「三橋國民鎮魂祈念館」から

 前回「自由民権資料館」を訪ねた話を投稿したが、書き残したこともあったのでそこから話を始めたい。「早春の上州紀行」と題してながながとブログに投稿してきたので、読まれた方はご存じかとは思うが、しばらく前に群馬に出掛けて養蚕、製糸、織物の世界を覗いてきた。だから、そうしたところに関心が向かうような心持ちになっている。頭の中にアンテナが張られると、関連した情報があれこれ引っ掛かってくるのものである。誰しもが経験することではあろうが…。

 訪ねた「自由民権資料館」では、二つのことを発見した。一つは、冊子『石阪昌孝の生涯』にあった「生糸地方有志諸君ニ告グ」と題した1880(明治13)年の文書である。解説には、「開港以降、武相地域に富をもたらした養蚕製糸業ですが、外国との通商上の不平等がさらなる発展を阻んでいました。 この打開のため、昌孝は、同郷の村野常右衛門らと東京生糸商会を設立し、商権回復をめざします。 その設立にあたり作成された、地域有志者への呼びかけ文です」とあった。他には、同じ年に作成された「東京生糸商会定款」などもあった。「地域産業の柱として養蚕製糸業を発展させるべく、それを阻害する外交上の不平等を打開しようというのが設立の目的」であったという。

 もう一つは、「自由民権資料館」の敷地の端にあった繭乾燥倉である。側に立てられた解説板によると、「この繭乾燥倉は、町田地域の農業が養蚕一色に染めあげられていた大正末期か昭和の初期に、町田市下小山田町大久保台・薄井孝吉氏宅の庭先に建てられたものです。繭は生繭で売られてきましたが、養蚕農家が「糸取り」をして生糸で売ると、より所得が多くなります。また、年間を通して『糸取り』をするには、乾燥繭として保管する必要が生じ、『絹の道』沿いの大きな養蚕農家の庭先には、この型の乾燥倉が建ち並びました。『絹の道』は『民権の道』とも言われています。 自由民権運動の母体となった養蚕農家の姿の一端を末永くとどめるため、ここに移築しました」とある。移築されたのは1989年のことである。

 その後この地域に広がっていた養蚕農家はすべて消滅し、繭乾燥倉もここにあるもののみとなっているのであろう。「絹の道」もわずかに道標として残るのみである。そんな思いでちっぽけな倉を眺めていたら、寂しさが募った。「絹の道」と関わって現在も残っているのは、もはや八王子-横浜間をつなぐJR横浜線のみである。たまたま知ったのだが、この鉄道は生糸の輸送のために敷設されたとのことである。

 「自由民権資料館」には、町田地域に広がった自由民権運動に関連した資料を集めに出掛けたわけだが、それとともに、もう一つの用件があった。ここに来れば、薬師池公園にあった「自由民権の像」の碑文がわかるかもしれないと思ったからである。デジカメで写真も撮ってみたが、碑文がうまく読めなかった。読めなければ仕方がないと諦めればいいようなものだが、そうはならないのがこの私である(笑)。

 学芸員の方に伺ったら、あの像の作者は三橋國民さんという方で、全文はこれですよとプリントされた碑文までいただいた。さらには、「三橋さんに関心がおありでしたら、町田駅のすぐ側に勝楽寺というお寺があり、その脇に祈念館がありますよ」と教えてもらったうえに、地図をコピーして印まで付けてくれた。何とも丁寧で心優しい対応である。ここまでされては、祈念館に出向かないわけにはいかなかろう(笑)。腰の軽い私は、「自由民権資料館」に出掛けた翌日、祈念館と勝楽寺に顔を出してみた。

 駅のすぐ側なので今回は電車で出掛けた。ターミナル口を出ると中央図書館があり、その隣が勝楽寺釈迦堂だった。そしてここが三橋國民鎮魂祈念館でもあった。入り口に立ったがドアは開かず、人がいる気配がない。インターフォンを押したら、用件を尋ねられたので来意を伝えたところ、ドアが開いた。後で知ったのだが、このインターフォンは少し先の勝楽寺の寺務所とつながっており、人が訪ねてきたときのみ開けるようになっていた。

 誰もいない祈念館のなかに足を踏み入れてみた。ここが釈迦堂と呼ばれるのは、1階から3階までの吹き抜けに大きな釈迦如来像の壁画があるからである(作品名は「潮音大仏」である)。そう言えば、この祈念館の入口の壁にも大きな釈迦の顔が飾られていた。館内の釈迦如来像の壁画も入口の壁の釈迦の顔も、もちろん三橋國民さんの作である。館内の至る所に三橋さんの作品が並んでいる。造形作家と言うだけあって、その作品群は多彩である。

 ここは「記念」館ではなく「祈念」館であり、三橋さんの生涯のテーマとなった鎮魂のための作品が並んでいる。ニューギニアでのあまりにも過酷な体験が、見る者を圧倒する。遠く離れた南の島で、土塊と化した僚友たちを偲ぶ三橋さんの思いが至る所に溢れている。飢えた兵士や動けなくなって銃口を口にして自決する兵士の姿が、体験にもとづいて描かれているので、薄暗くて誰もいない館内でそれらを眺めていると、自分自身が冥界に足を踏み入れたかのような錯覚さえ覚えて、少し怖くなってくる。

 置かれていた収蔵作品集と自選の句集は、持ち帰ってよいとのことだったので、もらってきた。『閑庭に風あり』と題された句集には、戦場体験者でなければ詠めぬ句もある。「戦友を葬る 椰子搏(う)つ 風の中」とか、「群れホタル 斃れし兵士の 影を描けり」などである。「そこはかとなき 朝露に 爪を切る」という句には、「追い込まれていく高射砲独立中隊 密かに爪を小箱に収めた」との自解があった。

 帰り際にもう一度大きな釈迦像を見て祈念館を離れ、次いですぐ側にあった勝楽寺にも出向いてみた。ここにも三橋さんの作品があった。お寺の方に彼のことを尋ねてみたら、三橋さんは勝楽寺の檀家の総代を長らく務められた方だとのこと。庭にあった大きな御影石には、次のような文字が彼の右肩上がりの自由な書体のままに刻まれていた。

 お~いどうしてる 南の島に土くれと化した 僚友たちに 呼びかけてみる

 寺務所には三橋さんの著書も置かれていたので、せっかくだからと購入した。『兵隊蟻の5000キロ』(NHK出版、2015年)と題されたこの本には、あのニューギニア戦線で何があったのかがさまざまなエピソードを通じて描き出されている。兵隊蟻たちのあまりにも過酷な運命は勿論のこと、上官の何とも破廉恥な行状なども。それらについてもはや触れる余裕はなくなった。敗戦の翌年、戦場から九死に一生を得て帰還したその日のことを、三橋さんは次のように書いている。

 その夜遅く、母と二人だけの布団を仏間に敷いてもらい、横になった。「母ちゃん、戦地ではいろいろなことがあったんだ・・・・・・」と私が小さい声で話しかけると、「……..ほんとによかったねぇ、お前・・・・・・ほんとにねぇ・・・・・・」と、ことさら噛みしめるようにして、 明治コトバでポツリとやさしくおっしゃった。更に私は、何をおいても聞いてもらいたかったニューギニア戦線での苦労話をと思い、「あのね……」と問いかけながら、母の顔を覗き込むと、母はもう微かないびきを立てて眠っていた……。あれからもう七十年になる。