早春の和歌山・奈良紀行(四)-伝統工芸の町奈良にて-

 最後は奈良の話である。調査旅行の二日目の夕刻、われわれは高野口から奈良に向かった。この日の夜は、奈良駅近くの繁華街にある居酒屋に出掛けた。定年退職後8年にもなる私としては、できることなら同じような老境にある人が、どんな暮らし振りなのか飲み食いかたがた聞いてみたかった。もう少しわかりやすく言えば、閑暇と退屈、侘しさと寂しさをどうやり過ごしているのかということである。具体的に何をやっているのかという興味も勿論あるが、それだけではなく、心持ちや心構えの方に私の関心はあったのだが…。柴田さんと原田さんそれに私の三人で同じテーブルを囲んだが、こんな組み合わせは社会科学研究所の調査旅行でしか見られないものであったろう。

 この間、湯浅と有田と高野口を訪ねたわけだが、湯浅については醤油の町、有田については蜜柑の町、高野口については織物の町と形容してみたが、では奈良についてはどう形容したものか迷った。歴史の町や伝統の町ではあまりにもありきたりなので、まほろばの町ではどうかなどとも考えたが、どうもしっくりこない。奈良での訪問先は「なら工藝館」であり、酒蔵である今西清兵衛商店であり、「ならまち」の散策であった。散策の最後に訪ねたのが元興寺(がんごうじ)で、ここで自由解散ということになっていた。どこもそれぞれに興味深い訪問先であったのだが、最初の訪問先である工藝館に因んで伝統工芸の町と形容してみることにした。

 奈良では、朝食後ホテルの向かいにあったお寺で写真を撮ったのを手始めに、あちこちでたくさんの写真を撮った。どこでも春の訪れを感じとれたからである。こんな撮影体験もいいものである。道路にカメラを向けていたら、同行の村上さんから「何を撮ってるんですか」と尋ねられた。しかしながら、どうもうまく答えられない。自分の審美眼を信じて写真を撮っているのだが、それを説明できないのはきっと自分でもよくは分かっていないからだろう。

 絵葉書にあるような写真を撮りたいわけではない。日常の世界に潜む美を撮りたいだけである。最近になって、たまたまひょんなことから、You Do Not Take a Photograph, You Make It.(写真は撮るものではなく、創造するものだ)という、アンセル・アダムスの言葉を知った。彼はアメリカの写真家のパイオニア的な存在だとのこと。TakeではなくMakeだという言い方に妙に納得するものがあった。素人が何を言うかと叱られそうだが、Makeの気概だけでも持ちたいと思った。

 最初に出掛けたのは「なら工藝館」である。ここは、日本の伝統工芸の原点を知り学ぶ場所であった。手にしたパンフレットには、平城京に都が置かれた奈良時代から話が始まっていた。奈良時代には適唐使や外国からの使節によって、遠くはベルシャ・インド・中国をはじめとするアジアの国々から、書物や国産品や服飾などのさまざまな文物が持ち込まれ、日本文化の発展に大きく貢献したと言う。この辺りのことはよく知られていることだろう。

 奈良に届いた技術の数々に、新たな工夫や創造が加わり、さまざまな形に洗練されて日本各地へと伝わっていった。 伝わった技術は、その地の素材と融合しながら独自の文化・文明として開化していくのである。今を生きる私たちに伝えられてきた工芸品の原点は、すべて奈良にある、そう言って過言ではなかろう。

 展示されていた主な工芸品は、次のようなものであった。奈良筆・奈良墨(書道文化を伝える筆や墨)、赤膚焼(あかはだやき、 奈良の風土を写した乳白色や優しいピンク色の釉薬が特徴の陶器)奈良団扇(ならうちわ、繊細な透かし彫り技術が特徴)、奈良一刀彫( 荒々しい彫り跡に極彩色を施した木彫りの人形)、奈良漆器( 奈良時代にシルクロードを経て伝わった技法にもとづく漆器)、奈良晒(さらし、麻の高級織物)、秋篠手織、鹿角細工、古楽面(こがくめん)。 いずれも伝統と格式を感じさせるものばかりである。

 それぞれに立派なものには違いないのだろうが、余りにも自分の日常の暮らしからかけ離れているので、まったく親近感が湧かない。同行のメンバーも同じような受け止め方だったのではあるまいか。工藝館の見学はほどほどにして、写真を撮りに町に出た。路地裏には興味の引かれる場所があれこれとあって、撮影対象には事欠かない。勿論ながら、だからといっていい写真が撮れるというわけではないのだが…。

 このブログの文章を書くにあたって、折角の機会だからと、われわれが伝統工芸品に距離を置いている理由を調べてみた。今ではAIがあれこれと教えてくれる。痒いところに手が届くような、何とも丁寧な教えっぷりである。今時の学生が、AIを活用して論文を作成しているような気分に陥ってしまった。

