もうひとつの視点から-ある日本共産党論を読んで-(下)

 作家の内田百閒(うちだ・ひゃっけん)は、「何でも知ってる馬鹿がいる」との名台詞を残したが、ネットの世界にはそうした人間がうようよしているようである。橋下徹、堀江貴文、ヒロユキなどと言った著名人はその代表格なのであろう(私にはまるで興味がないのであるが-笑)。彼らと比べれば、『日本左翼史』のお二人はもっとずっと知的で洗練されてはいるものの、どこかに似たような臭いが感ぜられる。おそらくは、こちらが年を取ってしまったために、頑迷固陋で僻(ひが)みっぽくなっているものだから、そんなふうに感ずるに違いあるまい。それに付け加えるならば、派手なもの、目立つもの、人を驚かすものが元々嫌いな所為もあるのかもしれない。

 岩波書店で長らく編集者として腕を振るってきた大塚さんは、私とは違って紳士なので、先の2人の著者に敬意を払っているようだが、もしかしたらあまりにも事情通なところに違和感を覚えたのではあるまいか。左翼の戦後史は、事件史や人物史や人脈史や真相史の対象だけに終わるものではあるまい。事情通の人は、それ故に事情に絡め取られて溺れていくものなのかもしれない。『日本左翼史』からこぼれ落ちたものにも(あるいは、ものにこそ)大事なものがある、そんな思いだったのではあるまいか。

 大塚さんが『日本左翼史』を熱心に読み込み、そこからこぼれ落ちたものをすくいあげようとするのは、彼が長年にわたって左翼の運動(とりわけ共産党の)に深い関わり合いを持ち、現場でのあれこれの苦渋に満ちた体験を積み重ねてきているからであろう。小学生の時から社会運動に関心を持ったということだから、やたらにませた人ではある(笑)。家庭環境が大分特殊だったからでもあろうが、大学入学のために田舎から上京し、そこで初めて社会に目覚めたような私などとは大違いである。

 左翼の理論や歴史や政策を論ずることは、実はネガとしての日本社会を論ずることでもあり、そしてまた、ネガとしての日本社会を論ずることは、そこで一人の人間として生きてきた生身の自分を切開することであり、あるいはまた左翼の運動に身を投じてきた数多の人々の人生を思い返すことなのではあるまいか。若気の至りの如くにさっさと左翼の運動から離れ、今は功成り名を遂げた佐藤・池上のお二人は、左翼の敗北史を高みに立って眺め回し饒舌に語り尽くしているのであるが、審問官のようなその姿勢、その態度、その立場が、私にはあまりにも空しくそしてまた無様に映らざるをえない。どうしても、お二人に人間としての敬意を払うことができないのである。

 それに対して大塚さんはどうだろうか。彼はあえて高みに立とうともしていないし、審問官になろうともしていない。言い回しもなかなか慎重である。何故そうなるのか。彼は左翼とりわけ共産党の理論史や運動史や政策史にとどまらずに、名も無き人々の人生までをも見据えようとしているからである。底流に流れているのは、左翼に関わりを持った人々に対する敬意と愛情である。そうした地平にまで到達しなければ、左翼の本当の姿もそしてまた現在抱えている難題も鮮明には見えてこないし、共産党に対する厳しい批判も生きてこないのではあるまいか。大塚さんが挑んでいるのは、一見『日本左翼史』のように見えながら、そこを超えて現代の日本社会における共産党のありようを描くことであり、さらにはもう一つの日本社会のありようを描くことである。サブタイトルが「私の日本共産党論」となっていることの意味は、そうしたところにあるのではなかろうか。

 大塚さんの著作が、冒頭で紹介した数多くの関連書籍とはひと味もふた味も違っているのはそのためであり、例え荒削りではあろうとも、そこにも(あるいは、そこにこそ)真実はあるようにも思われる。私が本書に惹かれそしてまた周りの人々に勧めたくなるのは、そのためである。大塚さんの本を読みながら、私自身自分の人生を辿り直しているような気分に陥ったが、それも当然のことであったろう。大塚さんは、自分自身の人生を振り返りながらも、いくつかの新鮮かつ大胆な問題提起をおこなっている。ここでそのことにいちいち触れることはしないが、共産党にとっては耳の痛い異論や意見ではあろう。

 創立100年を迎えた古木も、この間「自己改革」を遂げてきており、昔のままで存在しているわけではない。古色蒼然としたままでは倒れる他ないからである。より良き日本社会の実現のためには、絶えざる「自己改革」が不可欠なのであり、それを促してきたのは内外からの異論や意見だったのではあるまいか。矛盾した言い方に聞こえるかもしれないが、変わらないでいるためにも変わらなければならないのである。異論や意見に耳をそばだてることによってこそ、活路は開かれるに違いなかろう。松竹さんもそうだったが、大塚さんも本書を通して「自己改革」のためのきわめて重要な一石を投じている。

 安倍政権は個別的自衛権を超えて集団的自衛権の行使が可能になるところにまで踏み込んだが、岸田政権は敵基地攻撃能力を保有することによって、専守防衛すらも投げ捨て大軍拡に向かおうとしている。日本はきわめて重大な岐路に立っていると言わざるをえまい。だからこその一石である。それを規約違反や結社の自由を盾に切り捨ててしまってはあまりにも大きな損失なのではなかろうか。今回大塚さんが投じた一石が実りあるものとなることを心から願うとともに、今の日本の現状を憂え危機感を抱く人々に、是非とも一読を勧めたい。それだけの価値のある一書である。

 桜は散ったが今は躑躅(つつじ)が満開である。躑躅が終われば紫陽花の季節に転じていくことであろう。美しき花々が絶えることがないように、たとえ無名であろうとも、志が気高く心映えが美しくあろうとする人々がこの世の中から絶えることはあるまい。深夜一人机に向かいながら、そんなことをぼんやりと考えた。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/04/25

花咲き乱れて(1)

 

 

花咲き乱れて(2)

 

花咲き乱れて(3)