「就労の困難」と「困難な就労」(四)

第3章 就労支援から「困難な就労」の克服へ

 第1節 就労支援は何故必要なのか-「社会的承認」と就労-

 ところで、厚生労働省のニート調査の結果によれば、俗にニートと呼ばれた若者たちも、アルバイトが多く離転職を繰り返してはいるものの、8割近くは就労を経験していた。聴き取り調査などからは、「『人間関係が苦手』、『手先が不器用』、『計算や字を書くことが苦手』などの事情が、職場の人間関係のトラブルといったネガティブな体験につながり、苦手意識がさらに増幅されて就労が困難な状態に追い込まれていく様子がうかがわれる」と述べられていた。

 人間関係上のつまずきという点では、学校段階でのいじめの影響も無視できないという指摘もある。こうした現実を見るならば、「職場適応能力」が不足していると本人を非難するだけでは問題は解決しないのではあるまいか。若者が自立するためには、ヒューマン・ネットワークが必要であり、しっかりとした帰属意識や自尊感情、社会経験の蓄積が生きる力となるのであろう。そのためにも、就労支援が必要となっているのである。

 ひきこもり問題の第一人者で精神分析医の齋藤は、次のようなことを語っている。彼によれば、「思春期以降、親密な人間関係を一度ももたずに30歳代に至ってしまうような人があまりにも多い」ので、「一生に一度でいいから、親しい人間関係を経験してもらいたい」と願っているのだと言う。彼の場合は、究極の目標に置いているのは就労ではなく「自発性を呼び戻すこと」なのであるが、それは「人の意欲や欲望は社会性がもたらすもの」であり、「いったん人間関係から外れてしまうと、まともな意欲も欲望ももてなくなる」と言う。

 そのうえで、「しかし不思議なことに、親しい人間関係を持った人は、ほぼ例外なく就労を望むようになる」と齋藤は述べるのである。では、この「不思議」はいったいどこから生まれてくるのであろうか。推察するに、「親しい人間関係」を通じて「社会性」をもつことになった人は、生きることに「自発的」になり、その結果、自立して生きるためにあるいはまた仕事による「社会的承認」を求めて、仕事を求めることになるからであろうか。

 その齋藤は、「就労はなによりも生きる糧を得るための活動ですが、それだけではありません。私は仕事の目的として『食べていくため』のほかに『他者から承認されるため』が重要であると考えて」いると言う。つまり、「食べていく」ことができるならば「生存の不安」が解消されるように、「他者から承認される」ならば「実存の不安」が解消されると言うのである。就労は、ここに言う二つの不安を解消しうる可能性を持っているということなのであろう。以前筆者は、「『働く』ことは収入を得るための『手段』でもあり、社会的承認を受けるための『契機』でもあり、自己実現のための『領域』でもある」と述べたことがあるが、働くことを複眼的に捉え直してみることが重要なのではなかろうか。

 「就労を通じての社会参加は、それがうまくいっている間は、個人の自尊心を安定させ、自己愛システムの作動に寄与します。なぜなら仕事は『生存の不安』を解消すると同時に、他者との関わりをもたらし、他者からの受容と承認を通じて、自己愛を支えてくれるからです」と述べていることからもわかるように、齋藤は「労働を通じての承認」を重視している。それは何故かと言えば、「福祉によって就労の義務を免除されることが安心をもたらす」のも確かであろうが、その一方で、「本人の自己愛を傷つけ、労働以外の活動に関わっていこうという意欲すらも奪っているような気がしてならない」と考えているからなのであろう。

 「就労の困難」を抱えた若者の場合には、短期間に正規雇用で就労できるようになることはなかなか難しい。そのために、アンペイドな就労体験、段階的就労、短時間就労、中間的就労、部分就労など、さまざまに表現されうる多様な働き方が求められることになるのである。言葉の本来の意味での、言い換えるならば働く側にエンパワーメントをもたらしうるような、「多様な働き方」が必要とされていると言ってもいいだろう。こうした働き方は、筒井らが言うところの「ネットワークが張りめぐらされた労働市場」における就労のようにも見える。労働力の需要と供給が、ハローワークとは異なって人的なネットワークを通じて媒介されてもいるからである。

