瀬戸内周遊の旅へ-2017年暮、鞆の浦、尾道、松山-(二)

 尾道と千光寺

 福禅寺を後にしたわれわれは尾道に向かい、ロープウェイで千光寺公園に登った。瀬戸内が一望出来る見晴らしのいい公園だった。冬なので花を見ることはなかったが、暖かくなれば様々な花々が咲き誇るのだという。山頂からは、「文学のこみち」を歩いて麓まで降りたが、冬の午後かさかさと乾いた土を踏んでいたためなのか、あるいはまた、ゴツゴツした岩が目立った道のためなのか、「文学のこみち」といった表現から連想されるような、柔らかな雰囲気は余りない。

 千光寺の本堂前で手に入れた『千光寺と文学のこみち』には、こみちの至る所で目にした歌碑や句碑、文学碑が紹介してあった。しかしながら、尾道に縁のある人々がいささか雑然と紹介してあるような気もして、ここにも「俗」を感じないではなかった。

 私などがまったく知らなかった人物で目に止まったのは、江見水蔭(えみ すいいん、1869年に岡山に生まれた明治の小説家)の句碑である。そこには「覚えきれぬ 島々の名や 夏がすみ」とあった。もう一ついい句だと思ったのは、現代の俳人として著名な鷹羽狩行(たかは しゅぎょう)の句、「海からの風 山からの風薫る」である。どちらもともに単純かつ素朴な句だからなのだろうか、「俗」を感じさせることのない、何とも爽やかで清々しい印象ばかりが残った。亡くなった多辺田さんなら、一体どんな句を詠んだであろうか。

 私のような年寄りにとっては、尾道と言えば志賀直哉であり、林芙美子であり、小津安二郎である。志賀直哉の碑には『暗夜行路』の一節が刻まれていた。『暗夜行路』は、高校二年の時の夏休みの課題図書として読まされたような記憶が、ぼんやりとだがある。その時に、読んだ証拠として主人公の時任謙作の名前ぐらいは覚え、彼の人生に対する苦悩の一端は分かった気になったものの、余りにも幼ないまま平凡な高校生活を過ごしていた私には、あとは何も理解出来なかった。

 今から考えると、「高等遊民」である主人公が、出生の秘密や妻の不義に懊悩し、自己と外界との葛藤に苛立ちながらも、やがて大自然の懐に包まれるなかで自己の再生を果たす物語など、私のような人間に分からなくて当然であったろう。奥手の私は、数年前に精読する機会があって、その時にようやく『暗夜行路』の面白さを実感出来た。読みかけの途中で本を閉じるのが惜しくなったからである。

 その碑にあるのは次のような一節である。「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰って来る。其頃から、昼間は向い島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す」。千光寺の鐘の音は、尾道で暮らす人々にとって特別なものがあるのだろう。そんなことも窺わせるような碑文である。現実の碑文には句読点はない。パンフレットの表記にはわずかな誤りがあったが、それはご愛敬と言うものであろう。

 このパンフレットによると、碑文は直哉の懇望によって画家の小林和作が筆を執ったとあった。聞き覚えのある名前だった。だいぶ前になるが、東横線の日吉駅前にある貸本屋兼古本屋に入った際に、彼の画集を買ったことがあったからである。好きな画家中川一政に似た筆致のようにも思われて、ついつい購入したのである。彼は戦前尾道に移り住み、以後亡くなるまで40年間に渡って尾道を拠点に絵を描き続けたという。

 美しい構図を求めて全国を歩き回ったためなのか、尾道を描いた絵は大部の画集の中にわずかに1枚しかない。尾道の名誉市民にもなっているので、この地とはきわめて縁の深い人物だったのである。小林の好きな言葉だと言う「天地豊麗」をタイトルにしたこの画集(求龍堂、1974年)には、彼自身の解説が載っている。生まれの良かった彼だが(あるいは、そうだったからなのか)、そこには「世の金持ち面をする人や貧民を見下す人達は大キライ」であり、「民衆画家」の一人でありたいと書かれていた。

 この小林は、手元においてあった『TRAVEL MATE 日本の旅情』シリーズの一冊(国際情報社、1970年)に「古き美しきまち」と題したエッセーを書いていた。それによれば、尾道は江戸時代には「瀬戸内海では十指のうちへ数えられるほどの賑やかな要港」として栄えたので、当時は「中国筋の遊里の番付の筆頭であったほど賑わった」ようである。経済的に豊かであった証拠に、「昔は寺院が八十一ヵ寺もあり、今日でも二十四ヵ寺を数えるほどの全くの寺の町」であり、「安芸の宮島とならんで中国路きっての文化財都市」なのだという。寺が多い町だということは知っていたが、その背景には港町としての繁栄と富の蓄積があった訳である。

 『暗夜行路』と尾道

 ところで、直哉が東京から尾道にやって来て、千光寺の中腹にある三軒からなる棟割長屋の奥の一軒を寓居としたのは、29歳になった1912年末のことである。ここに翌年4月まで住み込み、後の『暗夜行路』に繋がる草稿を執筆したという。

 『暗夜行路』によれば、主人公時任謙作は自伝的な小説を書くために、「山陽道の何処か、海に面した処で、簡単な自炊生活をする」といった計画を立て、それを兄に相談すると、「尾の道へ行くといい。尾の道はいい処だよ」と教えてもらう。尾道に着いた翌朝、謙作は千光寺に向かうのだが、その途中の崖の上に見つけたのがこの棟割長屋である。『暗夜行路』には、尾道の人間もそして長屋からの景色も、だいぶ気に入った様子が描かれている。

 当時の棟割長屋は、『暗夜行路』によればかなりガタピシしていたようだが、今はその長屋が修復されて志賀直哉旧居として残されている。わずか半年ばかり住んだだけの長屋だが、名作に登場する寓居だということで、保存されているのである。この旧居も文学記念室も当日は運悪く休館で、中に入ることは出来なかったが、外から眺めただけでも、直哉の佇まいを感じ取ることが出来た。以前私は学会のついでに、奈良の高畑にある復元された直哉の旧居にまで足を延ばしたことがある。いかにも端正で静謐な住まいであったが、その時と似たような雰囲気を感じさせる旧居跡だった。

 井伏鱒二には、「志賀直哉と尾道」と題したエッセーがある。1935年に書かれたこのエッセーによると、彼は修復前のあばら屋となっていた長屋を訪ね、関係者と会って話を聞いている。同じ長屋に住んでいた田組アイ婆さんは直哉を尊敬していたらしいが、近所の人たちは彼をいささか怪しげな人物だと思っていたようだ。「朝は遅くまで寝てゐて、夜になると何やら机の前でつらそうに考え込み、時によっては、たとひ夜中でも不意に東京に行って来ると婆さんに言い残して街におりて行く」のだから、そう見えたのも当然であったろう。

 その後しばらく経って、直哉から『暗夜行路』がアイ婆さんに送られてくるのだが、字が読めないので仲良しの村上というおばさんに読んでもらうことになる。そのうち、雨の降った日や仕事が暇な時には、近所の長屋に住むおかみさんたちが、アイ婆さんの家に集まって村上のおばさんの読む『暗夜行路』を聴いたらしい。就中、尾道を描いたところなどは繰り返し朗読し、おかみさん達は声をそろえて諳誦までしたらしい。

 井伏は書いている、「『暗夜行路』の愛読者は全国に何百萬人あるかしれないが、こんなにうっとりとこの小説を読み込んだものは、尾道の寶土寺裏に住む長屋のおかみさん達ではなかったろうか」と。文学にとって何と幸せな時代であったことだろう。