新横浜駅近辺の寺社巡りから

 今回は昨年12月に行われたウオーキングの話である。毎回参加している私なので、皆勤賞をもらってもいいぐらいだが、そんなに熱心なのは足腰の衰えを如実に感じるようになってきたからでもある。後期高齢者になったことも勿論大きいと思うが、それに2ヶ月にわたった放射線治療の影響も加わっているような気がする。団地の3階までの階段でも、荷物を持ったりするとちょっとうんざりすることがあるし、電車に乗ってもすぐに座りたくなっている。駅までの10分ほどの道のりでも、後ろから来た若い人たちにどんどん追い越される。とうとう散歩に出掛けた坊主にまで後れを取る始末である。足腰の衰えは顕著なのに、どういうわけか腹囲だけは成長し続けている(笑)。

 私の場合、毎日のように散歩しているわけでもなく、ジムに通って定期的に運動しているわけでもないので、出掛けられる時には必ずと言っていいほど外に出るようにしている。だから、年金者組合のウオーキングは皆勤なのである。勿論ながら、飲み会も誘いがあれば余程のことがないかぎり出席する(笑)。日時と待ち合わせ場所を間違えずに家を出ることにも、気を遣うようになった。ある時など、手帳に予定を記入し忘れたこともあったし、さらには日付を間違って記入していたこともあった。その意味では、外出すること自体が老化防止や惚け防止に役立つのである。

 ところで今回のウオーキングであるが、新横浜駅の近辺にある寺社を巡り、最後は岸根公園に出て解散というコースだった。当初私は、新横浜駅の近辺に寺社などあるのかといささかいぶかしく思ったが、それは私が新横浜の出来合いのイメージに囚われていたからである。読者の皆さんも私と同じようなものなのではあるまいか。新横浜駅は、東海道新幹線や横浜線や市営地下鉄の停車駅であり、さらに今年の3月には相鉄線の鶴ヶ峰と東横線の日吉にも接続するようなので、新しく開けた街だとばかり思いがちなのである。

 新横浜の地名が付く北口側には、ショッピングモールやホテルが立ち並び、横浜アリーナや横浜労災病院や日産スタジアムなどがある。だが我々が待ち合わせたのは、北口ではなく反対側の篠原口であった。私は初めて篠原口に出たのだが、こちらは何のきらびやかさもないごくごく普通の町だった。街ではなく町である。出口の側にはいささかうらぶれた飲み屋街である「あじわい横丁」などもあったし、道も狭いのでそれだけ庶民的なのである。出掛けてみなければ分からないもう一つの新横浜だった。

 廻ったのは、大豆戸町(まめどちょう)にある正覚院であり、篠原町にある観音寺と篠原八幡神社と東林寺である。たった2ヶ月前に出掛けたばかりなのに、私などは何処が何処だったのかぼんやりしてしまい、はっきりとは思い出せなくなっている。手掛かりとなるのは、案内人が毎度毎度作成してくれるチラシであり、インターネットの記事であり、現地で入手したパンフレットであり、そして私が撮った写真である。最初はいい写真を撮りたいと思ってカメラを持参していたし、いまでもそうなのではあるが、最近ではそれに加えてメモ代わりに写真を撮っている。これを見ると、ぼんやりした記憶がクリアになってくるのである。低下した記憶力を呼び覚ますための道具とでも言えようか。

 最初に訪ねたのは正覚院だが、どうも印象が薄い。私の場合、寺社そのものよりも周りの風景に関心が向きがちだからである。お寺の入口には寺号を記した古くて大きな標石があったが、そこには禅宗正覚院とだけあった。横浜七福神の大黒天が奉られているようで、寺号の標石の隣には「大黒天本殿」と彫られた碑もあった。本堂にも大黒天の扁額が掛かっていた。かなりの古刹のようだったが、そこからは新横浜駅の北側に聳え立つ近代的なビルが見えたので、両者の鮮やかな対照の方が何とも印象的だった。

 次に向かったのは観音寺である。山号は八幡山となっていることからもわかるように、隣接する当山の鎮守である八幡宮(現在の篠原八幡神社)と深い繋がりを持った寺としての歴史が長く、八幡宮の創建時期から推察すると寺歴は天正をさらに遡るらしい。明治初頭の廃仏毀釈(明治政府の神道国教化政策によって引き起こされた仏教排撃運動)で寺社を分かったのだが、 八幡宮にある大菩薩を今でも観音寺に奉安しているとのこと。この寺で印象深かったのは、文字通り燃えるような紅葉でありタールで補強された古木である。