 この間急速に広がってきた「就業形態の多様化」や「非正規雇用」のほとんどは、企業側にとって意味のある「就業形態の多様化」であり、企業の側から期待される「非正規雇用」に過ぎない。「高コスト体質」の是正ばかりを優先させたそれらの働き方では、「就労の困難」を抱えた若者たちが育てられ、彼らの自立が促されていくようには思われない。それどころか、「困難な就労」に無防備に曝されて、更なる「就労の困難」がもたらされていく可能性さえある。「ネットワークが張りめぐらされた労働市場」が求められる所以である。

 先の齋藤は「軽いうつ病やひきこもりのように、障害は持たないが正規の就労をするのはハードルが高い人々に対する、ほどよい就労支援の場所がほとんど存在しないという現状は問題です」とも述べている。彼は、宮本太郎を援用しつつ、社会的包摂を考えるならばたんなる経済支援では不十分なのであり、「労働を福祉の問題として考える発想」をベースに、「社会福祉としての就労支援」を考えるべきであるとの考えに立っているからである。「ほどよい」働き方としての中間的就労の必要性が、こうしたところからも浮かび上がってくるようにも思われるのである。

 第2節 就労支援と「困難な就労」の相対化

 「就労の困難」を抱えた若者たちに対する就労支援の試みは、支援の結果として、「出口」における就労を意識しているので、ワークフェアのひとつのあり方として位置付けられることになるだろう。埋橋によれば、ワークフェアとは「何らかの方法を通して各種社会保障・福祉給付(失業給付公的扶助、あるいは障害給付、老齢給付、ひとり親手当など)を受ける人びとの労働・社会参加を促進しようとする一連の政策」であると言う。就労支援を受けている若者たちの多くは、未だ「各種社会保障・福祉給付」の受給者ではないので、一見ワークフェアの対象外のようにも見えるが、放置されればそうした給付の受給者となる可能性が高まってしまうので、言ってみれば予防的なワークフェアということになるのかもしれない。

 就労支援が実りあるものとなるためには、「出口」の開発と創造の試みを欠かすことはできない。ではワークフェアとの関係では、そうした試みはどのように位置付けられるべきなのであろうか。埋橋によれば、「ワークフェアとは福祉から労働へと問題を『投げ返す』」ことを意味する。しかしながら、投げ返される側の雇用情勢は悪化しているので、ここに「ワークフェアのアポリア」が生ずるというのである。したがって、投げ返しただけでは問題が解決しないことはある意味では当然なのであって、現在のワークフェアの焦点は、「投げ返した後の所得面でのフォロー」や「就労そのものの位置付け」にシフトしているのだと言う。

 ここに登場するのがILOのディーセント・ワークである。「ワークフェアは就労することを第一義的目的とし、その労働の中身あるいは労働を取り巻く環境を問うものではない。その意味で『労働』はブラックボックス化されている」わけであるが、これに対してディーセント・ワークは労働のあり方をそれ自体として問題にしている。ブラックボックス化された労働の世界を、事後にではなく事前に規制することによって、低賃金と仕事の不安定性を軽減し、ワーキング・プアの拡大を最小限に食い止めようとしているからである。

 新自由主義の政策思想は、市場信仰を深めたあげくに、ブラックボックス化された労働の世界に対する事前の規制を緩和し、それを事後的に規制すればよいと考えてきたように思われる。しかしながら、そのこと自体がブラックボックス化を広げかつ深めてしまい、労働の世界を荒廃させてきたのではなかったか。世に言う「ブラック企業」がここまで蔓延してきたのは、ワークルールがもともと緩やかだった日本的な土壌(そうした土壌が「企業社会」を生み出したが、逆に「企業社会」がそうした土壌を広げてきた)のうえに、新自由主義の政策思想が加重されていったからに他ならない。ディーセント・ワークは、そうした今日の労働の世界のありように対する対抗軸ともなりうるのではなかろうか。

