「現代労働問題研究会」の同窓会に顔を出して

 昨年の11月に、久しぶりに開かれた「現代労働問題研究会」の同窓会に顔を出してきた。場所は神田にある「新世界菜館」という名の中華料理店である。このところ同窓会はいつもここで開かれてきたので、参加者全員にとってなじみの場所である。コロナの感染もあって同窓会はこの3年ほど開催されておらず、それに加えて研究会の主催者であるHさんの身にも不幸な事態が生じたために、開催は延び延びとなってきた。ここでその詳細に触れることは差し控えるが、Hさんにとっては同窓会どころではなかったのであろう。

 ところで、同窓会の母体となった「現代労働問題研究会」であるが、この研究会には実に長い歴史がある。Hさんが整理した記録によると、結成されたのが1969年であり解散したのが1997年だということであるから、足掛け30年近い歴史を持っている。こんなにも長く続いた研究会はきわめて珍しいのではないか。そして解散後大分立ってから、ごくたまに同窓会と称して集まりが持たれるようになり、簡単な研究発表の後に懇親会が開かれてきた。解散後に同窓会がもたれるようになった研究会など、私は聞いたことがない。こちらもまたきわめて珍しいに違いなかろう。

 そうなった理由は二つある。一つは、研究会の主催者であったHさんが、それだけ「現代労働問題研究会」を大事に思い愛着を持ち続けてこられたということである。研究会に関する詳細な記録を論文に纏めておられるのがその証左であろう。そしてもう一つは、メンバー全員が、この研究会に曰く言い難い親近感を抱き続けてきたことである。身構えたり臆することなく、自由にものが言える研究者仲間ばかりだったからである。私に関してもう少し付け加えておくならば、この研究会に参加させてもらうことによって、「一人前」の研究者に育つことができたという思いも強い。大学卒業後すぐに労働科学研究所に就職した私にとって、「現代労働問題研究会」は大学院のような存在だったのかもしれない。そんなわけで、主催者のHさんには何となく恩義のようなものを感じ続けてきた。

 同窓会は、最初は別な場所で開かれたこともあったような気がするが、今となっては記憶が定かではない。いずれにせよ、ある時からいつも「新世界菜館」となった。ここが10人程入れる個室を予約でき、しかも円卓で飲み食いできたので、この場所もまた皆にとって居心地が良かったからであろう。参加者全員の顔が見える場所で、美味しい料理を食べ、誰に遠慮することもなく雑談を交わすことができるというのは、実に愉しいことである。私は、定年退職を機に研究者を廃業したので、同窓会の前半部分の研究会は遠慮することにして、懇親会のみ参加してきた。「5時から男」のような参加の仕方であったから、これでいいのかと思わないでもなかったが、第二の人生のスタートを切ったばかりだったたので、思い通りに振る舞わせてもらってきた。

 久方ぶりに開かれた今回の同窓会は懇親会だけの開催となり、ほぼフルメンバーが揃って盛況だった。Yさんなどは病身を押して遠く札幌から駆けつけてくれた。東京についでの用事があったんだろうなどと勝手に思っていたが、後で電話で聞いたところ、懇親会に参加するためだけにわざわざ上京し、ホテルに一泊して翌日帰宅したとのことだった。驚いた私に、Yさんは「これが最後かもしれないと思ったので」などと語っていた。懇親会の場でそんな思いを直接口にする人はいなかったものの、もしかしたら参加者全員に共通する気持ちだったのかもしれない。

 全員が気心の知れた知り合いなので、近況報告の後和気藹々と談笑した。Hさんに司会を頼まれた私は、場を盛り上げるためにいつものように道化役に徹してみた(笑)。Hさんが大変な思いをされたように、Kさんも思いも掛けぬ事態に見舞われていたし、闘病された方も何人かおられた。こちらだって前立腺ガンの治療で四苦八苦してきたのだから、同じようなものである。年を取ってくれば、そうした人間が多くなって当然であろう。駒澤大学にいたMさんは、2年ほど前に既に亡くなっている。彼は昔から酒をよく飲んでいたから、どこかに鬱屈した思いがあったのかもしれない。参加者の話を聞きながら、私は「現代労働問題研究会」に入りたての20代の頃を思い出していた。

