によれば、母親は風呂屋の看板娘だったようで、群馬大学の学生たちにも人気があったらしい(その群馬大学にあった同窓記念会館も今回眺めてきた)。桐生には親戚もいたために昔家人は何度か訪れており、堤町にある水道山公園も動物園も覚えていた。そしてまた、働き者だった家人の祖母は、子守奉公の後機織りもやっていたとのことであった。

 調査旅行に話を戻してみよう。初日は高崎駅に集合することになっていたので、私は東京駅から上越新幹線で高崎に向かった。旨い弁当を食べながら浮き浮きした気分で電車に乗っていたので、あっという間に目的地に着いた。当初は、自宅からクルマに乗り関越自動車道を通って高崎に向かうのも妙案ではないかなどと考えたりもしたが、クルマだと諸事情で慌てたり焦ったりする可能性もあるような気がして、諦めることにした。年寄りは慎重なくらいで丁度いいのだろう。

 群馬については先のような知識しかないので、私にとっても言わば「未踏地」のようなものである。あまり知らないところに出掛けることになると、旅の愉しみは増すことになるが、それは誰しも同じであろう。しかも、研究所の調査旅行では貸し切りバスで目的地を廻るので、落ち着きのあるゆったりした気分で見聞を広めることができる。私のような年寄りにはもってこいである。何時ものように、できるだけ身軽な旅装を心掛けてふらりと出掛けることにした。

 新幹線の座席にはいつも薄い冊子が置かれているので、乗れば必ず広げる。いつもの癖である。そうしたら、沢木耕太郎が「記憶のかけら」と題した巻頭エッセイを書いており、これが最終回だとあった。タイトルも内容も興味深い一文だったので、その結論部分だけをここで紹介してみることにしよう。沢木が言う「誰に対しても同じ態度で接する」という「生き方の基本」は、私にとっての基本でもある。偉い人をやたらに見上げたりする気もないし、只の人を平気で見下したりする気もない。

 私が人に会い、人から話を聞いたり、話をし たりするということを中心にした仕事を続けてきた中で、もしひとつだけ心がけてきたことがあったとしたら、それは誰に対しても同じ態度で接するということだったような気がする。人によって態度を変えない。たとえどれほど「偉 い」人であっても、あるいはそうでないように思われる人であっても、同じように接する。 もしかしたらそれは、単に仕事の上のことだけではなく、私の生き方の基本のようなものになっていたかもしれない。その生き方における大切な心構えは、驚いたことに、ほんの数分だけ会ったにすぎない、井深さん(ソニーの創業者の一人である井深大のこと-筆者注)の影響だったかもしれないのだ…。

 初日の昼過ぎに高崎駅前に集合したところ、今回の調査旅行で会うのを楽しみにしていたUさんが、コロナがらみでのやむを得ない事情のために、急遽参加をキャンセルしたということだった。何とも残念であった。すぐにメールで遣り取りしたが、彼もたいへん残念がっていた。われわれは、貸し切りバスに乗ってまずは世界遺産としてよく知られた富岡製糸場に向かった。そこは思った以上に広いところだった。この世界遺産を巡る話については、後で詳しく触れるつもりである。

 ガイドの学芸員の方の丁寧な説明を聞きながら富岡製糸場をたっぷりと見学した後、高崎に戻る途中に甘楽(かんら)町にあるこんにゃくパークに立ち寄った。ここでは、入場者はさまざまな工夫を凝らしたこんにゃく料理を無料で食べさせてもらうことができる。「幻想も抱かず、幻滅もせず」なども「生き方の基本」としている私は、それほど期待もせずに食べ始めたのだが、意外にもなかなか旨かった(笑)。腹いっぱい食べても太らなそうなので、ついついお代わりまでした。こんにゃくの食感がもたらした旨さなのであろう。