労働科学研究所のころ(三)

 2回にわたって、労働科学研究所で働いていた頃の思い出を書き綴ってきたが、この3回目で最後にしたい。このブログにあれこれ投稿するにあたっていつも気に掛けているのは、ただただ事実を事実として書き記すだけではなく、でき得ればちょっとした読み物に仕上げたいということである。エッセーとまでは言わないものの(当たり前である!)、雑文には雑文なりの面白さを付け加えたいのである(笑)。そうでないと、書いたものを他人の目に曝すことはできないからである。

 たんなる個人の過去の記録だけなら、恐らく誰も興味を示すことはないだろう。定年で退職するに際して、店主の私も経済学部の紀要に業績リストを掲載させてもらったが、こうしたものは恐らく誰の目にも止まらないはずである。人間としての書き手の姿が見えないからである。書いた私も、他の人のこうしたものを読んだことがないのだから、他の人も、私の業績リストなどに目もくれないはずである(笑)。それと似たようなものである。

 過去に書いたものを整理しているうちに見つけたものは、この間(一)と(二)として投稿した文章だけではない。藤本さんの追悼文集に載せた「藤本先生、さようなら」も出てきた。藤本さんは、2002年の6月に亡くなったが、しばらくして全労連会館で偲ぶ会が開かれた。その時に、小生も労研の関係者の一人として思い出話をした。偲ぶ会での多くの方々の発言は、同年9月に「藤本先生を偲ぶ 追悼文集」として纏められたが、以下の投稿は、そこに収録された文章である。タイトルは、直ぐに想像されたことと思うが、ヒルトンの「チップス先生さようなら」から借用した。

 なお、藤本さんの経歴や研究業績、その人柄に関しては、鷲谷徹さんの「藤本武博士と労研」や、既に亡くなられた前原直樹元所長の「藤本武先生は労研を選び、労研も先生を必要とした」(ともに『労働科学』第78巻4号、2002年)に詳しい。鷲谷さんは、藤本さんの全業績をデータベース化すべく作業中だと書いていた。彼の文章を読むと、鷲谷さんの藤本さんに対する大きな敬意と深い愛情を、端々に感じ取ることができる。余りにも淡泊であった私とは大違いであり、内心忸怩たるものを感じた。

 また、藤本さんの蔵書類が晩年に労研の図書館に寄贈され、死後「藤本文庫」として閲覧可能となっていたが、労研の移転にともなって、この「藤本文庫」が専修大学、大分大学、立教大学に分割されて保管されることになった。2016年のことである。法政大学の『大原社会問題研究所雑誌』の692号(2016年6月)では、労働科学研究所旧蔵資料と題した特集が組まれ、そこに移転先となった3大学の関係者が寄稿している。そのなかで、元同僚の兵頭淳史さんが「藤本文庫(洋書・和書)の移管と利用可能性」と題して、賃金制度論史とりわけ「同一労働同一賃金」の日本における受容とその理解をめぐる問題について触れている。藤本さんの仕事というと、最低生活費、生活時間、最低賃金制、労働災害、貧困史などに関する研究が直ぐに思い浮かぶが、それらとは違った角度から藤本さんの仕事に触れた、なかなか興味深い論考である。

 ●藤本先生、さようなら

 藤本先生という人

 私は労研に1970年に入所したので、先生が退職される1977年まで、同じ部屋で一緒に仕事をさせていただいたことになります。たまたま大学時代の友人の父親が先生と知り合いだったものですから、そんな縁で労研に就職することになりました。先生が友人の父親に出された年賀状を持って、私は労研の先生を訪ねたのですが、その年賀状には、激動ならぬ「微動の70年代」と印刷されており、申し訳なさそうな先生の訂正があって、ひとり笑ってしまいました。

 その時はただの単純な間違いだとしか思っていませんでしたが、その後間違いには根拠があったことを知ることになります。先生の字(ついでに下山さんの字も)はとても読みにくく、当初私はほとんど判読できませんでした。「これは日本語なのか?」と訝るほどだったのです(笑い)。年賀状の印刷屋さんが間違ったのも、やむを得なかったと言うべきでしょう。それに比べて私の字はごく普通に読めましたので、先生からは「字が綺麗だ」と褒められました。もっとも、研究者になろうとする者が「字が綺麗だ」と褒められても、それほど嬉しくはありませんでしたが…(笑)。