 ところで、先に齋藤が指摘していたような「ほどよい」働き方としての中間的就労、「ほどよい」就労支援の場所としての「中間労働市場」は、長時間の慢性的な残業や過大なノルマをともなった働き方を「あたりまえ」の働き方とはしないという考え方とも通底している。「もうひとつ」の「ほどよい」働き方は、たとえ部分的であったり潜在的であったりするにせよ、今日の「企業社会」における「困難な就労」に対する批判を含んでいるようにも思われる。

 「あたりまえ」の働き方にかなり高いハードルが設けられてしまうと、そこには至り得ない若者たちやそこから「脱落」した若者たちが絶えず生み出されることになる。こうした「就労の困難」を抱えた若者たちに対する就労支援のあり方を考えていくと、どうしても「もうひとつ」の「ほどよい」働き方が求められることになり、そのための条件としての「ネットワークが張りめぐらされた労働市場」が求められることになる。就労支援とは、そうしたニーズに応えようとする試みでもあるのだろう。

 今日の「企業社会」における「困難な就労」の現実を、あらためて見てみよう。2001年の厚生労働省労働基準局長通達によると、「発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できる」とされており、過労死・過労自殺の労災認定の際の重要な指標のひとつに位置付けられている。「過労死ライン」としてよく知られている。

 月80時間ということであるから、1ヶ月の労働日を20日とすると、1日4時間の時間外労働ということになり、これがが続くような状態では健康障害リスクが高まるというわけである。周知のように、労働基準法では「休憩時間を除き1週間について40時間を超えて、労働させてはならない」とされているので、これに週20時間(1日4時間、週5日勤務)の時間外労働を加えた週60時間の勤務が続くと、過労死ラインに達することになる。

 ところが、2012年の総務省の「就業構造基本調査」によれば、年間250日以上就業する男性の正規労働者1、310万人のうち、週60時間以上働いている労働者は297万人もおり、その割合は全体の22.7%を占めているのである。これを15~39歳の若者に限定してみると、先の数字は590万人中の152万人になり、その割合は25.8%にまで高まる。4人に1人が過労死ラインを超えて働いているというのであるから、驚くべき数字と言わなければならないだろう。

 しかも、上西の紹介によれば、株式会社ディスコの調査(全国の主要企業を対象とした2014年の調査)では、調査に回答した1,006社の採用担当者のうちの4割以上が、月80時間の残業では「ブラック企業」には当てはまらないと考えているのだと言う。わが国の労働時間を巡る諸問題については、鷲谷が繰り返し批判的な検討を加えてきたところであるが、「働き方改革」なるものが意味ある改革となるためには、彼の指摘があらためて振り返られるべきであろう。

 上記のような現実を眺めていると、わが国における労働の世界がどれほどブラックボックス化され、またどれほどインディーセントな働き方が蔓延しているのかがわかろうというものである。大津は、「近年、『ワーク・ライフ・バランス』(仕事と生活の調和)という言葉がよく使われる。が、若者のなかには、仕事と『生活』の調和はおろか、仕事と『生命』の調和が抜き差しならない状況にあるものも少なくない」と述べているが、実に真っ当な指摘であろう。

 過労死を生み出し続けるわが国では、ライフは生活の前提としての生命でもあったのであり、こうした社会における「あたりまえ」の働き方をディーセント・ワークの視点から包括的に見直さなければ、ソフトなワークフェアの成立する余地は狭まってしまい、「もうひとつ」の働き方としての「ほどよい」働き方が許容される柔らかな社会は生まれない。「就労の困難」の先には、「困難な就労」を巡るきわめて深刻な現実が横たわっているのである。