二つの映画から

 この短いエッセーは、もともとは「韓国再訪」と題した投稿のイントロとして書いたものである。かながわ総研の事務局長の石井洋二さんから、『研究と資料』(No.213、2019年4月1日)の巻頭言に何か書いてくれと頼まれた際に、これを使うことにした。肩書きは、NPOかながわ総研理事とともに「敬徳書院」店主とさせてもらったので、いい気分であった(笑)。石井さんもなかなか芸のある方で、メールを寄越す時には必ず自作の句が添えてある。暮れのメールにあった「読みかけし 本の多さや 年果つる」もいい句だなあと思ったが、今回は「代替わり 祝賀は拒絶 荷風の忌」であった。

 調べてみたら荷風忌は4月30日で、『新日本大歳時記』によれば、彼は「巌谷小波(いわや・さざなみ)の木曜会などで句作し、『荷風句集』がある」とのことだった。迂闊なことに、荷風に句集があることを初めて知ったが(岩波文庫にも『荷風俳句集』がある)、ひょんなことをきっかけにあれこれと関心が広がっていくのはなかなか面白いものである。荷風であれば、馬鹿げた令和騒動などに何の関心も示さなかったであろう。彼はいったいどんな句を詠んだのか知りたくなって調べてみたら、「色町や 真昼しづかに 猫の恋」とか「葉桜や 人に知られぬ 昼遊び」といった『墨東綺譚』の作者らしい句もあったし、女性を詠んだ句にもうまいなあと感心したものがあった。そんな話はともかく、以下が巻頭言の文章である。

 最初の部分に昨年暮れに二部のゼミの卒業生たち数人と会う機会があり、その飲み会の場で、あるゼミ生から「最近見た映画でお薦めのものは何ですか」と尋ねられた。よくある会話である。映画ではなく本のこともある。しかしその後、見ました、読みましたといった返事を聞いたことがないから、あまり難しく考えないで、世間話の一種とでもとらえておけばいいのであろう。私自身も酒の席であれこれ教えてもらうことも多いのだが、メモも取らないで聞いているだけなので、酔いが覚めた翌日にはすっかり忘れてしまっている(笑)。忘れたのなら、メールででも尋ねればいいのであろうが、面倒なのでついついそのまま放置してしまう。そんなことの繰り返しである。

 ところで先の場で、私がお薦めの映画としてあげたのは「万引き家族」であった。是枝裕和監督のこの作品は、第71回のカンヌ国際映画祭において、最高賞であるパルム・ドールを獲得したことで大きな話題となった。私はカミサンとともにこの映画を見に出掛けたが、その動機は、そんな立派な賞をもらった作品とはいったいどんなものなのかといった、何ともミーハーなものに過ぎなかった。是枝作品を見たのはこれが最初なので、この映画について何かを偉そうに語る気など無論ない。

 見終わった後近くのレストランで遅い夕飯を食べながら、この映画についての感想を語り合ったりした。私はと言えば、血縁的な家族に家族の実質がいつもあるとは限らず、それとは逆に、血縁もなくしかも脱社会的あるいは反社会的な人間の結びつきの中にさえも、家族の実質が芽生えていくこともあることを教えられた。この両者が絡まり合いながら、対照的にそしてまたリアルに描かれていたので、家族のあり方を深く考えさせる興味深い作品だったのではないかと思った。

 「万引き家族」は如何にも日本的な映画である。そう感じたのは、現代の日本社会が宿している「貧困」という影を、家族のあり方を探ることによってさまざまな角度から切り取っていたから、ではない。ストーリー展開も、俳優陣の科白や演技にも感じたのだが、描かれた内容に反して、最初から最後まで何とも細やかで静かで奥行きのある映画として作られていたので、そう感じたのである。取り立てて紹介すべきドラマティックなエンディングもないので、どこか私小説的な匂いを感じさせる作品でもあった。それだからなのか、この映画を見たゼミ生に言わせると、見終わって「モヤモヤ感」が残ったらしい。こうした世界にも人間の真実は確かに存在する。そして私は、そんな真実がかなり好きな方である。

