ある映画を観て(一)

 長らく続いた、そしてまた少しばかり難しい文章となった「贈られた本を読みながら」も、前回で書き終えたので、今度はのんびりと近隣散策の話でも書こうかと思っていた。2月下旬には小僧二人を伴って観梅かたがた大倉山や白楽に出掛けてきたし、また月末には年金者組合のウオーキングで大和市の「泉の森公園」に出向いたので、「観梅二題」などというタイトルにして気楽に書いてみるのもいいのではないか、そんな気分であった。ブログの醍醐味は、上記のようなことをぼんやりと考えているところにあるような気がする。 

 勝手に自分なりの愉しみを夢想していたところ、突然事態は新たな展開となった。先日地元の社会運動で知り合いとなったMさんに会ったところ、「高橋さんは『ひまわり』という映画をご覧になりましたか」と尋ねられた。ご覧になるなどと言うようなものではないが(笑)、「2回観ましたよ。いい映画でしたね」と答えた。

 最初は昔々渋谷の映画館でデートを兼ねて、2度目は今年に入ってからアマゾンプライムビデオで観た。いずれも、たまたま家人に勧められて観たようなものである。2度目は自宅でゆっくりと鑑賞したので、新しい発見がたくさんあった。若い頃には随分と多くの大事なシーンを見逃していたものである。その詳細については、次回で触れるつもりである。

 先のMさんは、「ウクライナの国花はひまわりだそうですね。この時期ですからウクライナが舞台となっている『ひまわり』を『名画散策』の番外編で取り上げていただけませんか」と言った。ロシアのウクライナ侵略と核関連施設に対する攻撃が、世界を震撼させたことは言うまでもない。こうした文字通りの歴史的な暴挙に抗議して、大規模な反戦運動が世界の各地で広がっている。こうした時期だからこそ、映画『ひまわり』を取り上げて欲しい、映画好きの彼にはそんな思いがあったのであろう。

 いま私は地元の共産党の後援会のニュースに、「名画散策」と題して既に使い古しの簡単な映画評を連載しているのだが、そのニュースの編集を担当しているのがこのMさんである。私などよりもずっと政治の世界の動向に鋭敏であり、本物の映画愛好者なのであろう。ごくたまに言葉を交わすだけであるが、私は何時も彼に敬意を払っている。

 依頼を受けた当の私は、既に決めた順番で映画評を載せるつもりでいたので、さらに用事を増やしかねない彼の提案に直ぐには同意することができなかった。しかし、落ち着いて考えているうちの、彼の提案が如何に大事かが分かったし、ブログに取り上げたうえでそれを「名画散策」に活用すれば、それほどの負担にはならないような気もしてきた。

 Mさんとの遣り取りを切っ掛けに、書くべき、そしてまた書きたくなる、さらには書けそうな材料が見付かったというわけである。何処にブログの材料が転がっているのか分からないものである(笑)。いまさらではあるが、人と人との繋がりは大事だということか。私は日頃浮世離れした暮らしを続けているので、情報通や事情通の人間ではない。だから、ひまわりが話題となっていることなどまったく知らないでいた。Mさんの話に刺激されてネットの世界を覗いてみたら、以下のようなことがあったらしい。

 ウクライナ南部ヘルソン州ヘニチェスクで2月24日、武装したロシア兵の前に地元の女性が立ちはだかり、「あなた誰、何しに来たの」と詰問する様子が撮影された。兵士は「話をしても無意味だ。事態をこれ以上悪くしたくない」と繰り返すのであるが、女性はロシア兵に向かって「占領者ね、ファシスト」と叫び、ひまわりの種をポケットに入れて持っていくように促すのである。そして、「あなたたちが死ねばそこからひまわりが生えるから」とも述べていた。

 その遣り取りがBBCのニュース映像で世界に流れることによって、ウクライナの国花であるひまわりが、抵抗のシンボルになったというのである。そして映画『ひまわり』である。実はひまわりはロシアの国花でもあるので、この花にはもう少し別の意味が付与されているようにも思われる。映画を観るとそのことがよく分かる。

