騒がしきことなど-松竹問題雑感-(中)

 前回は柄にもなく生真面目な文章を綴ってみたのだが、その書きっぷりがあまりにも真っ当すぎた所為なのか、投稿した後いつまでもざらついた気分が抜けなかった。老後の道楽で雑文を綴っている人間には、やはり相応しくないテーマだということなのであろうか。しかし途中で止めるわけにもいかないので、続きを書いてみる。相手を舌鋒鋭く批判する人を時折見かけるが、そんな人物であれば、自分に向けられた他者からの批判を、冷静に受け止めて自らを省みることができるのかと言えば、簡単にそうだとは言えないのではなかろうか。なぜ難しいのか。人は批判されるとついつい冷静さを失いがちになるからである。他者を厳しく批判する人ほどそうなりがちである。かく言うこの私もまさにそうなので、よく分かる(笑)。だから、批判された時の対応にこそ、その人物の実像が浮かび上がってくるに違いあるまい。春愁に身を委ねながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

 先月の半ばには、地元で共産党と後援会の共催で演説会が開かれた。私も誘われたので顔を出してみた。枯れ木も山の賑わいである(笑)。市会議員の候補者の方の話を聞いていたら、できるだけ自分の言葉で語ろうとする姿勢がうかがわれたし、応援弁士として多彩な方々が登壇したので、予想以上に面白かった。自由な言論の場が醸し出す雰囲気の良さであろう。候補者とゲストスピーカーに対しては質問コーナーが設けられており、なんでも聞いてみようということだったので、折角の機会だからと質問してみることにした。

 当日会場で挙手による質問を受け付けると、混乱しそうな気配があったからなのか、事前に質問書に書いて提出して欲しいとのことであった。私は別に会場を混乱させてもいいなどとは思ってもいないので、以下のような文章を質問書に書いて、事前に提出しておいた。「松竹さんに対する除名処分が、共産党の内外で注目を集めていますが、彼の主張のなかで私が関心を持ちましたのは、『異論を可視化』するためにも党首の公選制に踏み切るべきだとの意見です。共産党と国民の間にある見えないけれども根深い壁を壊すためにも、私もそうした方がいいのではないかと考えているのですが、○○さんはどのようにお考えでしょうか」。

 自分が聞いてみたいことを素直に聞いてみたまでのことなのだが、ゲストスピーカーの返答は、松竹さんの安保・自衛隊問題に対する考え方がいかに誤っているかということに終始して、私の質問に対する回答とは大分ずれたものだった。回答が終わった後、手を上げて「私の聞きたいのはそこではありませんが」と言いたくなったが、知り合いの司会者に迷惑を掛けそうだったので、自重した。相手の質問の意図をきちんと理解した上で、応答するというのが議論の大前提ではないかと思うのだが、そうはならなかったので、何やら松竹問題のミニ版を見ているような感じがした。松竹さんに同調してこんな質問をする人は、最初から「リスペクト」(普通に敬意を払うでいいはずだが)の対象外だとでも思われているのかもしれない。「自由な言論の場」と見えていたのは、どうも一見だったようだ。

 「党首公選制」の導入については、「党員の個性が尊重され、国民には親しみが生まれる」と題して、松竹さんは次のように述べている。「党首公選が数年に一回は実施され、何人かが自分の政策を掲げて出馬し、活発な議論がされることは、党内外にいい影響を与えると思う。 国民から見れば、『共産党は異論を許さない』『怖い』というイメージがあるが、それが目の前で払拭されていくことになる。党員にとっても、最終的には党の決定に従って活動するわけだが、自分と同じ考えの人もいれば違う考え方の人もいることを目撃することで、もっと自由に思考してもいいことが分かり、個性をもっと発揮しようとして活性化することになる。 政策的な意見の違いが公開の場で議論されることは、それほど重要なことである」。

 実に真っ当な指摘なのではあるまいか。とりわけ重要なのは、「もっと自由に思考してもいい」という点であろう。共産党に限らず組織に長く所属していると、ついつい「自由な思考」を忘れがちになり、「正しい思考」にばかり走りがちになる。そして、その結論を他人に教え諭しがちになる。さらには、「正しい思考」の人々とのみ付き合い、狭いサークルに閉じ籠もりがちになる。このあたりが国民との間に距離が生まれる根源なのではあるまいか。「党首公選制」などを導入すると、派閥が生じ分派が生まれてたいへんな事態になるとの批判もあるが、そうした批判に対する松竹さんの意見は次のようなものである。