 Hさんの纏めた記録によれば、「現代労働問題研究会」の発足の頃は次のように描かれている。1969年の春に、AさんからHさんに研究会立ち上げの提案があったのだという。「“東大紛争”を経て、いま院生を始めとした若手研究者たちによる“自主ゼミ” の必要性を痛感している。とくに労働問題を研究したいという院生が数人いるが、一緒に研究会を立ち上げないか」といった趣旨のようであった。 Hさんはその提案に即座に賛同し、こうして実質的には二人が共同で主催する研究会が結成された。 結成後間もなく、研究会の名称を「現代労働問題研究会」 (略称・現労研) とすることになったとのことである。  

 現労研の参加メンバーは、当初東大の院生が主体であったようだが、しばらくして研究会メンバーが減り 一時は解散寸前にまで至ったようだ。そこで、 メンバーを広く他大学にも求め、 労働問題研究を志す若手研究者を積極的に誘ったこともあって、研究会の参加 メンバーも常時10名を超えるようになったのだという。私が、何時誰に誘われて「現代労働問題研究会」に参加するようになったのか、今となっては判然としない。覚えているのは、ある院生の下宿で研究会があり、大河内理論に関して余りにも生意気で生硬な意見を述べて、Hさんからからかわれたことである。その後、彼から依頼された原稿をやっつけ仕事のように書いて、叱られたこともある。恥ずかしい思い出だけは何時までも残るようだ。

 しかしながら、居住まいを正して真剣に研究に向き合わなければ、世の中に立つことはできないという思いだけはあった。だから月2回の研究会には毎回出席して真面目に勉強した。家人の記憶によると、実家の福島に帰省中に、研究会があるからと上京しその日の夜に戻ったこともあったらしい。当の私は、今となっては何も覚えてはいないのだが…。とにかく、そのぐらい真面目だったのである。文献の読み方も、研究の進め方も、レジュメの作り方も、論文の書き方もすべて「現代労働問題研究会」で学んだと言ってもいいぐらいである。当時のことを思い出すと、懐かしさで胸がいっぱいになる。

 研究会の始まりは先のような具合だったが、では終わりはどうだったのだろうか。Hさんの纏めた記録には次のように描かれている。現労研は、「会員が研究歴を重ねるとともに多忙となり、なかなか集まりにくくなった。それでも月1回の定例研究会を維持し、文献研究や会員の研究発表の場としての意義を有していた。もちろん、学会や重要な研究会発表にあたり、予行演習的に現労研で発表し、会員の意見を聞くことも行われた。だが、それにしても、ますます多忙になる中で、会員の帰属意識も薄れ、 現労研の存在意義自体も問われ始めた」。その結果1997年の夏には自然消滅した。皆が「一人前」の研究者に育ったためでもあろう。

 当日の同窓会に参加したメンバーは皆思ったことだろうが、この場に必ずいなければならない人が一人欠席していた。Hさんとともに「現代労働問題研究会」を立ち上げたAさんである。Hさんの当日の話によれば、彼は体調を崩して川口の高齢者介護施設に入所しているとのことだった。アルコールが入るとすぐに陽気になり、歌や駄洒落が飛び出し、武勇伝にも事欠かない程の元気者だった彼が、そんな状況にあると聞いて驚いた。同窓会の後、Hさんの発案により有志で彼を見舞いに行くことになった。

 年が明けたつい先日、東浦和にある会席料理の店でその集まりがあり、見舞いに出掛けた5人と、息子さんと共に来られたAさんの7人が顔を揃えた。Aさんはみんなと会うことができて嬉しそうだった。料理は結構な品数だったが、Aさんは全部食べしかも時折冗談も口にしていた。もう少し大変な状況なのかもしれないと想像していたので、こちらもついつい調子に乗って、Aさんの過去の笑える話をしてからかった。道化でやっているつもりだったのに、いつの間にか我を忘れた(笑)。帰りの電車で見るともなしに窓を眺めていたら、予報通りに雨が降り出した。しかしその雨もしばらくして上がり、自宅近くの市が尾駅に着いた頃には綺麗な夕焼け空が一面に広がっていた。

 

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