名画紹介⑨「一二人の怒れる男」

 今回も、引き続き名画紹介の原稿を投稿することにした。今月は、ゴールデンウイーク前だということで、原稿の締め切りが早まったからである。この映画「一二人の怒れる男」は、12人の陪審員をめぐるヒューマン・ドラマということになるのであろうが、法廷劇の面白さを越えて、ドラマというものの奥深さを知らしめる名作である。結論は既に分かっているにも拘わらず、何度見ても飽きることがない。

 教員時代には学生たちにも見せたので、個人的にも懐かしい映画である。監督は本作で映画監督としてデビューしたシドニー・ルメット。硬派の社会派映画を撮った監督だとのことだが、私が知っているのは、他には「オリエント急行殺人事件」のみである。主人公は名優ヘンリー・フォンダ。原作は、初期のテレビドラマで活躍した脚本家のレジナルド・ローズ。この間のコロナ騒動で外出を自粛しているので、午後には毎日のように映画を観ている。「オリエント急行殺人事件」も先日見た一本である。

 そんな話はともかく、冒頭で裁判長が顔を出す法廷の場面と、最後に陪審員たちが裁判所から散っていく場面を除けば、映像はすべて陪審員室という狭い部屋での、12人の男たちが繰り広げる白熱した議論のみ。一見何とも安上がりでシンプルな作りのドラマのように見えるが、大作揃いのハリウッド映画とはひと味もふた味も違った、実に見応えのある作品に仕上がっている。

 被告は不幸な生い立ちの18歳の若者であり、父親殺しの犯人として裁判にかけられている。証拠もあれこれ揃っており、少年が有罪であることは疑いの余地もないように見える。そのため、陪審員たちは早々とこの事件に有罪の評決を下し、それぞれの生活に戻りたがっている。そんななか、ただ一人ヘンリー・フォンダ演ずる建築士の8番陪審員だけが、議論もせずに有罪の評決を下すことに対して、あえて異議を唱えるのである。

 彼だとて他の陪審員たちの気持ちも分かっているし、少年が無罪であると端(はな)から確信しているわけでもない。にもかかわらず、そんなに簡単に電気椅子送りにしていいのかと、無罪を主張するのである。彼は、他の陪審員から「何をしたい」のかと問われて、「話したい」と答える。その勇気ある姿勢と発言によって、ドラマは一気にスリリングな展開を見せ始める。

 ●自由な言論を象徴する「怒り」

 最初は、有罪11名、無罪1名から始まった議論であるが、熱気を孕んだ議論の過程で、有罪であると確信していた11名の陪審員たちは、徐々にその確信を失っていく。お互いに名前も職業も知らず、境遇も違った男たちの、紆余曲折をも含んだ激しい議論こそが、この映画の見せ場である。そして、筋の通った疑問が生まれるなかで、一人また一人と無罪を確信していくのである。「今年一番の暑さ」によって狭い会議室はうだるような暑さとなっており、そこに緊迫した議論が加わるものだから、見る者までが汗まみれの状態となる(笑)。

 陪審員制度の性格から、12名の陪審員たちも実にさまざまキャラクターとして登場する。年寄りであったり、遊び人であったり、偏見に満ちていたり、几帳面であったり、付和雷同したりする。その描き方が何とも秀逸である。演ずる俳優陣も個性的で皆素晴らしい。しかも重要なことは、12名の彼らが、誰から何の制約も受けることなく、自由に伸び伸びと激しく議論を闘わせていることである。「怒れる」というタイトルが示しているものは、この自由な言論なのではあるまいか。そして彼らは、激しい議論の末に無罪12名の結論に至るのである。

 ストーリーの根幹に流れるのは、真剣な議論を通じてこそ、偏見や独善を排した結論に辿り着くことができるという民主主義の精神である。フォンダは、市民社会が理想とする良心を体現しており、意志的で思慮深くかつまた事実に拘った頭脳明晰な人物として描き出されている。この彼に注目するのは当然であるが、私にとって興味深かったのは、フォンダの熱意を買って最初に無罪に転じた老人であり、息子との確執もあって最後まで有罪に拘り続けた宅配会社の社長である。

 結論を得て会議室を出る際に、件の社長にそっと上着を着せてやるフォンダの優しさ、裁判所を出る時に件の老人と名を名乗り合うだけの二人のさりげなさ、そんなところにも心を打たれる。忖度や改竄や隠蔽が蔓延し、まともな議論が形骸化しつつある今日の日本においてこそ、改めて見直されるべき名画である。

 タイトルに使ったのは、「偏見という眼鏡は真実を曇らせる」であるが、他にも興味深い科白がいくつも登場する。「真実はあんたの独占かね。ひどい思い違いをしている」や「事実だけが問題だ」などもそうだが、私が特に心惹かれたのは、有罪から無罪に適当に態度を変えた遊び人に詰め寄って、時計屋の陪審員が言う長い科白。「無罪に投票したければ無罪を確信してからにしろ。有罪なら有罪でいい。正しいと思うことをしろ」。そして彼は、なぜ態度を変えたのかと問い、その「理由を言う義務がある」と批判するのである。身の引き締まるような科白である。