「裸木」第3号から(続)

 礼状は不要だと書いて裸木の第3号を贈呈したのだが、何人かの方からはお礼のメールやハガキ、手紙、電話をいただいた。何とも律儀な方々だと言う他はなく、贈呈したこちらの方が恐縮するばかりである。とても有り難いことなので、この場を借りて感謝申し上げたい。

 ところで、私は第3号の『カンナの咲く夏に』の63~64ページで、渡邉白泉(わたなべ はくせん)という俳人について触れた。2015年の9月19日に安全保障関連法案が国会で強行採決されたが、この年の7月12日の『朝日新聞』に、法案に反対する一面広告が掲載され、そこに渡邉白泉の句である「戦争が廊下の奥に立ってゐた」が紹介されていた。私は彼について何も知らなかったので、興味を抱いて少しばかり調べ、そこで知ったことをある文章の中で使ってみたのである。

 そうしたら、お礼のメールの中でお二人の方がこの渡邉白泉に触れておられたので、かなり驚いた。経済史の研究者である知り合いのIさんからもらったメールには、「法政の教授で先年亡くなった伊牟田敏充さんは、谷山花猿という俳号で、俳句結社を主宰しており、プロレタリア俳句について『評論集 闘う俳句』(現代俳句協会)という著書もだされていました。そこでは、橋本夢道や栗林一石路を主として論じているのですが、生前に彼からプロレタリア俳句について教えて貰い、西東三鬼や白泉についてもその時知りました」とあった。

 Iさんは名の知られた研究者であるが、そこだけに止まらずに、随分と興味や関心の幅が広い人物である。彼とは昔からの知り合いではあるが、メールを遣り取りすような間柄になったのはごく最近のことで、「敬徳書院」のホームページを立ち上げてからである。彼から届くメールには、いつもあれこれと教えてもらうことが多い。知的な刺激に溢れた話が盛り込まれている所為であろう。言葉に甘えて冊子を贈ると、必ず直ぐに目を通してくれ、かなり的確な感想を書いてきてくれる。それにしても、白泉がらみでこんな話を聞くとはよもや思わなかった(笑)。

 もう一人は、NPOかながわ総研の事務局長を務めておられる石井洋二さんである。彼とは、しばらく前に何人かと一緒に一度飲んだだけの間柄なのだが、その時から妙に気になる人だった(笑)。研究所のメインの課題である政治や経済や社会運動の分析から少し外れた領域にも、関心を抱いている人のように見えたからであろう。彼からのメールには、次のような内容が記されていた。

 秋の夜長を好きな音楽でも聴きながら、グラス片手にじっくりと味わいながら読んでみたいと思います。渡邉白泉の句、久しぶりに見ました。種田山頭火の「銃後」にも彼の知られざる姿を見るような句がありますね。
  足は手は支那に残して再び日本へ
  いさましくもかなしくも白い函
  その一片はふるさとの土となる秋
  じっと瞳が瞳に喰い入る瞳
  馬も召されておぢいさんおばあさん
 「どうしようもない私が歩いている」などとドロップアウトした酔っぱらいが詠んだ句とは思えない迫力を感じます。
  この国の崩れていくか蟻地獄  洋二

 彼のメールにはいつも末尾に自作の句が添えられているのだが、私は毎回その出来映えに感心させられている。今回の「この国の崩れていくか蟻地獄」も、いかにも危うい現状を的確にイメージできるいい句だと思った。それはともかく、彼が触れていた山頭火の「銃後」については、これまた私は何も知らなかったので、返信のメールで次のように書いておいた。

 山頭火の「銃後」初めて知りました。なかなかの句ですね。「どうしようもない私が歩いてゐる」は小生の好きな句ですが(「この道しかない春の雪ふる」なども)、「どうしようもない私」という自己認識、自己省察が、「銃後」を冷静に見つめることを可能にしているのかもしれませんね。勝手な思い込みでしょうが。

