新春の中山・寺社巡りから

 年が明けた1月7日に、地元の年金者組合が企画した「新春年金者組合ウォーク」の催しがあり、こうしたものに今回初めて参加してみた。この年金者組合とは、「高齢者のいのちとくらしを守り、ひとりぼっちの高齢者をなくすために」、1989年に結成された組織である。現在では全国47都道府県に地方本部を持ち、2017年末時点での組合員数は12万人弱という大きな組織に成長している。高齢者の組合の広がりは、高齢社会日本を反映した現象なのであろう。

 また、この年金者組合は結成当初から「最低保障年金制度」を要求として掲げており、加えて、医療や介護など高齢者のくらしといのちを守る運動にも力を注いできている。それと同時に、孤立した高齢者をなくし、みんなで生きがいや楽しみ、趣味などで生き生きと暮らせるように、それぞれの地域の支部が活動しているとのことである。

 私は知り合いに誘われて、1年前にこの年金者組合に加入した。やっていることと言えば、毎月組合費300円と新聞代100円の計400円を払い、同じく毎月配布される新聞をパラパラと読む程度である。その新聞には、地元の年金者組合のニュースも折り込まれており、それを見ると時々の楽しみの企画を知ることができる。私が興味を持ったのは、言うまでも無くこちらの企画の方である(笑)。今回の「新春年金者組合ウォーク」もその一つである。

 私を組合に誘ってくれた知り合いによると、地元の年金者組合は毎月近隣を歩くハイキングを企画しており、年に一度は泊まりがけのハイキングにも出掛けているとのことだった。私はどちらかと言えばインドア派で、書斎で本を読んだりパソコンに向かって雑文を綴っているのが好きなタイプの人間である。そんな訳なので、熱心にヨガ教室に通っている家人からは、スポーツジムにでも入会して身体を動かしてはどうかなどと、よく勧められている(笑)。

 その方が身体にいいことは頭では分かっているのだが、どうもなかなか気が進まない。身体を動かすことが嫌いな訳ではないのだが、身体だけを動かすことに面白さが感じられないのである。二人の小僧を連れてプールに出掛けたり、海に行ったり、公園で遊んだりすることは嫌いではない。だとすると、年金者組合が主催するウォーキングやハイキングであれば、出掛けてもいいかと思うようになってきた。運動不足を補うことが出来そうだし、カメラを持って行けば気に入った風景写真も撮れそうだし、それに何よりもあれこれのところに出向けば、このブログに投稿する材料も見付かるかもしれない(笑)。そこで今回の参加となったのである。

 新春の企画は、横浜線の中山駅近辺の寺社巡りであった。現在の住居に転居してくる前、私は中山の三保町にある宮根団地に住んでいた。1978年から86年までのことである。そこで3人の子供も生まれた。だから今でも懐かしい場所なのである。そのことも出掛ける気にさせた一因だったかもしれない。あいにくの曇り空の天気で肌寒くもあったが、当日中山駅の北口には20名程の参加者が集まった。

 巡ったのは、駅の近辺にある四つのお寺と一つの神社の計5箇所である。先に記したように、中山には9年近く住んでいたのだが、その間今回巡った寺社のどこにも出掛けたことはなかった。あの頃は仕事と子育てに追われており、日々悪戦苦闘していたからであろう。中山は古い町で、今でも路地裏にはその面影が残っている。駅の脇には飲み屋街があり、古びた喫茶店などもある。そんな町だから寺社が多いに違いない。

 案内してくれたのは地元の組合員で、今回巡るところは子供の頃によく遊んだ場所だとのことだった。まず最初は大蔵寺(曹洞宗)である。参道もある古びたお寺だった。眺めていたら、中山小学校の創立の地であることを示す碑が建っていた。事前に配布された資料によると、1892(明治25)年にこの寺を借りて都筑郡新治村立新治高等小学校が創立されたのだという。立派な銀杏の大木もあったので、写真に収めた。画家の横山操が描いた「塔」を彷彿とさせるような銀杏だった。

 次は長泉寺(高野山真言宗)である。こちらは比較的新しい立派な寺であった。目に付いたのは、日清、日露戦争やアジア・太平洋戦争での戦没者を祀る志魂碑(A級戦犯であった陸軍大臣荒木貞夫書とあった)や慰霊碑であり、実物大の砲弾の模型と1914(大正3)年製の大砲である。大通りのすぐ側のお寺にこうしたものがあったとは驚きである。些か興ざめであったのは、高野山開創1200年を記念するというマスコットの看板が本堂脇に置かれていたことである。この辺りはセンスの問題であろう(笑)。ここでも気に入った裸木の写真を撮ることが出来たのだが、それ何の木だったのか忘れている(笑)。梅だったような気もする。

 その後慈眼(じげん)寺(高野山真言宗)に向かったが、この辺りからお寺の印象が徐々に薄くなってきた(笑)。四季の森公園に向かう道から少しばかり脇にそれたところに、慈眼寺はあった。四季の森公園には何度か来たことがあり、当時のことを想い出して懐かしかった。また慈眼寺に向かう道の途中には中山学童保育所があった。長女が子供の頃に世話になったところである。慈眼寺には立派な十一面観音像があった。頭部に11の顔を持つ菩薩像である。ここで面白かったのは、高台にあるお寺の周りをぐるりと廻って散策したことである。そこからは緑区の様子が一望できた。

 その後緑区役所の地下にある休憩室で昼食をとり、午後からは八幡神社と弘聖寺を巡った。八幡神社で目に付いたのは「平和の塔」である。アジア・太平洋戦争で出兵した在郷軍人の提案を町内会で取り上げ、二度と悲惨な戦争が起こることのないように、平和への祈りを込めて1964年に建立されたのだという。「平和の塔」という名称は、公募によって付けられたらしい。同行した私よりも年上の方は、当時こうした場所で武運長久を祈願した壮行会が催され、多くの兵士がそこから戦場に赴いたのだろうと語っていた。最後の弘聖寺(曹洞宗)は八幡神社のすぐ隣にあった。ここもなかなか立派なお寺であり、梵鐘が本堂の廊下に吊り下げられていた。また、側の墓地には黄色の大きな実がなった木があった。私はそれが何の木なのか知らなかったが、誰かがカリンだと言っていたような気がする。
 
 弘聖寺を後にして帰路に就いた頃から、細かな雨が落ち始めた。些か狷介な私は、今回巡ったどこの寺社でも手も合わせず賽銭も入れなかった。無神論者なのでそうなったこともあるが、昔長男が死んでからそうした振る舞いが強まったような気もする。きっと意固地になっているのであろう。去年の大晦日に、田舎の姉が家で転倒して大腿部を骨折した。大怪我である。亡くなった母も同じところを骨折している。快癒を願って、手ぐらい合わせても良かったのかもしれない。