「就労の困難」と「困難な就労」(二)

 第1章 「就労の困難」とは何か

 第1節 「就労の困難」と若者-横浜市の調査結果から-

 よく指摘されているように、「就労の困難」を抱えた若者は、社会に出ることの不安や人間関係の不安から仕事探しに向かっていくことができず、孤立したまま立ち止まっており、また、教育からの排除の過程を通して、「就労の困難」を自分自身の資質や努力不足として受け止めているようである。では、こうした状況から彼らが抜け出していくためには、何が必要となっているのであろうか。興味深いのは、社会像や仕事観の再構築に注目している佐藤の指摘である。

 普通に生きることがあまりにも競争主義的なものとして受け止められたり、普通に働くことが余りにも非人間的なものとして受け止められてしまうと、そこに忌避感情が働く可能性は高くなるだろう。世の中における「あたりまえ」の働き方のレベルが上がり、「困難な就労」が普通の働き方のように見做されていけばいくほど、その「反作用」あるいは「副産物」ででもあるかのように、「就労の困難」が拡がっていくようにも思われるのである。

 社会像や仕事観を再構築することが必要であるとの指摘は、もしかしたら、現代日本社会の根幹に横たわっている「難問」を照らし出しているのかもしれない。グローバル化と情報通信技術の発達によって、「万能感」にでも覆われたかのように見える現代社会においては、人間像までもが誇大に膨らまされており、「できる」人でなければならない(言い換えれば、「できない」人はいらないということでもある)といった強迫観念がやたらに広がっているといった高垣の指摘もある。

 メディアの世界には、「コミュニケーション能力」を磨き、「即戦力」として「グローバル」に活躍し、会社が頼りにならないようであれば「起業」せよといったメッセージが溢れかえっており、そうした風潮に煽られながら「できる」人でありたい、「できる」人でなければならないとの思いが強まっているのかもしれない。われわれは、スーパーマンでもなくスーパーウーマンでもないのだから、そんなものは、常見が言うようにまったくの「幻想」に過ぎないのではあるのだが…。

 こうした「万能感」に溢れた社会に、何とか「適応」しようと悪戦苦闘している若者においてさえ、先程指摘したように、自己肯定感に恵まれているわけではないので、彼ら以上に自己肯定感の低い若者にとっては、学校から移行していく社会や卒業後に従事することになる仕事の世界のハードルは想像以上に高いものとして受け止められているに違いなかろう。言い換えると、「できる」若者から縁遠くなってしまった「できない」若者にとって、「できる」人々が活躍する世界へ移行するためのハードルはますます高くなり、そしてまた高くなったそのハードルが、「できない」若者の自己肯定感を一層低めており、そのことが「就労の困難」拡大しているようにも思われるのである。

 そうした「就労の困難」を抱えた若者の実態を探るために、ここでは、横浜市が2012年に実施した「横浜市における子ども・若者実態調査」の結果を紹介してみよう。この調査は、市内に居住する満15歳以上39歳以下の男女3,000名を、住民基本台帳から無作為抽出し、調査票を郵送し調査員が訪問して回収するという方法で行われたものであり、1,386名から調査票が回収されている(回収率46.2%)。若者を対象として比較的規模の大きな調査が実施されることになったのは、「就労の困難」を抱えた若者の存在が無視しえなくなってきており、横浜市もそうした問題に対して政策的な対応を迫られているからであろう。

 この調査が関係者に注目されたのは、ひきこもりとみられる若者(=ひきこもり群)が約8,000人、ひきこもりに近いとみられる若者(=ひきこもり親和群)が約52,000人にも達していることが明らかとなったからである。その数の大きさにあらためて驚かされたということであろう。市長はこうした現状を踏まえて、「若者への就労支援は特に注力してやっていきたい」と意欲を示したようであるが(『朝日新聞』2014年1月4日)、そう発言しなければならないほど大きな社会問題として浮かび上がってきたのである。

 この調査におけるひきこもり群とひきこもり親和群の定義については、内閣府の調査の際に用いられたものを踏襲している。ひきこもり群に含まれるのは、「ほとんど家から出ない状態が、6カ月以上継続し、かつ、疾病、介護、育児等をその理由としない者」であり、ひきこもり親和群に含まれるのは、「家や自室に閉じこもりたいと思うことがある等、心理的にはひきこもり群と同じ意識傾向を持っているが、ひきこもりの状態ではない者」である。この定義にもとづいて、10名(出現率0.72%)がひきこもり群、63名(出現率4.55%)がひきこもり親和群とされた。2014年時点での横浜市の年齢別人口をみると15~39歳層は113万6千人なので、これに上述の出現率を乗じて、市内のひきこもり群の若者の数が約8,000人、ひきこもり親和群の数が52,000人と推計されたのである。

