新春の五島・島原紀行(九)-二つの城のこと-

 調査旅行の3日目の夕刻に長崎に戻ったわれわれは、夜に市内を走る路面電車に乗って目的の食事処に向かった。私などは、外で食べるとなると、余程のことがない限り何処で何を食しても旨いと思う方なので、そんな人間の感想などあてになどなるはずもないが、出されたものすべてが旨い店だった。珍しい郷土料理があれこれと並んだので、尚更だった。最後に鯛飯を食べてすっかり満足した。調査旅行もあと一日を残すのみとなったし、頭ヶ島の教会に向かう途中の石段で転倒はしたものの、それ以外は特に心配するような事態も起きなかったので、安心した所為なのか気が緩んだ。それまで控え目にしていたアルコールも大分飲んだので、久しぶりに酔いが回り、ほろ酔い気分でホテルに戻った。

 私は今まで長崎には降り立ったこともなかったので、この町に路面電車が走っていることも知らなかった。長崎は異国情緒に溢れた旧い街のようだから、こうしたレトロスペクティブな乗り物が似合っているに違いなかろう。遠くまで出掛けて来て、昔懐かしい路面電車に乗ったこともあって、いささか感傷的な気分になった。私は、大学進学で上京するまで福島に住んでいたが、当時は福島でも路面電車が走っていた。また、学生時代に文京区の根津にあった下宿に住んでいたことがあるが、その側を走っていた都電のことを思い出したりした。学生運動に明け暮れていた頃の懐かしい思い出である。

 翌日はいよいよ調査旅行の最終日である。この日もあれこれと廻ったが、私がとりわけ関心を寄せていたのは原城跡と島原城であった。この二つの城は、多くのキリシタンが関わった空前絶後の大事件として知られる島原の乱に登場する。この乱が、島原・天草の乱あるいは島原・天草一揆とも言われるのは、島原地方のみならず海を隔てた天草地方でも、領民らが一斉に武装蜂起し両者が糾合して闘ったからである。1637(寛永14)年の10月末のことである。島原では、一揆軍が村々の代官を次々に襲撃して島原城を攻め、天草では、本渡城や富岡城などに攻め入ったのである。この乱については既に山なす研究があり、私が語れるものなどないに等しいが、話の都合上後ほど少し触れてみたい。

 われわれがこの日の午前中に訪ねたのは、島原の乱で世にその名を知られることになった原城の跡地である。ここは、島原半島で唯一世界遺産に登録されたところであり、半島の南端に近いところにある。もともと原城は、当時の領主であった有馬貴純によって1496年に築かれた城であり、周囲4キロの三方を有明海に囲まれた難攻不落の天然の要害で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・天草丸(一揆軍が天草郡の軍勢で守備を固めたところ)からなり、別名「日暮城」とも呼ばれた美しい城であったという。貴純の孫にあたる晴純の代に至って有馬氏は全盛期を迎えるのだが、その後次第に衰退する。

 佐賀の龍造寺勢によって再三侵略されたが、それでも有馬氏は島原半島の南部をかろうじて支配していた。キリシタン大名としてその名を知られた有馬晴信が、1612年に岡本大八事件(晴信と本多正純の家臣岡本大八との間に生じた贈収賄事件)に連座して死罪となったため、子の直純が島原の地を治めることになった。だがわずか2年後には日向に移封されたため、島原における有馬氏の支配はここに終止符を打つことになった。

 その後、1616年に松倉重政が入封して島原藩の藩主となり島原城を築城したので、一国一城令にもとづいて原城などは廃城となった。この一国一城令とは、徳川幕府が1615年に領内の居城以外のすべての城の破却を命じた法令で、主として西国諸大名の軍事力を削ぐ目的があったようである。こうして形の上では原城は廃城となったわけだが、壊されたのは外壁の一部にすぎなかったのだという。そうでなければ、大勢の一揆軍が長期にわたってここに籠城できるはずがない。

 各地でそれぞれ大規模な反乱を繰り広げた一揆軍は、キリストの再来と崇められた天草四郎時貞を総大将として、1637年の12月から翌年2月までの約3ヶ月間、原城に立て籠って幕府軍と闘った。一揆軍の軍勢は約37,000人(27,000人ともいわれる)であったのに対し、幕府軍は最終的には約12万の大軍を動員したのだという。幕府軍の総攻撃によって原城は陥落し、一揆軍は全滅した。その後原城は幕府によって徹底的に破壊しつくされた。乱の痕跡を消し去りたかったのであろう。

 原城があった島原半島南部は、キリシタン大名であった有馬晴信の所領であったこともあって、武士や農民の別なくキリスト教の信仰が盛んな地域であったが、天草もまたキリシタン大名だった小西行長の領地だったこともあって、島原と似たような状況にあったようだ。一時はキリシタン王国のような観を呈していたのだという。その後家康の禁教令によって、領民の多くは表向きは棄教したり潜伏したのだが、それでもキリシタンは隠然たる影響力を持っていたらしい。

 では、もう一つの島原城はどんな城だったのか。有馬直純が日向に転封された後、島原はしばらくの間幕府領となっていたようだが、先に触れたように、その後松倉重政に与えられた。重政は当初有馬氏が居城としていた日野江城に入ったが、この城は場所が領地の南端にあって不便だったために、新しい城を築城した。それが島原城である(森岳のあった地に築城されたので、別名森岳城とも呼ばれた)。松倉重政は、7年の歳月をかけて理想とする城を完成させ、島原城の初代城主となった。島原城は五重の天守を持ち、数多くの櫓(やぐら)を持った城であったが、4万石の地方の小大名にしてはあまりにも立派すぎる城であったようだ。

 そうなったのは、九州の外様大名に対する牽制とキリシタン対策という任務が、江戸幕府から重政に与えられていたからだと言われている。そのために分不相応の城となったようで、武家諸法度で禁じられていた新しい城の築城や大きな天守も許可されている。しかし島原城を完成させるためには多大な資金と労力が必要であったし、幕府の歓心を買うために石高以上の年貢を取り立てようとしたため、そのしわ寄せが領民にのしかかることになったようだ。その結果、重政は領民から恨みをかうことになる。キリシタン対策のためでもあった築城が、島原の乱を生む一因となったのは歴史の皮肉である。一揆軍は蜂起した当初島原城の城下に火を放ち城にも攻め入ろうとするのだが、堅固な城を落とすことはできず、原城での籠城戦へと転じていくことになる。

 家光からキリシタン取り締まりの不徹底を指摘された重政は、幕府の意向に忠実であったために、徹底した弾圧によってキリシタンに棄教を迫り、棄教を拒否した者に対しては雲仙岳の熱湯を浴びせ、突き落としたりした。二代目の藩主となった息子の勝家は、父親以上の残酷極まる弾圧ぶりであったようだ。我々が訪ねた時は島原城は改修中であり、再建されたその美しい城郭の全貌を眺めることはかなわなかった。

 ネット上には、端麗な城の写真とともに、島原城を「権威と弾圧の城」と評した記事もあった。外観とは裏腹の内実である。その表現を真似るならば、「籠城と全滅の城」となり、跡形もなくなって幻影と化した原城とはまさに対称的である。勝家は、島原の乱の平定後、領国経営の失敗によって反乱を惹起させた責任を問われ、大名としては異例の斬首刑となったのだという。美しい城の城主が斬首とは…。この島原城も明治期の廃城令ですべて壊されたが、戦後になって再建された。現在の城の姿があまりにも見事なのは、その所為である。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/06/20

原城跡にて(1)

 

原城跡にて(2)

 

原城跡にて(3)