真夏の出来事から(三)-関東大震災から100年目の年に(上)-

 果てしなく続くかとさえ思われた猛暑の夏も過ぎ去り、昨日10月9日などは初冬のような気温となった。あまりの変化の激しさに年寄りの私などはついていくことができず、風邪までひいてしまった。タイトルからも分かるように、最後にかなり重い話が残ったことになる。この夏の最も大きな出来事である。自分の考えを纏めることが難しく、なかなか気軽には書きにくいものだから、ついつい後回しになってしまったのである。こうしたことは世の常なのでやむを得なかろう。そんな時に心掛けるべきことは、考えを纏めようなどといった思い上がった気持ちを、あえて捨てることなのかもしれない。

 今年が1923年の9月1日に発生した関東大震災から100年目の年に当たることは、さまざまなメディアを通じて報道されたから、いくら浮世離れした私でも知ってはいた。関東大震災は、死者や行方不明者が10万人を超え、被災者も340万人を上回るような大災害だったわけだが、100年後の今日では、そう遠くない時期に南海トラフ地震が発生することが想定されるような状況にある。9月1日は防災の日となっているので、私もこの機会に防災用の備品が揃っているかどうかを改めて点検してみた。知り合いの話によると、大事なのはトイレ用品だとのことである。また、地震による死者は室内での家具等の転倒によるものが多いとのことなので、こちらもこの機会に再度見回してみた。

 しかしながら、私がここで書きたいのはそうした話ではない。注目すべきは、震災による大混乱の渦中に6,000人を超える朝鮮人(一部に朝鮮人と誤認された中国人や日本人も含む)が殺され、アナキストの大杉栄が伊藤野枝や甥とともに憲兵大尉であった甘粕正彦によって殺され、東京の亀戸署内では社会主義者の川合義虎や労働運動の活動家平沢計七ら10名が習志野騎兵連隊の兵士によって殺されたことである。辞書によれば、むごい方法で殺すことを虐殺と言うことだが、そうであれば無抵抗の人間を殺した上記の殺害はすべて虐殺である。さまざまな流言飛語が乱れ飛ぶなかで被災者保護を名目に関東一円に戒厳令が敷かれ、社会不安が一気に高まっていくのだが、朝鮮人虐殺事件はこうした異常な雰囲気のなかで発生した。

 朝鮮人による「暴動」や「放火」や「投毒」などといった根拠のない噂が広がり、恐怖に駆られた民間の自警団(在郷軍人会、消防団、青年団などで組織されていた)や警察官らが、朝鮮人と思われる人々を捕らえ棍棒や竹槍や刀などで殺害し、死体を川や海に投げ捨てたのである。死に直面した人々は、とんでもない恐怖に襲われ凍りついたことであろう。日本人が犯した何ともおぞましい事件である。私の住む横浜では、4,000人もの朝鮮人が殺害されたと見られている。いくら大混乱の渦中とはいえ、あるいはまた流言飛語が飛び交っていたとはいえ、まったく無抵抗の人間に対してこれほどまでに大規模な殺害が実行に移されたのは何故なのだろう。気になるのはそこである。

 その背景にあるのは、当初警察や軍隊によって流言飛語が公認されていたという事実であろう。だからこそ、民衆は自らの行為を正当化できたし、その結果虐殺にまで駆り立てられていったのではあるまいか。そして、この事件のおぞましさはさらに膨れ上がっていく。何故か。事件から100年後の今日に至るまで真相の糾明が放置されて、政府による事実の認定すらもなされてはいないからである。当然ながら、謝罪も慰霊も補償も行われてはいない。死者の魂はあてどなく彷徨うばかりである。それどころか、近年は虐殺の規模を過小に評価するだけではなく、虐殺もやむを得なかったといった言説まで登場しているようなのである。なんともグロテスクである。加害の過去と向き合うことを拒むことは、日本社会の宿痾のようでさえある。

 そんな時期に、近くにあるあざみ野アートフォーラムで「関東大震災、100年ぶりの慟哭(どうこく) アイゴー展」が開催された。前回のブログで紹介した宮内淳吉さんの「モザイク、フレスコ展」が開催されたところと同じ場所である。開催を知らせる記事が『しんぶん赤旗』(8月18日)に載ったので、近くだということもあって出向いてみた。会場には、韓国、在日コリアン、日本の美術家37名による多彩な作品が展示されていた。絵や写真や映像の他に大きなオブジェもあった。展覧会のタイトルにある「アイゴー」とは韓国語の感動詞であり、悲しい時や他者の痛みや無念の思いに共感した時に使われる言葉なのだという。歴史的事実が厳然として存在するので、「作品」としてのみ見ることなどとてもできない。暗澹たる思いで見て回ったが、この展覧会で購入したパンフレットには、以下のような挨拶文が掲載されていた。

