仲春の加賀・越前・若狭紀行(九)-ある句碑のことなど-

 旅に出ると、思いもかけぬ発見があったりもする。それもまた旅の面白さだと言えなくもない。橋立の「北前船の里資料館」から刊行されている『引き札の世界-北前船がもたらした華麗なる広告チラシ-』に、富山高岡の伏木で廻船問屋を営んでいた堀田善右衛門の名を見付けたことは既に記しておいたが、その彼は、作家堀田善衛の曾祖父である。

 堀田善衛の生家は大きな廻船問屋であったので、引き札の写真集にその名があって何の不思議もないのだが、思わぬところで見付けたので、一寸驚いたというわけである。生家は時代の変化に追いつけずに没落し、消滅することになる。その一断面を、曾祖父堀田善右衛門の最晩年の姿を通して描いたのが、「鶴のいた庭」という作品である。

 この作品は、宮本輝編の『魂がふるえるとき』(文春文庫、2004年)と題したアンソロジーに収録されている。「鶴のいた庭」の末尾は、「會祖父は、大晦日に物見に上ったその翌日、すなわち大正11年の元旦の早朝、北の海に海鳴りの底深くとどろくなかで、静かに息をひきとった。老衰である。数え年96歳、名を善右衛門といった。」という文章で閉じられている。

 生家の屋号は鶴屋と言い、その由来となった二羽の鶴が、羽を切られて飛び立てなくなったまま、広い庭に棲んでいる。まるで善右衛門の当時の姿を象徴しているかのようである。いたずらに広く寒々とした部屋で、善右衛門は痩せて枯木のようになった身体を脇息(きょうそく)で支え、毎日のように庭を見ているのである。堀田善衛は、生家の滅亡を次のように描いている。

 この年老いすぎた老人は、ほとんど日がな一日を広い銀の間に坐りつくして過した。冬でも、雪が吹き込まぬ限りはあけはなしていた。客人の話に耳をかたむけ、ときどきは書見をしたり、字を書いたりしていたが、曾祖父のことばで言うならば江戸をはじめとして、横浜、神戸、樺太、北海道から日本海沿岸の港々にちらばっている身内の人々からの情報は絶えず受取り、しかも決して祖父と父との仕事の運びに口出しはしなかった。

 そして彼の、数百年にわたる家の歴史が、いまどうしようもなく閉じられようとしているのであることも、人々の話を聞くときには閉じているその眼で、明らかに見透していた。三井家や岩崎家のようでなければ、大阪商船や日本郵船のようでなければ、戦争のあるたびにふとって行くのでなければ、事は必ずや廃れてしまうのである。

 以上紹介したように、「鶴のいた庭」では、生家の滅亡は善右衛門の姿を通じて語られるのであるが、『若き日の詩人たちの肖像』(新潮社、1968年)では、その最後の日が一族の姿を通して語られている。この本は昔友人から読むように勧められたものであるが、繊細な魂の彷徨に惹かれはしたものの、あまりの大作で読むのに難儀した覚えがある。

 家の状況は、ますます非道(ひど)いことになっていた。何重にも抵当に入っていたとはいうものの、とにかく一杯だけ、最後までのこっていた汽船も、これを最後に、と父母や少年が岸壁にならんで手をふっているのをあとにして、港を出て行ってしまった。神戸の別の船主のところへ、船籍がかわってしまったのである。

 店の者たちは、わあわあと声をあげて泣き出した。舷側で一族に向けて手注目の敬礼をつづけている船長らも、左手でハンケチをとり出しては涙をぬぐいつづけていた。二百年ほど、いや記録にある部分だけに限って言えば、百五十年ほどつづいた廻船問屋の一家の歴史が、濛々(もうもう)と黒煙をあげて岸壁をはなれて行くその船の姿が夏の海の水平線に消えたときに、それが消えてしまったのであった。

 こんなふうに最後の光景が描かれている。生家には、「下関から小樽までの裏日本に、何十軒かの船問屋があったが、そのままで生き延びたものは一軒もなかった」という。時流に乗ることができなかったのである。厳しく、そしてまた寂しい歴史の一齣である。

 もう一つの思いもかけない発見は、北前船とは何の関係もない。だから、余話のようなものである。われわれは2日目に敦賀のホテルに泊まった。せっかくなので、外に出て一人で飲んでみようと思い、ホテルの周りをぶらついた。そうしたら、「居酒屋以上料亭未満」などといった面白いのれんを出した店に出くわした。

 その店で地元の魚を酒の肴にゆっくり飲み食いし、天上に輝く月を眺めながら、満足して宿泊先に戻った。そんな気分になったのは、今回の調査旅行の目的の大半は、ここまででほぼ達せられたようにも感じられたからである。翌日に企画された「人道の道敦賀ムゼウム」や「美浜原子力PRセンター」の見学では、私などはただぼんやりと佇んでいたに過ぎない。

 そんな時に目に留まったのが、「美浜原子力PRセンター」の玄関脇に建てられていたある句碑である。そこには、「誓子 舟蟲が溌溂原子力發電」とあった(1974年11月に建立)。あの山口誓子の句碑がこんな所に建てられており、しかもそこに刻まれた句が「舟蟲が溌溂原子力發電」とは、といった失望がらみの驚きを覚えた。周りの人も同じような思いだったに違いない。

 ネットで検索してみると、彼の句碑一覧を閲覧することができる。それによると、全国各地に建てられた句碑の数は200にものぼる。この数にも正直驚いた。素直に捉えれば、一流の俳人の「証」のようにも見えるが、狷介かつ不羈な私などからすると、粗製濫造のような気もしないではない。日本全国にある句碑や歌碑、あるいは文学碑の類は、いったいどれだけの数になるのであろうか。きっと呆れるほどなのではあるまいか。

 しかもそこに刻まれた句が、「舟蟲が溌溂原子力發電」である。原発を手放しで礼賛しているかのようにも見えるこの句が、句碑にまでしなければならない代物かどうかも疑わしい。生前に建てられた句碑なので、本人の了承を得ているはずだが、今となっては誓子も恥ずかしく思っているかもしれない(笑)。当然と言えば当然なのであろうが、著名な一流の俳人にも凡句はあるし、どうでもいい句碑もあるということか。

 ネット上には、「自分の作った俳句の句碑を建てたいが、参考になる資料はないか」といった相談まで寄せられていた。そんなことを考える人がいることにも驚いたが、句作に励む同好の士は数多いて、句集などもたくさん作られているようだから、句碑を作りたいなどと考える人が現れても特段不思議ではないのかもしれない。

 俳句をどのように定義すればいいのかよくは知らないが、もしも「人間に対する関心を深めながら、四季自然に憧れていく文芸」(飯田龍太)だと言うのであれば、自分の句碑を建てようなどと考えること自体、あまりに世俗に流され過ぎているのではあるまいか。俳句の世界とは縁遠い人間の所業であると言う他はない。

 上記のようなことを考えていたら、私みたいに「敬徳書院」の店主を名乗り、毎週のようにブログに雑文を綴り、さらにはそれを集めて冊子まで作って周りにばらまいていることなども、句碑を建てようとする人間の営みと大同小異、五十歩百歩、似たり寄ったりであることに気が付いた(笑)。苦笑するしかない。

 漱石が『草枕』で言うように、「唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい」。「智」も「情」もそれほどのものを持ち合わせてはいないので、角が立つことも、流されることもない。だが、「意地」だけはどうも人並みにあるようだ(笑)。「窮屈」にならないようにするためには、自分もまた「唯の人」にすぎないと観念し続けることが肝要なのであろう。