 その教えによれば、伝統工芸品に人気がない主な理由は、現代のライフスタイルからの乖離(使いにくさ)、高価格、そして認知度の不足だと言う。生活スタイルが洋風化し、安価で機能的な大量生産の品々が普及するなか、手入れが面倒で生活になじみにくい工芸品が需要を失っていくのは当然だったのかもしれない。また、後継者不足による職人の減少と技術の継承の断絶も深刻なのだという。こうした話は、別に奈良の工芸品にのみ当てはまるわけではなかろう。では、伝統工芸品の人気を高めるためには、何が必要とされているのであろうか。AIはそんなことさえも教えてくれる。

 現代のライフスタイルに適合した工芸品の開発だったり、それぞれの工芸品に込められたストーリーの発信だったり、デジタル技術を活用した販路拡大などが、重要なポイントとしてあげられていた。教えられていて妙に納得したのは、これまで芸術品や飾り物といった枠組みに留まっていた伝統工芸品の価値を、日常的に使える「洗練された道具」として再定義することが、持続的な産業振興の鍵になるとされていたことである。「洗練された道具」としての工芸品なら、私も興味を持つし買いたくもなろうというものである。

 次いで、「ならまち」散策の最後に訪れた元興寺(がんごうじ)について触れておきたい。私はこの寺についても何も知らなかったのだが、調べてみるとなかなかに興味深い存在だった。まずは、この寺で手に入れたリーフレットにもとづいて、その歴史から紹介してみよう。

 遠くインドの地で釈尊が開いた仏教が、中国・朝鮮半島を経て百済からわが国に伝えられたのは538年である。新しく渡来した異国の宗教の受容の問題をめぐって、崇仏・廃仏論争が勃発する。当時の進歩派であった蘇我稲目(そがのいなめ)が崇仏を主張し、一方、保守派であった物部尾輿(もののべのおこし)は排仏に固執し、両者の対立が50年近くも続くことになる。そのために、仏教にもさまざまな迫害が及んだらしい。

 しかし、587年になって、蘇我馬子はその甥の子であり娘の婿にもあたる厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし、排仏派の頭領であった物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼし、ようやくのことで日本に仏教受容の道が開かれることになったのだと言う。その翌年、馬子は崇峻天皇が即位したのを機に、飛鳥の地に初めて仏寺の建立に着手するのである。588年のことである。この寺が、われわれが訪ねた元興寺の前身である法興寺であり、建てられた地名から飛鳥寺(あすかでら)とも言われる。これが日本最古の本格的な寺院である。

 百済の国王は、この日本最初の仏寺建立を援けるために仏舎利を献じたのをはじめ、僧・寺工(てらだくみ)・鑪盤博士(ろばんはかせ、仏塔の相輪やその土台をなどの鋳造技術を持つ専門家)・瓦博士・画工(えだくみ)を派遣したという。その際瓦博士が造ったものが、日本最初の瓦である。その後この寺が奈良の現在地に移った際にも、この瓦は運び出され、現在の本堂と禅室の屋根に数千枚が使用されているのだと言う。特に重なりあった丸瓦の葺き方は行基葺きとも言われて有名らしい。日本最古だ有名だ貴重だなどと言われると、よく見ようとするのは俗世間の常であり、俗人を自認しているこの私もしっかりと眺めてきた。

 飛鳥寺は、わが国仏教の源流となっただけでなく、蘇我氏を通じて大陸文化を受け入れる中心舞台となり、さらには政治や外交の場ともなったようだ。いわゆる飛鳥時代の文化は、まさに法興寺を中心として展開したといって過言ではないとのこと。710年に奈良に都が移されると、この寺も718年に奈良に移設されて、寺名も法興寺から元興寺に改められることになる。その際、飛鳥の地名からとった飛鳥寺の名はそのまま継承され、新しく移った元興寺の寺地が平城(なら)の飛鳥と呼ばれることになったのだと言う。

 平安時代の前半期までは、元興寺は南都七大寺のなかでも指導的な役割を果たしたようだが、後期になると、官寺の支えであった中央政府の権力が衰え、荘園や寺領からの収入も減り、天台、真言系の新しい寺院の興隆や貴族と特別の関係を持つ寺院の強大化などにより、他の官寺と同様衰退していったようだ。その後の元興寺を支えたのは、政府や貴族ではなく無名の庶民たちであったらしい。浄土信仰の他に地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法太子信仰などが入り交じり、混沌とした状態で生き延びたのだと言う。寺の外観が予想外に小規模で落ち着いた構えだったのは、もしかしたらその所為だったのかもしれない。

 入江泰吉は、大和路の風景や仏像、行事を撮った写真家としてよく知られているが、彼の全6巻からなる作品集『入江泰吉 大和路巡礼』の第1巻は平城京となっており、そこに元興寺の写真が1枚だけあった。キャプションには「萩の願興寺極楽坊」とあり、次のような一文が添えられていた。「元興寺も南都七大寺の一つに数えられ、北の興福寺と同等の規模を誇る名刹であったが、今はわずかに子院極楽坊の、鎌倉期に改築されたという本堂と禅堂が遺るのみである」。