 虐殺のキーワードは「不逞鮮人」。そもそもは植民地の日本人官憲がつくった造語であり、「不平をいだき、反逆をたくらむ、けしからぬ朝鮮人」の意味に至った。 今では決して使ってはいけないこのヘイトスピーチは、 100年前の日本で流行し、一般の日本人も平気で使った。これが 「投毒」、「放火」、「暴動」のデマを生み、日本の軍・警察・民衆による虐殺につながる思想的土壌となった。 デマのなかに「強姦」 もあった。朝鮮人は被害者なのに犯罪者にされ、 ジェノサイドが正当化されたのだ。100年たった今、 過去のものとなったのだろうか。 日本政府による追悼も、真相究明も、謝罪も、記憶の継承も、植民地主義の清算もなされないまま、忘却だけが強いられる日本社会で、虐殺された記憶をもつ私たち在日朝鮮人はその痛みから自由になることはない。韓国人、在日朝鮮人、日本人のアーティストが集まった〈アイゴー展〉は、アートを通じて各人各様に隠された記憶と痛みを表現してくれるだろう。金富子 (植民地朝鮮ジェンダー史研究) 

 会場を後にする際に、入口にあったパンフレットを何枚か手にしたら、思いもかけぬ発見があった。専修大学の田中正敬(たなか・まさたか)さんの講演会の開催を知らせるチラシもあったし、同じ大学を定年退職された新井勝紘(あらい・かつひろ)さんが所蔵されている、当時描かれた虐殺絵をプリントしたチラシもあった。多くの団体や大勢の人々が、この機会にあらためて過去と向き合い歴史の記憶を蘇らせようとしているのであろう。アイゴー展には、「傷はむき出しになってこそ癒やされる」と書かれた作品もあった。これも何かの縁かと思って、田中さんの講演をオンラインで視聴するとともに、新井さんの著作である『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』(新日本出版社、2022年)を読んでみた。

 田中さんの話は、「混乱の中で」といった言説が虐殺の自然発生性を印象づけ、事件の全容の解明を阻んでいるというものだった。彼によれば、政府が流言を流したという史料は防衛省にあり、朝鮮人殺害の記録も東京都立公文書館にあるとのことである。虐殺の背景として指摘されるべきは、日本の朝鮮に対する植民地支配であり、それに抵抗する運動に対して過酷な弾圧を加えてきたことだろう。朝鮮人に対する強い警戒心や恐怖心や憎悪の念は、そうしたところから生まれたに違いあるまい。それは政府や軍隊や警察にあっただけではなく、民衆の間にも広く浸透していたようである。先に紹介した「不逞鮮人」という言葉が象徴的である。だとすると、流言飛語は生まれるべくして生まれ、虐殺は起こるべくして起こったようにも見える。映画『福田村事件』を撮った森達也監督の言う「虐殺のスイッチ」は、何時入ってもおかしくはなかったのであろう。

 「真夏の出来事から」と題して書き始めた話は当初今回で終わる予定であったが、話があれこれと広がりを見せていくので、そうもいかなくなった。「アイゴー展」の会場で手にしたチラシのなかに、かながわ県民センターで開催されていた「戦争と加害のパネル展」の案内もあった。そこでこの機会に、こちらのパネル展にも足を運んでみた。「毎日が日曜日」のような暮らしなので、気が向けば何処にでも行くことができる。さらには、家人の勧めもあって評判となっていた映画『福田村事件』を観に出掛けたり、この事件を独力で掘り起こし著作にまで纏めた辻野弥生さんの『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』(五月書房、2023年)を手にとったりもした。それらの話については、次回に触れることにしたい。

(追 記)

 この間、ブログを書くために関連の著作を手にした。その中に関原正裕さんの書かれた『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相-地域から読み解く-』(新日本出版社、2023年)があった。この本では、主にさいたま市見沼区で起こった虐殺事件が取り上げられているのだが、そこにとどまらずに「帝国日本の植民地支配の構造の中に軍隊、警察、行政、司法、そして日本人民衆を位置づけ、それぞれの有り様と負うべき責任」を検討した、きわめて興味深い著作である。いつものように斜め読みしていたら、自警団の中で大きな役割を果たした在郷軍人を取り上げた章の中に、矢澤康祐(やざわ・こうすけ)という名があった。懐かしい名前である。彼もまた同じ専修大学の教員だった方だが、今はどうされているのだろうか。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/10/20

 

朝鮮人虐殺の記憶(1)

 

朝鮮人虐殺の記憶(2)

 

朝鮮人虐殺の記憶(3)