Shall we ダンス?

 この間「忘れられない小品から」ということで、あれこれと昔話を綴ってきた。そのうちまたそんな話をほじくり返して投稿したくなることもありそうな気はするが、今回はこの辺りで区切りを付けておくことにしたい。最後に取り上げるのはダンスにまつわる話である。

 自分史の記録を見ると、ダンスの競技会に初めて出場したのが2000年の4月であり、引退(こう書くと格好いいが、実は家人に見切りを付けられたのであるー笑)したのが2016年の1月であるから、ダンスとは16年ほどの結構長い付き合いになる。もっとも、その途中で勤務先の仕事がたいへん忙しくなったので、数年間のブランクがあったから、実際はもっと短いのではあるが…。

 2012年にはようやくC級にまで昇級した。しかしながら、その後私はそこで長らく低迷し続けたので、自分の能力に見切りを付けざるをえなかった。しかし家人は、あれこれと紆余曲折を経て最後はA級にまでなって一昨年引退した。見上げたものである。たいしたものである。そう言えば、寅さんの映画に出てくる啖呵(たんか)に、「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし、たいしたもんだよ蛙の小便」というのがあったが、まさにそんな感じである(笑)。

 自分がダンスをやることになるとは、もちろん私自身夢にも思わなかった。ごくたまに、飲み会の席などで知り合いにダンスをやっていることを話すと、いつも仰天される。「青天の霹靂」ということなのか(笑)。私などにはまるで似つかわしくないと思うからなのであろう。当の私には、驚かしてやろうなどといった気持などまったくなかったのだが…(笑)。

 では、何故そんなふうに驚かれるのであろうか。ダンスと聞くと、普通の人はいわゆる社交ダンスを思い浮かべる。パーティーなどでのダンスと言えばわかりやすいだろうか。そんなものと私が結び付かないのであろう。もちろん社交ダンスの愛好者も当然いるのだが、競技会で競うダンスとなると、社交ダンスとはまったく別物である。

 競技会のダンスは、運動量のかなり激しいスポーツである。社交ダンスと区別してダンススポーツと呼ばれるようになったのも、そのためだろう。一種目たった1分30秒ほど踊るだけなのに、姿勢とホールドをしっかり維持し背中のトーンを崩すことなくスムーズに動き続けられるようになるには、真剣に鍛えないととても無理である。

 社交ダンスにせよダンススポーツにせよ、まあ私の風貌や性格や思想からして似合うはずがないと思われるのも、ある意味当然と言えば当然なのかもしれない。周りの知り合いは、私がもともと田舎者であり、しかもかなりの恥ずかしがり屋だということを知っているからである。学生の頃は、田舎訛りが抜けなくて、「ダッペ」と呼ばれたり、「DAPPE」と書かれたこともあるぐらいである(笑)。

 当時付き合っていたカミサンからも、「ダッペちゃん」などと長らく呼ばれていた。そんなわけだから、特段嫌な思いで聞いていたわけではなかったのだが…。それはまあともかくとして、洗練されているとか垢抜けているなどとはとても言えない人間だったし、今も相変わらずそうだからである。今から考えると、都会的な洗練というものにどこか違和感を感じていたからなのかもしれない。

 そんな私がダンスを始めることになった顛末を、ちょっとした冊子に書く機会があった。2012年のことである。週2回通っていたダンス練習場で、ダンス仲間からたまたま依頼されたのである。中身はダンスにまつわる話であれば何でもいいということだったが、特段のことが書けるわけでもないので、「映画『Shall we ダンス?』から始まった」というタイトルで、下記のような文章を綴ってみた。掲載されたのは、町田市ダンススポーツ連盟が発行していた『STEP』の第28号である。以下がその全文である。

 ダンスを始めることになったのは、1996年にカミサンと一緒に映画「Shall we ダンス ?」(監督・周防正行)を見てからである。昔少しばかりかじったことのあるカミサンが、映画の後一緒にダンスをやらないかと言い出した。頭は禿げて猫背でO脚の私は、性格もシャイなので「柄じゃない」と即座に断った。

 暫く断り続けていたら「じゃあ、別な人とやるけどいい?」などとカミサンはのたもうた。別に愛妻家と言うわけではないのだが、何となく釈然としなかったので「そこまで言うなら、やるか」と仕方なしに重い腰を上げた。カミサンは早速近くの体育館でやっていたダンスサークルを見つけてきた。中年の人達が中心のダンスの愛好会である。

 「男は顔じゃありません、背中ですよ」(他には、「床を見てもお金は落ちてませんよ」というのもあった)などと、女性の先生から妙な励ましを受けながら(笑)、毎週練習しそれが3年ほど続いた。なかに熱心な人がいて、ペア・レッスンで競技会出場をめざすサークルを勧めてくれた。カミサンはすっかりその気になったようだ。1999年から新しいサークルに移り、競技会出場に向けて少しばかり真面目にダンスに取り組んだ。

 そうするとダンスが好きになり、好きになるとだんだんうまくなり、まわりの上手な人たちも応援してくれるようになる。3年かかって2002年に1級にまで昇級した。当時は二人とも仕事をしていたので、週一回の練習がせいぜいだったが、その程度でもそこまではなんとかなった。しかしこれまでのような練習では先はなさそうだったし、私の仕事も急に忙しさを増したので、夫婦での競技会出場は2003年で諦めた。

 だがカミサンは、好きなダンスに本気で打ち込みたかったようだ。あれこれ探し回ったあげくに、Sさんと組んでダンスを再開した。2005年に仕事を辞めてからは、一段と熱が入った。ダンスで生き生きするのは良いのだけれど、忙しく働いていた私はいつしか忘れられた存在となった(笑)。

 ダンスには順調な時期もあるが、苦しい時期もある。競技会の成績が芳しくなかったこともあって、カミサンはSさんとのペアを解消した。そうしたら抜け殻状態となりいつまでも元気が出ない。仕事もようやく一段落したので、私は長いブランクの後2009年にカミサンとダンスを再開した。 何だかかわいそうだと思ったからである(笑)。

 やり出すと熱中し過ぎるのがカミサンの困った性分である。私を一から鍛え直そうとしてうるさく指導し始めたが、自分のアドバイスを素直に聞かない私に業を煮やして、昨年からは先生に教えてもらうという迂回作戦を展開し、さらには私を成瀬選手会にも押し込んだ。ここまでされては私も腹を括るしかない。できたらカミサンを見返してやりたいものである(笑)。

 2011年の8月に岩手、宮城、福島と被災地を回ってきてあらためて思ったことだが、夫婦でともにダンスが出来るということはとんでもなく幸せなことに違いない。ダンスをめぐってあれこれあったとしても、このことだけはしっかりと肝に銘じておこうと思っている。

 以上が私の書いた文章である。練習場は、十日市場駅の近くにあった「ファレノ」というところだったが、そこで教えてもらった先生方や、そこで知り合いとなった多くのダンス仲間の方々は、その後どうされておられるだろうか。ダンスも3密の典型のようなスポーツなので、今は自粛の日々なのであろう。

 知り合いの方々も私と同じように年を重ねてきたわけだが、今もお元気に過ごされているだろうか。週に2回汗だくになって練習に励んでいたあの頃のことを、時折ふと懐かしく思い出す。