 ひきこもり群の0.72%という出現率は、東京都の同種の調査と比較するとほぼ同じような水準となっているが、全国調査である内閣府の調査の1.79%と比較すると二分の一以下で、かなり低い。この種の調査の場合、冒頭でも触れたように実態が秘匿される可能性もあるので、全国調査でも出現率は実態よりも低い可能性が高いが、都市部における調査ではそうした傾向がさらに強まっているからなのかもしれない。そうだとすれば、横浜市におけるひきこもりの0.72%という出現率や約8,000人という推計値は、市の記者発表資料にあるように、「下限値」であると言って間違いなかろう。

 しかしながら、この数字はもうひとつの別な意味でも「下限値」である。先の数字は15~39歳の年齢層に限定されたひきこもり群を示していたわけであるが、現実には40歳以上のひきこもりもかなりの数に上っており、その存在が埋もれてしまっていることが、近年明らかになってきたからである。池上によると、この間さまざまな自治体で実施されたひきこもりに関する実態調査の結果によると、多くの場合その5割が、少ないところでもその3割が、40代以上であると言うのである。先に触れた内閣府の調査によれば、30代までのひきこもりは70万人と推定されたが、そうであれば、少ない方の3割をとった場合でも、ひきこもりは全国でおおよそ100万人にも達するような数となる。

 池上は、「働らけるのに働こうとしない」ニートと対比してひきこもりを論じており、こうしたニート論にはまったく同意できないが、ひきこもりに関する次のような指摘は傾聴に値する。「『ひきこもり』という状態に陥る多様な背景の本質をあえて一つ言い表すとすれば、『沈黙の言語』ということが言えるかもしれない。つまり、ひきこもる人が自らの心情を心に留めて言語化しないことによって、当事者の存在そのものが地域の中に埋もれていくのである。ひきこもる当事者たちの多くは、本当は仕事をしたいと思っている。社会とつながりたい、自立したいとも思っている。しかし、長い沈黙の期間、空白の履歴を経て、どうすれば社会に出られるのか、どのように自立すればいいのかがわからず誰にも相談できないまま、ひとり思い悩む」のだと言う。    

 第2節 「就労の困難」の現実-「排除」と「包摂」-

 「就労の困難」を抱えた若者たちの実相を、ここでもう少し踏み込んで紹介しておこう。湯浅等が編者となった著作において、底辺校と呼ばれる高校に勤務するある教師は次のように述べている。「(以前は)『てのひらから砂がこぼれ落ちていくように生徒がやめていく』というのを実感したが、今から思うとまだ『てのひらからこぼれ落ちていく』という感触があるだけでもましだった。現在受け持っている学年の生徒たちは、ほとんど『こぼれ落ちる』という感触もなく、学校をやめていく。もう退学・長欠は日常茶飯事になってしまっている」と言うのである。何とも寂寞たる教育現場の光景なのではあるまいか。

 底辺校において学ぶ若者たちは、たとえ卒業までこぎ着けることができたとしても、安定した将来を見通すことができるわけではない。そうであれば、「不透明な未来を見据えながら、日々の授業を受ける意味を見出すことはむずかしい」ということにもなるのであろう。中途で高校を退学することになった生徒たちは、学校からこぼれ落ちることによって、さらに孤立を深めていくことになる。これこそまさに教育からの排除である。

 こうした高校中退は、「人生の分岐点」だと指摘するのが青砥である。就業状況を見ただけでも、高校を卒業したかしないかで(高校中退者の最終学歴は、当然ながら中卒ということになる)、その後の人生のコースが大きく異なってくることがわかると述べたうえで、「子どもが教育から排除されれば、その後に続く人生の可能性が奪われる。貧困は子供たちから学ぶこと、働くこと、人とつながること、食べるなど日常生活に関することまでも、その意欲を失わせている。彼らから話しを聞いていくと、ほとんどの若者たちが、経済的な貧困にとどまらず、関係性の貧困、文化創造の貧困など生きる希望を維持できない『生の貧困』に陥っている。それが親の世代から続いている」と指摘している。こうした教育からの排除に伴う「生の貧困」は、家族資源の乏しい若者に集中しがちであり、それはまた次の世代に再生産されていくのである。