 山頭火の句集である『草木塔』(1940年)には、「銃後」と題した章があり、そこには全25句が収録されている。この句集は、インターネット上の「青空文庫」で誰でも自由に読むことが出来る。それほど長いものではないので、せっかくだからすべて紹介しておくことにしよう。

     銃 後

  天われを殺さずして詩を作らしむ
  われ生きて詩を作らむ
  われみづからのまことなる詩を

    街頭所見
  日ざかりの千人針の一針づつ
  月のあかるさはどこを爆撃してゐることか
  秋もいよいよふかうなる日の丸へんぽん
  ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
  しぐれて雲のちぎれゆく支那をおもふ
    戦死者の家
  ひつそりとして八ツ手花咲く
    遺骨を迎ふ
  しぐれつつしづかにも六百五十柱
  もくもくとしてしぐるる白い函をまへに
  山裾あたたかなここにうづめます
  凩の日の丸二つ二人も出してゐる
  冬ぼたんほつと勇ましいたよりがあつた
  雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ
  勝たねばならない大地いつせいに芽吹かうとする
    遺骨を迎へて
  いさましくもかなしくも白い函
  街はおまつりお骨となつて帰られたか
    遺骨を抱いて帰郷する父親
  ぽろぽろしたたる汗がましろな函に
  お骨声なく水のうへをゆく
  その一片はふるさとの土となる秋
  みんな出て征く山の青さのいよいよ青く
  馬も召されておぢいさんおばあさん
    ほまれの家
  音は並んで日の丸はたたく
    歓送
  これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗
  ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳
  案山子もがつちり日の丸ふつてゐる
    戦傷兵士
  足は手は支那に残してふたたび日本に

 石井さんがメールで紹介してくれた5句は、どれも田舎における銃後の世界の哀しみを詠み込んでおり、とりわけ「いさましくもかなしくも白い函」や「その一片はふるさとの土となる秋」などはいい句だと思ったが、「銃後」を全体として鑑賞してみると、山頭火が戦争に批判的な眼を持っていたかどうかは疑わしい。

 というのは、「勝たねばならない大地いつせいに芽吹かうとする」とか、「音は並んで日の丸はたたく」とか、「案山子(かかし)もがつちり日の丸ふつてゐる」といった句も同居しているからである。放浪の果ての孤独や寂寥は、銃後の光景を静かに見つめさせ、そこに興奮や熱狂を感じさせるものは比較的少ないので、私自身も共感するところ大であるが、しかし共感はそこまでかもしれない。

 そんなことを考えて、山頭火と戦争に関してもっと知りたいと思い、ネットで検索していたら、「ジミー・ペイジと種田山頭火・戦争編」と題する次のようなエッセーにぶつかった。書いている人物は、1975年生まれの稲垣慎也というシンガーソングライターで、趣味は「川崎長太郎や鴨長明、種田山頭火といった気になる文士を研究すること」とある。何とも興味深い趣味ではないか。私はこんな趣味を持つ人が大好きである(笑)。彼のエッセーの一部を紹介してみよう。

 山頭火は太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)に他界しているので、その後の日本の悲惨な終戦を全く知ることがなかった。日々の生活は自由律俳句を愛する人々の援助や行乞による布施によって、辛うじて賄われていたが、晩年の食生活は戦時体制の影響により、次第に苦しいものとなっていった。同じように周囲の援助によりなんとか生き延びていた辻潤は1944年(昭和19年)に餓死しているので、山頭火はよい頃に亡くなったとも言えるのではないだろうか。

 山頭火は生活力のない自身を深く恥じており、社会の中で無用の存在であることを充分に自覚していた。米は海外のものが混ざった混合米であり、自由に購入できない切符制となれば、山頭火の分け前はますます乏しいものとなる。この時代に非戦反戦という選択肢は極めて困難だったようで、山頭火の日記には次のような記述がある。