 ところが、人間は社会的な存在でもあるので、真実はこうした私小説的な世界にのみ顔を出すというわけではない。秋には、これまたカミサン連れで横浜の伊勢佐木町にあるシネマリンというミニシアターに出掛け、「万引き家族」とは真逆とも言えるような映画を見た。その激しさと熱さとスピード感で、見る者を圧倒せずにはおかない「1987、ある闘いの真実」(監督はチャン・ジュナン)である。この映画は、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領が率いる軍事政権下の韓国を舞台に、現実に起きた民主化抗争を史実に即しつつかなりリアルに描いたものである。
 
 新聞の記事で紹介文を読んでいたので興味を持ってはいたし、知り合いの研究会仲間からも勧めらたので、是非見たいと思ってはいたが、何処で見ればいいのかわからずにいた。そんな時、たまたま横浜で見ることができることを知って出掛けたというわけである。軍部の独裁から民主化へと向かう大きな転換点となったこの抗争は、1987年1月に起きた一人の学生の拷問死事件から始まる。必死にその「事実」を隠蔽しようとする権力に抗し、新聞記者や宗教家に加えて、検事や看守までもが「真実」を明らかにしようと動き出す。そこに生まれる連係プレーとその息詰まるような展開が、見る者をスクリーンに釘付けにするのである。娯楽として見ることを許さない作品ではあるが、敢えて言えば、まさに第一級の娯楽作品でもある。

 学生から始まり市民をも巻き込んだこの民主化抗争は、激化するとともに大規模化し、6月9日には延世大学の学生だった李韓烈(イ・ハニョル)が催涙弾を頭部に受けて重体に陥る。燃え上がった反政府運動は韓国全土に広がり、民主化勢力がついに闘いに勝利するのである。6月29日には、大統領直接選挙制の実施、逮捕されていた民主化運動家の釈放、そして言論の自由の実現が発表されることになる。先の李は7月5日に亡くなるのであるが、9日に行われた彼の葬儀には100万人もの人々が参列したという。ラストシーンで描かれるのは、バスの屋根の上に立って堅く手を繋ぎ合うリーダーたちと、その前に集まった大群衆のシーンである。その圧倒的なまでの迫力に負けて、年甲斐もなく私は涙を拭った。こうしたところにも人間の真実は確実に存在する。そして私は、こうした真実も昔からずっと大事にしているのである。

 権力の理不尽に抗うことを忘れ、無視し、冷笑して、権力におもね続ける社会は、そしてまた、権力の理不尽に抗うために手を繋ぎ合うことのできない社会は、逼塞し閉塞し萎縮した社会のままに終わるほかはない。いま「2019、ある闘いの真実」を描かなければならないのは、われわれ自身の方なのではあるまいか。その後韓国では「キャンドル市民革命」が進行し、朴槿恵(パク・クネ)大統領は退陣に追い込まれた(この市民革命の意義については、白石孝編著『ソウルの市民民主主義』(コモンズ、2018年)を参照されたい)。このような運動を背景として誕生した文在寅(ムン・ジェイン)政権は、北朝鮮との3回にわたる南北首脳会談を実現させ、朝鮮半島をめぐる危機的な状況を大きく変える歴史的な一歩を踏み出すのである。

 上記のような隣国の動きは、わが安倍政権とは余りにも対照的である。安倍政権は、拉致問題をただただ出しに使うだけで、「圧力」一辺倒の無意味な姿勢を再考することもなかったし、それどころか、「国難」を呼号して軍備の増強に狂奔し、トランプ政権を喜ばせただけだったからである。民主化抗争の弱さが、そしてまた市民革命の不在が、こうした事態をもたらしているのであろう。そんな思いに囚われた映画だった。