玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(完)

 大宰府政庁跡に佇む

 厳原を発って博多に向かったわれわれは、再び船中の客となって玄界灘を渡った。今回もまた拍子抜けするほど穏やかな海だった。福岡では九州経済調査会の方から、北部九州と韓国南部の経済交流についての話を聞いた。経済学部に所属しているというのに、経済交流に関する話についてはただ大人しく聞いていただけだったが、彼が主張した「ボーダーツーリズム(国境観光)」には興味をそそられた。

 初めて聞く言葉だったが、国境を挟む境界地域を「交流の最前線」として位置付け、観光を通じて関心を高めようとする試みなのだという。国境は、対立している時には「分断」が表面化することになるが、良好な関係の時には「交流」や「連続」の要因となるのであり、安全保障の観点からも「交流」と「連続」を重視すべきだというのである。

 玄界灘を挟んで日朝関係史に関わるあれこれを探訪してきたわれわれの旅は、まさにボーダーツーリズムそのものだと言えるのかもしれない。対馬を「国境の島」とのみとらえて、領土やら防衛やら自国中心的な歴史の視点ばかりを強調するのではなく、「交流の最前線」と捉え直す視点が私にはとても新鮮だった。

 対馬の若い経営者で 『知っとったぁ?こんな対馬の歴史!』(この冊子も厳原港の売店に置いてあった。発行は2009年の2月11日で、わざわざ「建国記念日」とルビがふられている)の著者は、対馬の歴史をあれこれ探索しながら、「日本人が天皇家を大切に想う気持ち」や「教育勅語」で説く道徳の大切さを称揚し、「日本国・救国の対馬三大聖地」の第一に金田城をあげたりしているのであるが、そんな彼女のような人物にこそしっかり聞かせたいような話だった(こんな冊子に対馬市教育委員会の教育長が「推薦のことば」を寄せているのを見て、いささかうんざりした)。冒頭で触れた朝鮮通信使なども、対馬との関係だけで見るならば、江戸時代の大がかりなボーダーツーリズムのようなものだったのかもしれない。

 旅の最後は太宰府天満宮である。土生田さんに引率されて天満宮と九州国立博物館(ここは、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える博物館」を基本理念としているという)を訪れた。穏やかな陽春の日差しに恵まれた天満宮は、ちょうど梅が見頃の時期と重なったこともあって、大勢の観光客でごった返していた。

 私は菅原道真にそれほどの関心はなかったので、あちこちをぼんやりと眺めてわずかばかりの土産物を買っただけだったが、同行の原田さんが道すがらとある立札を見つけてくれた。それは、私も卒業生の一人である県立福島高校の卒業生たちが、昨年「献梅」したことを記したものだった。こんなところにそんなものが立てられていて私も驚いたが、そう言えば高校の記章は梅だったから、そこから「献梅」に繋がったに違いない。昔歌った「記章は香りのいみじき梅花」で始まる校歌を思い出した。

 実は釜山でも、夕食時に皆で出掛けたレストランで、故郷の福島市から来たという中年女性の二人連れと出会った。町田さんに私も加わってあれこれと田舎の話題で話が弾んだが、旅をすると妙なところに妙な出会いがあるものである(笑)。

 ところで、太宰府天満宮の由来だが、道真は宇多天皇の信任を得て異例の出世を遂げ、醍醐天皇のもとで右大臣にまで上り詰める。しかしその後左大臣藤原時平の讒言で太宰権帥(ごんのそつ)として左遷される。中央政権から隔離されて何の実権もなかったようだから、軟禁に等しかったのであろう。失意のうちに道真が死んだ直後から、都では天変地異が相次いだため、貴族たちにはそれらは道真の怨霊のなせる業だと受け止められたらしい。そこで、道真の霊を鎮めるために政庁の外れに天満宮が出来たのだという。

 参拝を終え、最寄りの駅で解散となり、皆はそれぞれ帰路に就いたが、町田さんと嶋根さんは帰りの便まで時間があるとのことだったので、土生田さんの勧めに従って、三人で近くにある大宰府政庁跡にまで足を延ばしてみた。

 天満宮は人で溢れ返っていたが、政庁跡まで出掛ける観光客は殆どいないようで、実に静かな広々とした場所だった。大宰府は、律令国家体制の下に設置された地方の役所としては、最大のものであったという。「遠の朝廷」(とおのみかど)とも称されて、「白村江の戦い」に敗れた日本にとって、重要な防衛拠点として位置付けられていたようで、周辺には水城(みずき)が作られている。跡地に立つと大きな礎石がずらりと並び、芝生の外れには三基の石碑が寂しげにぽつんと建っていた。いかにも古代人の面影が偲ばれるような場所であった。