 「米内首相退職、組閣の大命は近衛公へ下つた、―日本は東洋は世界は急速度に転換しつゝある、旧制度は刻々に崩壊し新秩序が刻々成立しつゝある、―私達は切に切に時局の安定を希求する、それを実現するために強力政治を熱望する、―現状維持派よ、退却せよ、新人登場せよ、過渡的生活を止揚して新生活を建設しよう。」

 新生活とはなにか。「贅沢は敵だ」というスローガンに代表される緊縮された生活とそれに適応した精神のことだろう。山頭火はそれを違和感なく受け入れた。俳人としてというよりも行乞僧として。曹洞宗開祖道元の言葉に「良薬を事とすることは形枯を療ぜんが為なり」とあり、つまり食事は薬のように体を維持するためのものだから、必要以上の贅沢な食事などはよくないと説いているのであって、それは戦時体制によく馴染んだのではないだろうか。

 以上が稲垣さんの書かれたエッセーの一部である。山頭火の日記も先の「青空文庫」で読むことができるので、稲垣さんが引用している文章についても、やはりきちんと原文に当たっておくべきであろうと思い、探してみることにした。先の一文は1940年7月18日に記されたもので、「松山日記」にあった。

 社会においてはまったくの「無用の存在」であるという山頭火の自覚は、一方では世の中を冷静に見つめることも可能にするであろう。しかしながら他方では、「米がない」(この科白は日記に頻出する)が故に、他人に頼ったり行乞して報謝を受けざるをえず、そうなれば「感謝」の気持ちが自然に生まれることになる。その結果として、他者へのそしてまた社会への依存感情が生み出されていったのではなかろうか。こうした感情は、戦時体制に対して批判的な眼を持つことを難しくしたに違いない。そんなことを考えさせるような大変興味深い指摘であった。

 折角だと思って、ついでに日記をあれこれ読み漁っていたら、1933年1月19日の日記(其中(ごちゅう)日記(二))に次のような文章が見付かった。「昨日今日の新聞は、第二共産党検挙記事で賑やかな事此上なし、共産党そのものは私の批判以外の事件だが、彼等党人の熱意には動かされざるを得ない、人と生れて、現代に生きてゆくには、あの熱意がなければならない、私は自から省みて恥づかしく、そして羨ましく思つた」とある。山頭火の科白とはとても思えなかったのであるが、これもまた彼の一面なのであろう。「どうしようもない私」は、心の奥底では「熱意」のある生き方を願っていたのである。

 この他には、知り合いの赤堀正成さんからのメールにも目がとまった。私は『カンナの咲く夏に』のはしがきで、詩人茨木のり子の「六月」という作品から、4行からなる最後の一連のみを引いておいたのだが、赤堀さんは最近自分が書いた文章に、この「六月」を引用したばかりだったと書いてきた。彼も驚いたらしいが、私も同じように驚いた(笑)。偶然の一致とはいえ、そんなことがあるものなのか。感性がどこか似ている証拠であろう。年が離れているのに、時々彼と飲みながらお喋りしたくなる。馬が合うとはこのことか。折角なので、この「六月」も全文紹介しておこう。

     六 月
  
  どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
  鍬を立てかけ 籠を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

  どこかに美しい街はないか
  食べられる実をつけた街路樹が
  どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
  若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

  どこかに美しい人と人との力はないか
  同じ時代をともに生きる
  したしさとおかしさとそうして怒りが
  鋭い力となって たちあらわれる

 ここには、詩人が求め続けた新しい世界のイメージが、瑞々しくも弛みのない勁(つよ)い言葉で描き出されている。私もそうだが、赤堀さんも、「同じ時代をともに生きる」人として、きっとこのような世界を今でも夢見るように追い求めているのであろう。恐らくは「見果てぬ夢」に終わるはずだが、だからこそ、この詩は何時までも色褪せることなく、美しいままに輝やき続けているのかもしれない。