 就職してからしばらくは、労研の本を読まされました。当時はまだ少しは「ゆとり」があったのでしょう。労研の本は図表がやたらに多いものですから、学生運動で大所高所の理論にかぶれて頭でっかちだった私には、すぐには馴染めず、いささか物足りなく思ったものでした。しかしそのうち、批判精神に裏打ちされた実証がいかに大事なのかを先生の仕事などから学ぶなかで、評価は大きく変わっていきました。今では、実証のない高邁な理論には、まるで興味がわかなくなってしまいました(笑)。

 当時先生は50代の後半でしたが、いつも物腰が柔らかでにこやかにされており(先生の不機嫌そうな顔というものが、思い浮かびません)、ずっと年上の人といった感じでした。生活時間調査、ライフサイクル調査、無宿労務者調査、能率給調査などの仕事を手伝いましたが、そんな比較的アカデミックな調査以外にも、競艇の選手の賞金額に関する調査や外食に関する調査なども引き受けざるを得ませんでした。労研の財政難をカバーするためだけの調査であっても、先生は一人で黙々とこなされていたのです。

 藤本先生から学ぶもの

 先生と調査ということで言えば、私には柵原鉱山での調査の思い出が、とても強烈な印象として残っています。先生に付いて調査に出かけたところ、本社からの連絡にミスがあったのか、現地の職員には我々が来ることが知らされておらず、そのためまさに「けんもほろろ」の無礼千万な応対を受けました。先生よりもかなり若い人でしたが、人を見下した態度で何を聞いてもろくな返事がない。どこの馬の骨が何しに来たのかといった調子です(翌日には連絡が届いたようで、その態度は突然豹変することになったわけですが、それはそれで私には不愉快でした)。

 若かった私はむっとしていましたが、先生は適当に世間話なども交えながら「まあまあそう言わずに」とか「話は変わりますけど」などと平気な顔であれこれ尋ね、どんどんノートに記録しているのです。部屋に戻ってから、「ひどいですね」などと私が愚痴っても、先生はそんなことは一言も言わない。調査とはこんなものだと教えたかったのかもしれません。委託調査に慣れきっていた私は、フィールドを開拓しなければならない本物の調査の大変さを、ここで初めて知ったような気がします。

 分野が分野だけに、労働問題の研究者にはけっこう勇ましい人が多いし、大仰な議論が好まれる雰囲気もないわけではありません。先生の現状認識はとても厳しいし、批判精神も強靱なのだけれども、ふだんの先生は声高な議論などいっさいせず、まるで偉ぶるところがないのです(それどころか、しゃれっ気や茶目っ気がありましたし、よく冗談も口にしていました)。いつもこつこつと、自分の仕事を続けておられました。そこには、目立ちたがり屋には無縁の、「秘められた情熱」や「持続するこころざし」といったものが存在していたはずです。

 先生に初めてお会いした頃の先生の年齢に近づき、私も頭の禿げ具合だけは先生に似てきました(笑)。しかし、そんなものではなくて、もっと大事なものを、先生からしっかりと受け継がなければなりません。私なりの密かな決意を胸に、先生のご冥福をお祈りしたいと思います。藤本先生、さようなら。(了)

 見つかったのは、以上のような追悼文集に載った文章だけではない。私の労研時代と重なり、そしてまた深く関わることになったった、研究会に関する文章もあった。当時の労研で毎月出されていた「組合ニュース」(1983年8月号)に掲載された、「『現労研』のこと」である。1983年だから退職する2年前のものである。この文章の存在については、実は私自身すっかり忘れており、手元にも残していなかったのである。現代労働問題研究会の会員であった相田利雄さんから、しばらく前にその存在を教えてもらい、ついでにコピーを送ってもらったという経緯がある。自分の書いたものは微細なものまで取ってあるのだが、そこからすっぽり抜け落ちていたわけである。

 相田さんが持っていたということは、当然ながら私が彼に「組合ニュース」のコピーを手渡したはずである。もちろん、それさえも忘れていたのであるから、記憶など結構いい加減なものである(笑)。突然現れた文章だということもあるのか、今頃になって読み返してみると何とも懐かしい匂いがする。2018年の10月初めに現労研の同窓会があり、そこに顔を出してきたので、懐かしさもひとしおである。相変わらずの生意気な文章、偉そうな書きっぷりであるが、それもこれも現労研にすっかり馴染んだ証拠なのであろう(笑)。

