「年金者文化展」に顔を出して(続)

 前回の投稿に続いて、「年金者文化展」の話を続ける。出掛ける前に、たとえ一瞬ではあれ、どうせそれほどのものではないだろうなどと思い上がっていたことが恥ずかしくなったと書いたが、そんな思いは早川和子さんとお会いしてさらに強くなった。彼女は展示室の真ん中に置かれたテーブルに、自分の作品を並べて販売していた。どんなものが並べられているんだろうと興味が沸き、冷やかし半分でのぞいてみた。

 そうしたら早川さんは、並べられたものについて一生懸命熱心に説明し始めた。興味を持って眺めるような人間が現れたことが嬉しかったのかもしれないし、あるいはもともと話し好きだということもあったのかもしれない。さらには、日頃話し相手に恵まれなくて、会話に飢えておられたのかもしれない。それらがすべて混じり合ったような話し振りであった。

 彼女がまず最初に紹介してくれたのは、『俳句まんだら』と題した英語対訳付きの句集だった。しかもその句集には、一句について2ページ分の大きな絵が描かれていた。俳句は小川桜子という80歳を過ぎた俳人の作品であり、英訳と絵が早川さんの担当である。英訳することによって俳句を世界に広めようという試みなのかもしれないが(早川さんは高校で英語の教師を長年勤められたとのことである)、私はそちらよりも俳句と絵の組み合わせの方に興味を持った。

 彼女が言うには、世にあるほとんどの句集は、詠まれた俳句がどのページにもずらりと並べられているだけで、作者は別であろうが読者の方は面白く読むことがなかなか困難である。そこで、句からイメージされる絵を描いてみたとのこと。確かにそうである。著名な俳人の句集であれば、たまに一句ごとに解説が付くこともあるが、俳句の愛好者が作るものであれば、普通は俳句以外に何もない。そのため、読んでいて途中で飽きてしまうのである。

 そこで、『俳句まんだら』に興味を持って手にしてみた。早川さんの絵はなかなかいいのだが、小川さんの俳句の方はどうなんだろうかと買う前に少し気になり、二、三句読んでみた。そうしたらとても素晴らしい句だったので、直ぐに購入することにした。全部で20ページ(見開きで1ページとされているので、通常の本であれば40ページ)の絵本のような句集なので、収録されている句は僅かに20句。せっかくなので、その句をすべて紹介しておく。

 めん鶏がひよこ引き連れ青き踏む
 黄泉(よみ)おぼろお変わりなくと糸電話
 山上のぶらんこ子らは風になる
 花万朶(ばんだ)牛のにほひの農学部
 北斎の波のうねりや雪柳
 手から手へ父よりもらふ蛍の灯
 夏蝶も客のひとりや山のバス
 原っぱは少年の空やんま来る
 ひまわりや力の限り泣く赤ん坊
 夏雲を背負ひてきたる姥の籠
 マッターホルンいざよう月をしたがへて
 自転車を寝かせて追ひぬ赤とんぼ
 秋ざくら子等が手を振るローカル線
 とやかくをしばらく忘れ雁の棹
 山姥のひとりぼっちに小鳥来る
 やぶこうじ寂しき山を喜ばす
 清貧の極みとなりし枯木立
 正月の猫の貫禄ひげを張る
 ふくろふに内緒のはなし盗まるる
 一村を翼におさめ鷹舞えり

 どの句にも優しさや懐かしさが溢れており、なおかつ悠然かつ端然としていていい句だなあと思うのだが、こうして並べただけではその良さがうまく伝わらないもどかしさがある。しかしながら、早川さんの描いた絵の中に句が添えられると、句のイメージが鮮明となりぐっと引き立ってくるのである。たとえば、「夏蝶も客のひとりや山のバス」の句に添えられた絵は、以下のようなものである。

 現在早川さんは絵本作家として知られているようであり、テーブルには絵本も沢山並べられていた。その素朴な絵も気に入ったので、三部作の一冊である『木になりたかった話』を購入した。小僧や小娘に読ませてもいいかと思ったからである。絵本にも英訳が付いている。今時の小学生は英語まで学んでいるので、連中に読ませるにはちょうどいいのかもしれない。挟まっていたチラシには、「この不況の中、本が売れる自信無し。それでも作りたい本がある…。支えて下さるのは優しい皆様。ありがとう。」とあった。彼女は根っからの表現者なのであろう。そんなことを窺わせる一文であった。

 『俳句まんだら』も『木になりたかった話』も、きちんと製本された冊子や本だったが、それらに挟まれてホチキス止めの小さな手作りの詩集も
たくさん置かれていた。一冊100円だという。昔々新宿駅の構内や溝の口駅の通路で、路上詩人が自分の詩集を売っているのを見掛けたことがあるが、それ以来である。「ロッチ」という名のお笑いグループがいる。彼らの人気のネタとして「路上詩人」をパロディー化したものがあるのだが、われわれの多くは、そうした詩人たちをどこか「変人」として見ていることが多い。

 早川さんも、世間一般の目からすれば「変人」の一人なのであろうが、いったいどんな「変人」なのかが気になった。私はどこか「浮世離れ」した人間ではあるが、おおよそのところは常識人の範疇に収まっている。そんな人間なのだが、だからといって「変人」を無視したり軽侮するつもりなど毛頭ない。また逆に変に崇めるつもりもない。先に、彼女は根っからの表現者なのであろうと書いたが、そう思ったのは、英訳付きのこの小さな手作りの詩集を見たからである。詩集にも、彼女が描いた柔らかな挿絵がたくさんあった。

 絵本に描かれた伸びやかな絵も、素朴で味わいのある文章ももちろんいいのだが、彼女にはそれだけでは表現しきれない内奥の思いが、きっと渦巻いているのであろう。長い人生を生き抜いてきた一人の女性の悩みや苦しみ、喜びや哀しみ、そうしたものが、生(なま)の叫びとなって表現されているようにも思われた。生来純粋で無垢な方なのか、あるいはまた純粋で無垢なままにありたいと願っている方なのか、その辺りはよく分からないが、彼女の書くものが鋭い叫びであることだけはよくわかる。

 こうした、言葉が十分に吟味されているわけでもない作品が、果たして詩と呼べるものなのかどうか、私には判断がつかない。しかし考えてみれば、私のような人間が判断をつける必要などそもそもないのだろう。彼女は溢れる思いを手作りの詩集にたたきつけているだけだからである。生硬ではあっても真剣な叫びに、静かに耳をそばだててみる、私にできることはそれだけである。ここでは「私を見て!」と題した一篇だけ紹介しておく。

 いらない
 あなたのほほえみも
 あなたのことばも

 ほしくない
 あなたのなぐさめも
 あなたのやさしさも

 どうか
 私を見て
 そうしたら
 私は一人で生きていける

 いらない
 あなたの手も
 あなたの励ましも

 ほしくない
 あなたの助言も
 あなたの助けも

 どうか
 私を見て
 そうしたら
 私は一人で生きていける