労働科学研究所のころ(二)

 前回の投稿に引き続いて、その続編を投稿することにした。この文章は、「労働社会生活研究の一断面」と題して『労働の科学』66巻12号(2011年)に掲載された。「労研活動を振り返って」という特集が組まれたので、各分野の研究者が、労働科学研究所での研究を回顧して思い出を綴ったのである。私もまた、自分の記憶に残る歴史の一齣を描いてみた。少しは面白い読み物とするために、当時の文章にあれこれ手を入れたことをお断りしておく。

 ●労働社会生活研究の一断面

 社会変動の時代のなかで

 私が社会科学研究部の産業労働研究室で仕事をしていたのは、すでに前回触れたように、1970年から85年までの15年間である。高揚した学生運動の余塵がまだ冷めやらぬ年に入所した23歳の私は、ドルショックや二度に渡るオイルショックがあり、高度成長から低成長への旋回を日本の企業が「減量経営」によって乗り切り、「豊かな社会」やコンピュータ社会の出現が話題となった、そんな時期を労研で過ごしたことになる。退所した時は38歳になっており、子どもも3人になっていた。

 同室でともに仕事をした鷲谷徹さんの整理によれば、1970年から90年頃までの産業労働研究室での研究に影響を与えたのは、サービス経済化やホワイトカラー化の進展であり、ME技術革新の展開であり、ライフスタイルやライフサイクルの変化であり、労働力の高齢化や女性化の進行であり、ナショナルセンターの再編による労働運動や労使関係の変化であり、弾力化や規制緩和による雇用・労働政策の変貌などであるという。確かに目まぐるしい動きである。こうした社会変動によって労働と生活の有り様は大きく変貌したし、そうした変貌こそが、今日まで続くような状況を生み出したと言えるのかもしれない。

 世の中の変化が大きい時には、その行方を追うかの如くに実態調査がたくさん行われる。そしてまた、働く人々の側の「発言」に力があれば、そうした実態に孕まれている問題点を解決するための方策が求められることにもなる。今から振り返ってみると、私が在職した期間はまさにそうした時期だったようで、藤本武さんや下山房雄さんらに手ほどきを受けながら、じつにさまざまな調査に精力的に取り組んだ。委託調査が「過剰」になってくると、どうしても研究時間は「過小」にならざるを得ない。辻褄を合わせるためには、研究しながら調査し、調査しながら研究しなければならないような状況も生まれた。

 そのために、調査の肌理(きめ)が粗くなりかかったりもしたが、他方では、新しい分野に挑戦しているという高揚感も生まれた。研究室ではアンケート調査が主流だったので、現場に出る機会はそう多くはなかったが、それでもあちこちに聴き取りや現地視察に出かけた。私のアルバムには、兵庫県の柵原鉱山で藤本さんとヘルメット姿で撮ったものや、タクシー運転手の労働負担調査の際に酒井一博所長とタクシードライバーの出で立ちで撮ったものがある。いずれも若かりし頃の写真である。

 思い出深い調査から

 私たちの研究室では、大きな調査が行われるとその成果を出版部から出版物として刊行することが多かった。研究成果を社会に還元することによって、労働科学研究所の存在価値を高めたいとの判断もあったのだろう。まだ駆け出しの研究者にすぎなかった私は、出版物に自分の名前が載ることが嬉しく、それが研究の励みにもなった。単細胞だったこともあったかもしれない(笑)。思い出深いものをあげておくと、『最近の生活時間と余暇』(1974年)、『日本人のライフサイクル』(1978年)、『サービス産業の労働問題』(1982年)、『技術革新と労働の人間化』(1989年)などである。この他に、「中高年者の仕事と労働能力に関する調査」の結果が丸ごと掲載された電機労連『調査時報』NO.168(1981年)なども忘れられない。

 『最近の生活時間と余暇』と『日本人のライフサイクル』はともに藤本さんの編で刊行された。前者は、藤本さんが中心となって進めてきた生活時間調査の1970年版とでもいうべきもので、旧著『日本の生活時間』の続編にあたる。当時注目を集めていた余暇にも独自に焦点があてられ、そこを私が担当して執筆するように藤本先生から言われた。生活時間調査に関して言えば、当時から疑問に思っていたものの、恥ずかしくてとうとう口に出せなかったことがある。性生活の時間はいったいどこに区分されるのかという問いである。私は仙人のように枯れてはいないので、生身の人間の生態が、言い換えれば下世話なことが気にかかる質なのである(笑)。
 