 無業の若者のなかにはホームレスとなった者もいるが、彼らを取材してきた飯島が言うには、「最初から労働を忌避していたという人はいない。労働忌避の傾向は、ホームレス歴が長い人ほど高まる傾向にある。就職が決まらない、あるいは採用されても劣悪な条件の仕事しかないことが原因で『働かない、働けない』状態に陥っていると言うことができるだろう。若者ホームレスは、学歴がない、キャリアを積めていない、コミュニケーション能力に乏しいなど、労働市場に参入されるための〝能力〟に乏しく、すでにスタート時点で大きな不利を背負っている」のである。

 さらには、「彼らの多くは仕事での〝成功体験〟や〝楽しいと思った経験〟がほとんどなく、過酷な労働やパワハラ、イジメなどによって、働くことに対して自信が持てない人が少なくない。そうした過去に加え、ホームレスという状態にあることで、『働きたくても働けない』状況に陥っている人もいる」ようなのである。まさに「困難な就労」を体験することによって、労働の世界から排除されているとでも言うべき事態が生じているのである。

 こうした現状を踏まえてみると、「就労の困難」を抱えた若者たちが直面している困難は、社会の基底をなす家族-教育-就労の連鎖のなかに埋め込まれた構造的な問題のようにも思えてくる。市場化された社会からその周辺へと排除された若者たちは、排除されているが故に市場においては不可視化されることになる。そしてまた、市場化された世界に生きる多くの普通の人々は、見えないものをあえて見ようとはしないのである。

 阿部は、「社会的排除」について以下のように述べている。この「概念は、資源の不足そのものだけを問題視するのではなく、その資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(例えば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての存在価値を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられる」という意味で社会的排除なのであり、この概念は「人と人人と社会との『関係』に着目した」ものなのだと言う。

 だが、市場化された世界のみでもって世間が成り立っているのかと言えば、実はそうではない。世間というものの間口や奥行きは意外にも広く、そこには市場化されていない世界も含まれているし、それが人々が生きるうえで重要な役割を果たしていたりもするのである。「就労の困難」を抱えた若者たちが増えていくと、当事者の近くにいる人々以外の普通の人々のなかにも、そうした世界に関心を寄せる人々が生まれ、さらには支援しようとする人々さえ出てくる。

 そうした支援のためのさまざまな運動の蓄積が、「社会関係資本」と呼ばれるようなものを生み出し、さらには、社会として包摂していくための理念(例えば「一人ひとりを包摂する社会」や「誰も置き去りにしない社会」など)と政策を生み出していくことにもなる。こうした「就労の困難」を抱えた若者たちに対する支援のため運動と理念こそが、包摂のための政策を生み出すのであり、このようにして、「社会的排除」の対概念としての「社会的包摂」が登場し、社会に認知されていくのである。

 先の阿部によれば、「私たちは、幾重にもいくつもの小さな社会に包摂されながら生きている。重要なのは、このような幾重もの『小さな社会』が、ただ単に生活を保障したり、いざというときのセーフティネットの機能を持っていたりするだけではない点にある。これらの『小さな社会』は、人が他者とつながり、お互いの存在価値を認め、そこに居るのが当然であると認められた場所なのである。これが『包摂されること』である」と述べている。こうした指摘からも明らかなように、包摂されることすなわち居場所があり仲間がいること自体が、人間が生きるうえで非常に重要なことだということなのだろう。

 では、「人が他者とつながり、お互いの存在価値を認め、そこに居るのが当然であると認められた場所」とはどのような場所であろうか。「小さな社会」も社会である限りは恒常性を持ち、そこでは各人がそれぞれの役割とでも言うべきものを持つことになるはずである。そんなふうに考えていくと、「小さな社会」というものが、徐々に就労の場へと接近していくようにも思われるのである。それはともかくとして、排除しようとするのも世間であり普通の人々であるが、逆に包摂しようとするのもまた世間であり普通の人々なのである。

 勿論のことながら、両者はまったく同一なわけではない。前者においては、企業の成長や競争や効率といった今日の社会ではリーディングな価値規範が強く内面化されているのであるが、後者ではそうした内面化は比較的弱い。社会の中心部は「企業社会」化しているとは言うものの、周辺部は非「企業社会」のままに残されており、非「企業社会」のありようは、「企業社会」の価値規範を相対化するような役割を果たしているようにも思われるのである。