 戦後、史跡元興寺の境内が文化財保護法の指定対象となり、建造物や美術工芸品等の解体、修理、保存等が行われた。その過程で10万点を越す中世庶民信仰資料(重要有形民俗文化財) や仏像等が発見されている。この稀有で貴重 な資料の整理と保存のために、寺内に文化財研究所が設置され、今や全国各地の文化財の保存、修復、調査を手がける組織となっている。そして、1998年には「古都奈良の文化財」がユネスコの世界文化遺産として登録されることになったが、その際元興寺は東大寺や薬師寺などと並んで8つの構成資産の一つに選ばれている。元興寺の歴史と文化財保護の成果が評価されたのであろう。

 ところで、この元興寺には画家である須田剋太(すだ・こくた)のコレクションがある。彼の名前だけであれば知ってはいたが、元興寺との繋がりなどはまったく知らなかった。お寺の入口に『元興寺の須田剋太』(元興寺、2011年)と題した画集が置いてあった。購入したら荷物になることは分かっていたが、前衛的な画風の画家と旧い寺との繋がりが不思議に思われたので購入した。帰宅してからこの画集を開いてみて、数多くの彼の作品が元興寺に収蔵されていることを知った。そこには、「元興寺 須田剋太コレクション」と題した当時の住職森川潤善 の一文が掲載されていた。簡潔だが味わい深い文章である。少し長くなるが紹介してみよう。

 「元興寺の須田剋太コレクション」を総括すると、70点余からなるそれらはすべて、剋太の自選になり、仏前への寄進、すなわち「佛」に施入されたコレクションだと気づかされる。剋太の画業は50年余に及ぶ。元興寺はその後半・34年間を、泰園・泰範・秦善の三代にわたって真剣に、そして真摯に受け止めた。剋太による元興寺への施入は、元興寺に「佛」の存在を処太が感じた瞬間にはじまったように見受けられる。施入は元興寺に後事を託して彼岸に旅立つまで続けられた。

 剋太の画業といえば、個性を極めた絵や書や画賛などであり、これをもって芸術や美術とは無縁の人々の心を鷲別みして、人々の萎えた心を奮いおこし、喜ばせたのである。剋太は難解な画論も展開したが、その作品は画論とは全く別の明快さを見せ、これに触れた人々の心の深いところを愉快にした。作品が発する暖かい空気が、人々の石のように固まった心をも溶かし、柔らかく包みこんだ。

 このような大事が剋太にできた理由を憶測するならば、崇高なまでに澄み切った人柄ではなかったかと短絡するしかない。しかも剋太の「いい人ぶり」は、まさに天然のごとくであった。だが、画論のなかで執拗に示された暗号を深読みすると、はたして天然かと疑ってしまう。剋太は自身の弱さを克服して「よき人柄」を身内に築きあげたのではなかったか、と思える節がある。

 いわば、剋太の強烈な芸術家魂と、本来の繊細で心優しいぶぶんが、身内で激しくぶつかり、火花を散らし、爆発して、結果、それらの矛盾を融合結合させたのではないか。それは剋太が「芸術は絶対結合しない二つの矛盾を何らかの方法で結合させた瞬間に樹立される」と断じた基底部に該当しないか。剋太の「よき人柄」の獲得を詮索してみた。

 剋太は、無私無欲の「佛の境地」に向かって息もつかずつっぱしった。妹尾河童の「須田剋太という画家は、子どもで大人、鬼で仏の化け物だ」も同意であろう。役後20年を経たが、剋太人気に衰える気配はない。希有の美術蒐集家であった木村定三をして「絵描き業界の一人横綱」と言わせたが、何と大袈裟な、とは絶対に言いたくない。不思議なご縁によって、この図録編集のお手伝いを仰せつかった。少しでもお役に立てたらと気楽にお受けしたが、結果的には須田剋太に振り回され遊ばれた印象が強い。また、新たな試みとして、須田親衛隊とも呼ぶべき先賢達が剋太に捧げた言葉の数々、その一部を拝借し、剋太芸術の魅力を再確認した。先賢各位には、誌面を借りて感謝申し上げる。

 須田剋太の書画は、どれもこれも荒々しく大胆かつ奔放な筆使いを特徴としているが、上記の文章にもあるように、その内奥には煩悩を抱えるが故に佛にすがろうとする繊細で優しいもう一人の彼がいたのであろう。画集に収録されていた彼の短歌が、年を取ってすっかりささくれ立ってしまった私の心を、静かに慰めてくれた。 今日も見よ/明日も見よ/繰り返しあまた見よ/奈良の御仏 境内の草木に春の訪れが感じられた旅の終わりだった。