玄界灘を渡って-2017年春、釜山、対馬、大宰府-(三)

 解放的な「エロばなし」のこと

 ところで、宮本の対馬に関する文章は、『日本残酷物語』の第二部「忘れられた土地」(平凡社、1960年)や『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984年)にも登場する。前者には、「対馬はむかしから大陸の文化がはいってくる関門であり、日本人のでてゆく関門でもあった。そうした特殊な地理的条件から芽ばえた、生き生きとした民衆の冒険心と活動力が鎖国によってたちきられたとき、対馬の人々の鬱屈と労働の物語がはじまるのである」といった興味深い文章も見える。

 彼が描く対馬の歴史も面白い読み物になっているが、もっと面白いのは後者の『忘れられた日本人』の方であろう。名著の誉れ高いこの本だが、昨年5月に前学長の矢野さんと相前後して亡くなった経済学部の松浦さんから、私は昔々に教えてもらった。酒飲み話のついでに、面白いから「土佐源氏」を是非読むようにと勧められたのである。性をめぐる話が好きなようだから、きっと関心を示すはずだと松浦さんは思われたのであろう。

 文庫本の解説を書いているのは網野善彦だが、彼は次のように指摘している。「就中注目すべきは、宮本氏が女性たちのまことに解放的な『エロばなし』をはじめ、ある種の性の『解放』について、各所でふれている点」であり、「宮本氏は男女の関係について、通常の『常識』と異なるあり方が庶民の世界に生きていることを語ろうとしているかにみえる」と。そしてそこには、「家父長制一本鎗の農村理解に対する宮本氏の批判的角度の意識的な強調」があるのだという。なるほどと思う。

 勿論私などは、解放的な「エロばなし」のみを抽出して「下心」丸出しで興味津々読んだだけなのだが、昔の日本人の間には何ともおおらかな性の世界が存在したことを知って驚いた。松浦さんに勧められた「土佐源氏」は、失明し乞食にまで身を落とした元馬喰が、自らの女性遍歴の数々を淡々と語ったものなのだが、そこには今風の下卑たいやらしさはまったくと言っていいほどない。以下の文章を読むと、その訳が垣間見られるのではあるまいか。落魄の身になってからの回想録だからなのか、どこか哀切な響きさえある。

 どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう。(中略)あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃアない。

 解放的な「エロばなし」は、『忘れられた日本人』の冒頭に置かれた「対馬にて」にも登場する。その様子を紹介してみよう。「対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。

 すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった」とある。明治の終り頃までは、対馬の北端には歌垣が現実に残っていたのである。

 これは1950年の対馬行での話だが、翌年には佐護に近い佐須奈(ここは鎖国体制下の徳川時代も開港場だった)で宮本は一升瓶をさげて60過ぎの婆さんたちの歌を聞きに行く。そして次のように書いている。

 相手がうたうとこちらにも歌を要求する。私はそんなに知っている訳ではないけれど、とにかく、すすめられると三度に一度はうたう。歌合戦はこうしておこるものだと思った。とにかくだんだん興奮してくると、次第にセックスに関係の歌詞が多くなる。若い連中はキャアキャアいって喜ぶが、ばあさんたちはそれほどみだれない。夜がふけて大きい声でうたうものだから近所の人も家の前に群がって来た。そうして三時ごろまでうたいつづけたのである。無論その間には話もはずんだのであるが、それではじめてこの地方の歌合戦というものがどのようなものであったかおぼろ気ながらわかったような気がした。

 このばあさんたちは、翌日佐須奈から厳原(いずはら)に向かう宮本たちをわざわざ港まで出て見送ってくれたようで、その写真が『旅する巨人宮本常一』に載っている。見送りの村人たちの端に居住まいを正して立つ彼女たちの姿が、何とも微笑ましい。

 『わたしの日本地図』によれば、ばあさんの一人は涙をためて次のような別れの言葉を言ったという。「もうお目にかかることはないだろうが、ゆうべのようにたのしかったことはなかった。死ぬるまで忘れないだろうが、あなたもいつまでもゆうべのことを忘れないでほしい」と。記者たちは、こんなことを書き留めている宮本の視線の温かさを、感じ取っていたはずである。彼は、「ノートを出しては気分がこわれるからと思って、ただきくだけにした」ようだが、歌合戦に登場した歌の歌詞とはいったいどんなものだったのであろうか。

 こんな話のついでに書き留めておきたいのだが、福泉洞から釜山港に向かうバスの車中で、ガイドの女性が韓国版の艶笑譚(コリアン・ピンク・ジョークとでも言おうか)を聞かせてくれた。一般の観光客の場合なら場を和ませるためにもっと早くに聞かせていたのかもしれないが、われわれが大学の教員一行だということもあったのか、最後の最後に聞かせてくれた。彼女の話によれば、韓国では女性の「あそこ」を果物に、男性の「あそこ」を火に例えるのだという。

 女性から紹介してみると、10代は胡桃、20代は栗、30代は蜜柑、40代は西瓜、50代はトマト、60代は柘榴、70代は棗、80代は花梨に例えられるとのことだった。それに対して男性は、10代は燐寸、20代はライター、30代は薪、40代は焚火、50代は煙草、60代は火鉢、70代は聖火、80代は蛍、90代は鬼火だという。私は大いに笑いころげ、忘れないようにとメモまで採った。

 彼女は、女性不在の気安さからか「そのこころは」というところまで話してくれたが、そこまであけすけに書くのは、いかに品性下劣な私でも気が引けるし社研の関係者に迷惑を掛けそうな気もするので、更に詳しく知りたい方がいれば(真面目な同僚諸氏ばかりなので、恐らくはいないであろうが)、直接小生に尋ねていただきたい。