新春の五島・島原紀行(二)-長崎の世界遺産考-

 翌日の5日から本格的な調査が始まった。この日は、朝8時にホテルを出て夕方の6時に戻るまで、教会を中心にして実にさまざまなところを見学した。そして次の日の6日は、福江から朝8時発のフェリーに乗船して中通島の南側にある奈良尾港に渡り、ここでも島内にある多くの教会を見学した。その後夕刻に、今度は中通島の北側にある有川港から高速船に乗船して、長崎港に6時に着いた。もう既に夕闇が迫っていた。両日ともになかなかのハードスケジュールであったが、無事長崎に戻った。

 4日、5日と教会巡りが中心の旅程であったので、私には何やら巡礼の旅のようにも思われた。私はキリスト教の信者ではないので、敬虔な祈りを捧げたりはしなかったが、それでも、今ここにあることに感謝しつつ、来し方行く末に思いを巡らしながら見学した。普段とは違って居住まいを正していたことは言うまでもない。今回の調査旅行が、こうした教会巡りを軸に組み立てられたのは、2018年に潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されたことと関連していたに違いない。

 長崎には、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」と「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の2つの世界遺産がある。現生と来世に深い関わりを持った、何とも対照的な両遺産である。2015年に登録された前者の遺産は、19世紀半ばから 20 世紀初頭にかけて、日本でも産業革命の波が受容されて、急速に近代産業の育成が図られたことを示す遺産である。いわゆる「富国強兵」のための「殖産興業」政策の展開に関わっている。

 この世界遺産は、8県 11 市に所在する 23 の構成資産(世界遺産を構成している各資産のこと)からなり、そのうち長崎には造船と石炭産業の発展を示す8つの資産がある。端島(軍艦島)などはよく知られているのではあるまいか。世界遺産に登録される際に、朝鮮人労働者の戦時下での徴用=強制労働に対する対応が、日朝間で大きな問題となった。世界遺産というものは、それを構成する資産全体の歴史的価値を紹介するものであるから、触れて当然であり触れなければならない事実であっただろう。

 そこで、もう一つの世界遺産である。2018年に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、17 世紀から 19世紀の2世紀以上にわたるキリスト教禁教政策下で、ひそかに信仰を伝えた潜伏キリシタンによる独特の宗教的伝統を物語る文化遺産である。こちらは、長崎と熊本の天草市にある 12 の資産で構成されており、島原・天草一揆の主戦場となった原城跡(南島原市)や潜伏キリシタン信仰の多様な展開と信仰組織の維持を示す各集落、潜伏キリシタンの終焉を象徴する大浦天主堂(長崎市)などがある。原城跡と大浦天主堂を除くかつての潜伏キリシタン集落の多くは、今でも人々の素朴な営みが続いている農漁村の集落である。

 この12の資産がどんなものなのかと調べていたら、共同通信社の記者であり新上五島町出身の江濱丈裕(えはま・たけひろ)さんが書かれた『長崎・五島 世界遺産、祈りが刻まれた島』(書肆侃々房、2020年)に行き当たった。ここに、先の12の資産がキリシタンの弾圧、潜伏、移住、禁教廃止の流れのなかに、たいへんわかりやすく整理されていたので、それを参照しつつ紹介しておこう。詳しくは、長崎県世界遺産課の公式サイトをご覧いただきたい。

 まずは《弾圧期》であるが、この期の資産としては島原の 「原城跡」がある。信徒たちが受けた弾圧の歴史を物語る象徴的な場所だと言えよう。ここは、1637年から翌年にかけて肥前島原と肥後天草のキリシタン信徒が立て籠もり、幕府軍と戦った舞台である。38,000名の蜂起軍が全滅した原城跡からは、多くの信仰道具や人骨が出土しているのだという。われわれは調査旅行の最終日に原城跡を巡ったので、後にあらためて詳しく触れることにしたい。

  次いで、キリスト教の禁教政策のもとで信仰が独自の発展を遂げた《潜伏期》となるのだが、ここには5つの資産が含まれている。仏教や神道を信仰しているように装った外海の「大野集落 」や「出津(でず)集落 」。自然崇拝とキリストの教えを融合させ、今も当時のままの信仰を護る人々が住む「春日集落」。貝殻を信仰具とした天草の「崎津(さきつ)集落 」(熊本県)。そして、禁教時代に信徒が処刑されたこともあって、殉教の地として聖水の採取場とされた「中江ノ島」である。

 その後、信仰継承と《拡大期》に入るが、この期には4つの資産が含まれている。18世紀末には、外海(そとめ)からの移住者により五島列島にも隠れキリシタンの信仰が広がっていく。聖母マリアに見立てて観音像を拝んだ「黒島の集落」。 神社の氏子となることで信仰を装った「野崎島の集落跡」。ほぼ無人の島に移り住んだ 「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」。 そして未開の地に移住し自らのかたちで信仰を続けた「久賀島の集落」である。

 その後、潜伏の終わりと《変容期》を迎えることになる。ここには2つの資産が含まれている。潜伏キリシタンが移住して開墾し、禁教が明けてから全員が信徒に復帰した「奈留島の江上集落 」と、約250年の禁教時代を経て「信徒発見」のあった「大浦天主堂」である。 大浦天主堂で信徒が発見されたことは、潜伏キリシタンの間に分岐を生み出すきっかけとなった。1873年には禁教の高札が撤廃されるのだが、その後の潜伏キリシタンは、再びカトリックに復帰して信徒となった人、潜伏期の信仰をそのまま続けた人、そして仏教や神道の信徒となって棄教した人へと分岐していったのだという。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/05/10

福江の教会を訪ねて(1)

 

福江の教会を訪ねて(2)

 

 

福江の教会を訪ねて(3)