 後者は、NIRA(総合研究開発機構)の研究助成を受けて行われた「ライフサイクル調査」をもとに刊行されたものである。労働者の労働と生活をある断面で切り取るだけではなく、それを生涯的な視点からも捉えようとしたものである。私はこの調査から多大の示唆を受け、そこから学んだものはその後自分の生活問題研究の土台ともなった。持続可能な労働と生活を構想することの重要性は、今でも変わらないはずである。この二冊を手に取ると、当時助手として働いておられた小川和子さんが、一人静かに集計作業に専念していた姿が、今でも懐かしく思い出される。

 「中高年者の仕事と労働能力に関する調査」は、電機労連からの依頼で実施された。労研が引き受けることになるにあたっては、当時調査部長だった石垣辰男さんが労研のファンだったこともあったのかもしれない。アンケートだけではなく面接調査もやりながら、中高年労働者の能力低下論を批判し職務再設計の必要性を論じたものである。いかにも労研らしい現場に密着した丁寧な調査だった。『サービス産業の労働問題』は当時の職業研究所や長野県社会部などからの委託調査が土台となっており、『技術革新と労働の人間化』はNIRAの研究助成の成果である。ページを開くと、サービス経済化やME技術革新がもたらす新しい労働問題と苦闘している様子が、ありありと窺われる。研究者としての青春時代の熱気が立ち上ってくるかの如くである。

 久しく現場が軽んじられてきたこともあって、いま労働の世界はかなり荒んでもいる。労働問題が山積しているからこそ、多方面で「ディーセント・ワーク」が叫ばれてもいるのだろう。どんな時代であろうとも、労研に求められているものがそれほど変わるようには思えない。労研で働く研究者にとって大事なものは、労働の世界から時代を切り取る鋭い感性であり、それを広い視野の中に位置付ける理性であり、そしてまた、絶えず現実に肉薄し続けようとする「調査屋」の執念なのではあるまいか。

 このようにして昔の話を振り返っているうちに、『大月 経済学事典』(大月書店、1979年)に、私が執筆した「労働科学」([英]science of labour,[独]Arbeitswissenschaft)が載っていることを思い出した。今の今まですっかり忘れていた。労研に在職当時私が考えていたことがよくわかる解説となっているので、そのまま紹介しておこう。

 労働生理学、労働心理学、労働衛生学、労働経済学等の知見や方法をもって、人間のいとなむ労働と生活についての科学的資料を社会に提供し、労働・生活条件の合理的な改善をめざした応用科学。医学や心理学を中心とした労働と生活に関する生物学的研究を包括するものとして労働科学の名称を用い、その研究に最初に着手したのは、1921年(大正10)に設立された倉敷労働科学研究所であった。その社会的な背景としては、第一次大戦後の〈産業合理化〉が労働者の心身の疲弊と結核をはじめとした社会的疾病の増大をもたらし、人間労働に関する科学的研究が必要とされたことがあげられる。

 日本の労働科学は製糸女工の夜間労働に関する研究から出発したが、ヨーロッパの諸研究を継承して疲労研究にもとづかないテーラリズムを批判して、〈資本家的合理化〉にたいして〈科学的合理化〉を提唱した。しかし戦時下には産業報国会の一部局として再編され、生産力増強政策に奉仕させられた。1945年(昭和20)に財団法人として再建された労働科学研究所は、その反省にたって労働過程の資本主義的な性格をふまえ、労働力保護の立場から資本主義社会における改良を重視した研究活動を続けている。

 高度成長下での技術革新は、労働過程を大きく変貌させ、〈合理化〉にともなう静的・局所的筋負担や神経的負担を増大させるとともに、単調労働問題をひき起こし、人工的労働環境や変則勤務に加えて各種有害物質による健康障害をもたらし、さらに頸肩腕障害や腰痛といった新しい職業病を生みだしている。労働科学がこうした資本蓄積がもたらす諸結果を批判的に解明し、その解決をめざすためには、社会科学を基礎とした総合科学としての性格をいかすとともに、現実の労働組合運動との結合が重要となってきている。

 昔書いたものを今頃になって読むのは、少しばかり怖いところもあるが、それでもやはり懐かしさの方が先に立つ。その文章を書いた頃の自分が思い出されるからである。アルバムの写真を見るのとはまた違った感覚である。