 派閥のすべてが悪いものでないことは、共産党自身が認めてきた。志位氏自身、2021年の「赤旗」日曜版新年合併号で、「自民党はかつては保守政党として一定の幅をもっていたけれど、本当に狭くなりました」「安倍政権のもとで自民党は異論が押しつぶされて、モノトーン (単一色)に染め上げられました」と述べている。派閥争いが激しかった時代の自民党を評価しているのである。逆に、みんなが党首と同じことを言っていた安倍政権時代の自民党のことを、きびしく批判しているのだ。これは共産党もモノトーンではなく、「一定の幅」があることを見せたほうがいいと、共産党の党首が言っていることを意味する。

 こちらもまた実に真っ当な指摘である。他の政党をモノトーンであると批判するのであれば、自分たちもそうなっていないかどうか振り返ってみる必要があるだろう。もしかしたら、こうした当たり前の謙虚さがあまりにも不足していることが、大きな問題なのかもしれない。そこに気付くことのないいささか硬直した思考様式が、松竹問題を生じさせているようにも思われるのである。『しんぶん赤旗』紙上では、松竹さんに対する党の幹部の方々の批判が繰り返されたが、私の周りには、そうした記事を読むだけで松竹さんの本には手を触れようともしない人が多い。「正しい思考」にばかり寄りかかっていることも、共産党のゆっくりとした衰退を招いている一因なのではあるまいか。共産党員やその支援者が、揃って皆同じことを言っているようであれば、そのこと自体が何かおかしいのではないかと感ずるような、そんな奥行きのある柔らかな感性が必要なのだろう。

 松竹さんと同様の趣旨のことは、実は他の方も述べているのである。前回紹介した『希望の共産党』(あけび書房、2023年)を取り上げてみよう。この本の副題は「期待こめた提案」となっており、様々な分野で名の知られた方々が、共産党に期待を込めて自由に語っている。例えば、ドイツ文学翻訳家の池田香代子さんは、「党度高めのわたし」という何ともユニークなタイトルで(笑)、以下のようなことを書いている。少し長くなるが、たいへん興味深い指摘なので、ここであらためて紹介しておこう。

 2021年の1月、立憲民主党が代表選挙を行いました。自民党の総裁選ほどではなかったにせよ、記者会見やメディア出演、 公開討論会や演説会などを重ね、それなりに注目を集めました。 候補者それぞれの言葉に耳を傾け、政策や人柄や経歴を知るのは、興味深い経験でした。でも、わたしは少し物足りなくも感じました。 そして思ったのです、もしも共産党が代表選挙をこうしたオープンな、わたしたち党外の者にも見えるかたちでやってくれたらどんなにゴージャスだろう、と。政治家としての能力が高くて魅力的な人がこんなにたくさんいるのだから、と。 そして、そんな政治イベントを繰り広げたら、きっと共産党の人気は急上昇するだろう、と。

 共産党が党内で民主主義のルールに則って代表を選んでいることは、もちろん承知しています。 代表選びに限らず、内部ではことあるごとに喧喧諤諤の議論が繰り広げられているらしいことも、漏れ伝わってきます。なあなあで事が運ぶような文化を、この党は最初から持っていない。けれど、それが外からは見えにくい。もとより組織には組織のやり方があり、外部の人間が口を挟む筋合いのものではありません。しかし、いまだに共産党はなんだか怖い、閉鎖的だ、という印象を持つ人びとがいることを、そんな誤解は心外だと片付けるのではなく、むしろ真正面から受け止め、共産党のほうから打って出て、そうした先入見を霧散させてしまう時期にさしかかっているのではないでしょうか。

 以上が池田さんの書かれた文章なのだが、その最後は、「100年の年輪を刻んできた共産党には、これからも政治の確かな心棒として立ち続けてほしい。そのためには、この心棒をひと回り太らせてほしい。 この社会にまっとうさが復権する上で、共産党の働きに期待する向きは少なくないはずです」と結ばれている。何だか胸が熱くなるような共産党に対するエールなのではあるまいか。こうしたエールを、「結社の自由」などを盾にして無碍にするようであれば、何をか言わんやである。

 松竹さんに対する除名処分は、池田さんの他にもあちこちにいるであろう「党度高め」の人々を、きっとがっかりさせたことだろう。翻って思い返してみれば、実は『しんぶん赤旗』の書評欄にこの本が取り上げられなかったのは勿論のこと、広告さえも載ることはなかったのである。気に障る執筆者が入っているということなのだろうが、何と狭量で閉鎖的で大人げない振る舞いであることか。残念だと言うしかない。この場を借りて、ブログの読者の方々に『希望の共産党』そして『シン・日本共産党宣言』を直接手に取って、一読されることをお勧めしたい。プライドは低めだが「尿酸値高め」の私は、パソコンの前で居眠りしかけながらそんなことを考えた。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/03/08

春の愁いを感じながら(1)

 

春の愁いを感じながら(2)

 

 

春の愁いを感じながら(3)

 

春の愁いを感じながら(4)