 社務所でトイレを使わせてもらったのだが、ついでにそこに置いてあったパンフレットを二つ手にした。一つはお墓の案内であった。私もそろそろ自分自身の後始末を真面目に考えなければならない年となっので、墓の話も他人事ではない。樹木葬なども悪くはないなどと思ってはいるのだが…。もう一つは宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会の案内だった。こうしたものをお寺で受け取ったのは初めてである。そこには次のようなことが記されていた。

 チベット人たちにとって仏教への信仰は生きる希望です。しかし、1949年、中国共産党の人民解放軍がチベットに侵攻して以来、現在にいたるまで、仏教信仰によるチベット人の伝統的な暮らしは厳しく制限されています。そのような信仰の自由を制限された暮らしに耐え続けているのは、チベット人たちのゆるぎない信仰心とともに、その信仰を守り支える僧侶たちの存在があります。破壊され監視される寺院において、信仰と菩提心を失うことなく修学する僧侶たちは、未曽有の危機にあるチベット人たちの心の支えであり希望の灯りとなっています。私たちは、こうした僧侶たちへの支援を通じ、チベットの人々を支援し、平和の実現を目指しています

 観音寺の次に、すぐ側にあった篠原八幡宮に向かった。神社を好まないこの私だが、広い境内と多くの木々に囲まれたこの神社に、それほど悪い印象は抱かなかった。大学時代の友人であるKは、定年後に神社の研究にいそしんでいる。その彼に教えてもらったのだが、「高橋の嫌っているような神社ばかりではないよ」とのこと。私は戦前への回帰を狙う日本会議が嫌なのであり、その中核組織である神社本庁が嫌なのである。それ以上のものではない。

 この篠原八幡宮では、1991(平成3)年に創建八百年記念祭が行われており、境内にはそれを記念した碑がある。御神木は境内右側の奥にある樫の大木2本で、向かって左が雄で右が雌の樫の木だという。また社頭の左手には欅の古い大木がある。ここで興味深いのは、篠原八幡宮が進藤彦興(しんどう・ひこおき)さんが纏められた『詩(うた)でたどる日本神社百選』(民芸追求、2011年)に登場していることである。案内人が配布してくれたチラシで知った。

 先に触れたKの話もあったので、早速ネットで探して購入してみた。もしかしたら神社の由来などが詳しく紹介されているだけの著作かもしれないと思っていたが、まったく違った。たいへん丁寧に取材されており、写真も多いし読み物としても面白く読め、とても勉強になる。著者は企業の経営者だった人だが、そんな人がこうした著作を纏めたとは驚きである。タイトルに詩でたどるといった表現があることからも分かるように、すべての神社に彼の詩が添えられている。篠原八幡宮に添えられたのは次のような詩である。

さきがねの篠原の岡の頂き                                                           篠原八幡神社は正面鳥居                                                           冬至の日の早朝                                                            ギラギラリと抜き出された                                                             日本刀のように                                                              朝日が昇り                                                                 光はまっすぐ参道を走って                                                         拝殿奥の鏡を照らす                                                             鏡からも朝日が照り返し                                                                人々はその時そこに                                                            選ばれて居合わせている幸せを                                                       つかのま あじわう

 最後は東林寺に顔を出したのだが、四つ目ともなるともはや記憶はすっかりおぼろである。仕方がないからネットで探して、寺の写真を眺めてみた。狭い参道だったから大きな寺とは思わなかったが、結構広い寺だった。私もかなり歩いて草臥れていたので、もはや周りを歩き廻るだけの体力も残っていなかったのであろう。ネットには、以下のような興味深い紹介文があったので、それをここで使わせてもらうことにした。立派な和尚もいるものである。

 東林寺では毎年旧暦の彼岸に檀家である朝鮮半島に国籍を有する方々の祖先の慰霊祭を執り行っている。東林寺とこうした檀家関係が結ばれるようになったのは、関東大震災以降である。当時、「朝鮮人暴動」の流言によって険悪化しつつあった事態のもとで、本寺二十四世仏舟達禅和尚は社会的な要請に応えて、檀家として受け入れ、今日に至っている。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/02/10

新横浜の紅葉三態(1)

 

新横浜の紅葉三態(2)

 

新横浜の紅葉三態(3)