 戦争によって翻弄された男女の悲恋の物語のようにも見えるのだが、その底に流れているのは明確な反戦の意思である。この映画は1970年に公開された作品で、監督はイタリア・ネオリアリズモ(新しい現実主義)の巨匠であり、『自転車泥棒』などでも知られるヴィットリオ・デ・シーカ。

 ネットの記事を下敷きにさせてもらって、この映画のあらすじをごく簡単に紹介しておく。第二次大戦中のイタリア。ジョバンナ(ソフィア・ローレン)とアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)はナポリの海岸で出会い恋に落ちる。アントニオはアフリカ戦線行きを控えた兵士だったため、二人は出征を遅らせようとして早々と結婚することになる。

 結婚休暇はあっという間に過ぎていき、アントニオを戦地へ向かわせたくないジョバンナは、彼を精神病院に入院させるのであるが、それが偽りであったことが発覚したために、過酷なロシア戦線に送られることになる。これがストーリーの導入部であるが、精力を付けようと卵20個で作った巨大なオムレツを食べる二人の姿が何とも微笑ましい。

 やがて戦争が終わり、ジョバンナは駅でひたすらアントニオの帰還を待つのだが、彼はいつまで経っても現れない。そんなある日、ロシア戦線でアントニオと一緒だったという一人の兵士に出会う。その兵士は、最後にアントニオを見たのは彼が雪の中に倒れている姿で、既に死んでいるのではないかと告げる。

 その回想シーンも壮絶である。雪原での逃避行のなかで、寒さと疲労と飢えのために歩けなくなった兵士が一人また一人と倒れ、黒い点となって広がっていくのである。諦めきれないジョバンナは、意を決して戦場となったウクライナに一人で向かう。イタリアの一途で逞しい女を演ずるソフィア・ローレンが何とも素晴らしい。

 ジョバンナは写真を手にアントニオの消息を尋ねて回るが、手がかりは得られない。彼の生存を信じているジョバンナは、探し続けているうちにある時イタリア人が住んでいる家があることを教えられる。訪ねてみるとそこにはマーシャ(リュドミラ・サベーリエワ)というロシア人の女性がいた。ジョバンナはアントニオの写真を見せ、彼を探していることを告げると、マーシャは雪の中に倒れていたアントニオを助けたが、その時彼は記憶を失っており、そのまま一緒に暮らすようになって娘も生まれたことを告げるのである。

 マーシャに連れられたジョバンナは、仕事から帰ってきたアントニオが汽車から降りてくるの見て、事情をすべて察することになる。彼女は彼に声をかけることもできずに、汽車に乗り込んで二人から逃げるように離れるのである。車内で嗚咽するジョバンナの姿が何とも痛々しい。イタリアに戻ったジョバンナは失意の日々を過ごしていたが、ある日、アントニオからイタリアに来ているとの連絡を受ける。彼もまた、駅でジョバンナを目にしてから苦悩の日々を送っていたのである。その様子を見て、マーシャがイタリア行きを勧めたのだった。

 迷った末に再会することになった二人だったが、ジョバンナもまた新しい夫との間にアントニオと名付けられた子供をもうけていた。子供の泣き声を聞いてもう元には戻れないことを悟ったアントニオは、ソ連に戻ることを決心するのである。このあたりは男と女の哀切きわまるシーンが続き、観る者の胸が締め付けられることになる。

 そしてジョバンナは、かつて彼が出征する際に見送ったミラノ駅の同じホームで、無言のまま手を振ることもできずに彼を見送るのである。呆然と立ち尽くした彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちるのだった。ヘンリー・マンシーニ作曲のテーマ曲が流れる、忘れ難いラストシーンである。

I Girasoli (ひまわり/Sunflower) - Love theme from ‘Sunflower’ – Bing video