 付設の展示館を見て、次に戒壇院と観世音寺を巡った。静けさの中に佇む古刹には、何とも言えぬ趣がある。観世音寺の梵鐘はわが国最古のものだという。この寺の宝蔵には、大きな馬頭観世音菩薩立像をはじめ見応えのある仏像がたくさん並んでいた。

 太宰府天満宮で手に入れた『改訂つくし風土記』(つくし青年会議所、1989年)によると、小説「土」で知られる長塚節は、結核の療養で九州に滞在している間に、九州一円を旅し対馬にも足を延ばしている。「自然を酷愛」したという彼らしい。明治45年の「對州厳原港にて」という短文は、「對州へ渡るには博多から夜出て朝着く」との書き出しから始まる。今では信じられないほどの時間がかかったのであろう。

 その彼は、観世音寺がいたく気に入ったようで、何度も訪れたらしい。亡くなる前年の晩秋にも訪れて歌を詠んでおり、梵鐘に手をあて爪で叩いてその「かそけき音」を聴いたとある。「手をあてて鐘はたふとき冷たさに 爪叩き聴くそのかそけきを」と刻まれた歌碑が、観世音寺の参道脇にあった(あまりに達筆でまったく読めなかったので、帰宅してネットで調べてみた)。彼は翌年九州帝大付属病院で37歳の短い生涯を終えた。

 ところで、先の大宰府政庁跡の展示館には、詩人の安西均の「都府楼址」と題する詩が展示されていた。ここでいう都府楼とは政庁の別称である。その詩を紹介してみよう。

  むかし/ここに大宰府政庁があった
  身じろぎもせず眠っている/このさびしげな礎石のうえに/「遠の朝廷」がそびえていた
  旅びとよ/見えざる朱の円柱にもたれて/しばしを憩いたまえ
  見えざる甍を濡らす青磁の雨も/やがては霽(は)れるであろう
  まぼろしの朱雀大路のかなたから/淡い水たまりを踏みながら/天の牛車も帰ってくるだろう
  心しずかに砂の忍び音をききたまえ
  千年の梅が香を襟に挿して/ふたたび旅をつづけたまえ

 旅の終りに一抹の寂しさが募っていくのは、いつものことである。今回もまたそうだった。東京に向けて闇を駆け抜ける新幹線のなかで、もうしばらくは続くであろう人生という旅のことを、ひとりぼんやりと思った。

(付 記)

 私は毎週月曜日に教職員食堂で昼食を摂るのだが、そこには、出校日が重なっている魏さんがいつもいる。社会科学研究所が主催した調査旅行で知り合いになったこともあって、食事をしながらあれこれと取り留めのない話をする。そうすると、時に話は思いもかけぬ方向に広がっていくことがある。

 先日は、朝鮮の興味深い人物として私も関心を払っている李藝や李舜臣、安重根などについての話を、魏さんから聞いていたのだが、そうしたらその彼が、茨木のり子や尹東柱(ユン ドンジュ)を知っているかと尋ねてきた。茨木は好きな詩人のひとりだったのでそう答えたら、彼女の訳と編の『韓国現代詩選』(花神社、2007年)があることを教えてもらった。そう言われて、彼女が韓国に多大の関心を示していたことを思い出した訳だが、韓国の詩を訳していたことは知らなかった。教えられて急に読んでみたくなった。

 もう一人の尹東柱であるが、彼は1945年2月に福岡刑務所で獄死している。彼の名前だけは聞いたことがあって詩集まで購入していたのに、これまでまったく開いてもいなかった。『空と風と星と詩』(岩波文庫、2012年)というタイトルの詩集である。さっそく読んでみたが、「民族運動」を扇動したとして治安維持法違反で囚われの身となり、わずか27歳で獄死したこともあってなのであろうか、刻みつけられた言葉が静かに心に染み入ってきた。

 尹の詩集の冒頭に掲げられた「序詩」を紹介しておこう。そこには、日本によって侵略され続けてきた祖国と同胞を、「すべての絶え入るもの」とみて、それを恥じ入ることもなく愛おしまんとする「時勢にまみれることのない澄んだ抒情」(詩人の金時鐘(キム シジョン)による岩波文庫のあとがき)があった。

 奇しくも今年(2017年)は尹東柱の生誕100年にあたり、しかも今、現代版の治安維持法とまで評される共謀罪が大きな論議を呼んでいる。こんな時に彼の生涯を静かに思い起こすことも意義深いことであろう。そんなこんなで、魏さんに感謝したくなったこともあって、あえてこうした文章を付け加えてみた。

  死ぬ日まで天を仰ぎ
  一点の恥じ入ることもないことを、 
  葉あいにおきる風にさえ
  私は思い煩った。
  星を歌う心で
  すべての絶え入るものをいとおしまねば
  そして私に与えられた道を
  歩いていかねば。
  今夜も星が 風にかすれて泣いている。