 私は学生運動に熱中していて、大学では勉強らしい勉強をしなかった。労研で調査を通じて鍛えられたことに加えて、この研究会に参加させてもらって、ようやくにして一人前の研究者になれたような気がする。今から考えると、実にいろいろな人々にお世話になったものである。元の文章では、人名についてはすべてイニシャルになっているが、この文章が書かれてからさらに35年も経っているので、最早その必要もないであろうから、ここではすべて本名に戻してある。

 ●「現労研」のこと

 現代労働問題研究会(略称「現労研」)のことについて書いてみたい。この研究会は、東大紛争時の大学院生の勉強会から始まったということで、現在は大学の教員となった早川さんと相田さんが、発足時からのメンバーである。私が現労研に誘われたのは(恐らくは、相田さんが誘ってくれたのではなかったかと思うが…)、就職も決まった1970年の秋である。当時のノートを広げてみたら、最初の日付は9月26日となっていた。今(1983年)から13年も前のことである。当時大学院にいた竹内さんとともに、根津のとある下宿(今となっては、いったい誰の下宿だったのかさえ判然としないのだが)を訪ねた。

 当時は、社会政策論争をフォローした文献研究に取り組んでおり、私が顔を出した時は服部・大河内論争がテーマだった。ひとしきり難しい話が済んでから、私も感想を求められたので、生意気にも「階級的視点が弱い」とか「生産力と生産関係の矛盾がはっきりしない」といった公式を述べた。先の早川さんと相田さんは、そんな私の話をニンマリしながら聞いていた。その時の様子を今でも思い出す。今から想像するに、「おうおう、また若いのが聞いたふうなことを言ってるわい」とでも思っていたのであろう(笑)。

 それからは毎週1回真面目に研究会に参加して、初めて勉強らしい勉強をした。大河内、氏原、隅谷の諸氏らがいかに偉い先生方であるのかを、大学を卒業してからようやくにして知るという有様だった。1年程経ってから、先のような自分の発言がいかに無内容で下らないものかを深く自覚するようになり、それからは、新メンバーが入るたびに聞かされた類似の発言を、ニヤニヤしながら聞く側に回った(笑)。研究会の場所もあちこちと変わり、駒込の福祉会館、東大社研、同じく東大の保健学科研究室などいろいろなところでやり、早川さんと相田さんが法政大学に就職して、ようやく大原社研が本拠地となった。

 メンバーもその後随分と増えた。小越さん、光岡さん、川島さん、山本さん、それに労研の鷲谷さんと木下さんも加わって、現在は10名のメンバーでやっている。その後、勉強の中身は理論から現状分析に移り、自分たちで調査をやろうということになった。最初に手掛けたのは、全国金属労働組合の調査であった。さらに、阪急電鉄の組合史(『阪急電鉄労働組合30年史』)や全国金属の組合史(『全国金属30年史』)をみんなで分担して執筆した。現在は、電機産業の労使関係について研究し、その成果を本に纏めようと悪戦苦闘しているところである(1984年に大月書店から『電機産業の労働組合』として刊行された)。これまで週1回のペースでやっていた研究会も、その後多くのメンバーが定職を持ったり子どもができたりして難しくなり、数年前から月2回になっている。

 考えてみれば、研究会のメンバーにはユニークな人物が多い。そのなかでも、双璧と言えばやはり相田さんと小越さんということになるだろう。小生の見るところ、このに人は、研究会の後が楽しみで参加しているような節がある(笑)。お酒が好きで、歌がうまく、飲み出すと急にハッスルし始める。二人が赤提灯で騒いでいるところを見た人は、彼らが大学の助教授だなどとはよもや思うまい。ただのオッサンである。一緒に飲んでいる我々も恥ずかしい(笑)。夏の泊まり込み合宿や忘年会、新年会もよくやったが、これも二人のためにやっているようなものである。

 こんな二人の面倒を見てきた早川さんも、さぞかし大変だったのではあるまいか。メンバー全員がなんとか人並みの仕事に就けるようになったのも、すべて早川さんのおかげであり、感謝しなければなるまい(いつも悪態をついている小生も、ほんとうは蔭で手を合わせているのですー笑)。最近は仕事が忙しくなって、月2回の研究会に顔を出すのも少々疲れ気味ではあるのだが、それでも毎回みんなに会えるのがとても楽しい。